ルールは超えられないのか?

ボクシングの村田諒太の試合で、再戦を指示したWBAの会長が、試合でのジャッジのうちの二人を半年の資格停止にしたことは、少し考えさせられる事態ではある。
例えば、今の森友学園の問題は、だれがどう見たって、真っ黒なのに、ただただ、直接の総理大臣の「犯罪」が立証されていないという理由で、総理は責任から逃げている。
しかし、総理自身がもしも自分や妻が関わっていたら、総理を止めると言っていたわけであろう。そして、どうだれが見ても、奥さんがこの問題にどっぷり関係していたことは申し開きの立たないことなわけであろう(というか、この奥さん。元電通社員なわけで、その辺の専業主婦と同じに考えていたら、それこそ足元をすくわれるわけであろう)。
そんなにまで、総理大臣を続けたいなら、「あのときは勢いでそう言ってしまったけれど、すみませんでした。次からは気をつけます」と言って国民に許してもらえばいいわけであろう。しかし、それもできない。
結局、この問題において、総理の「法律上」の責任を「立証」する「証拠」がないというだけで、このまま知らぬ存ぜぬで貫くなら、ますますの政治不信となるだろう。
確かにボクシングのルールを考えるなら、試合の結果をひっくり返すことはできない。村田が負けた事実は現前としてある。しかし、WBAの会長が「再戦」を語っているということ自体が、実質的な村田の「勝利」を意味しているわけであろう。
しかも、あまりにも重要な問題として、ジャッジの二人の処分が、実質的な、「制裁」になっているわけであろう。
同じようなことが、安倍首相にも言えるのではないか? 今、安倍首相の奥さんは、ほとんど公務をやっていないという。しかし、このこと自体が、

  • 安倍首相への「制裁」

と変わらない効果をもたらしている、と考えられる。やはり、明確な牢屋に入れられるための、明確な犯罪が立証されなくても、どう考えても「おかしい」、道義的な「責任」というのは、あるわけで、それをWBAの会長が、半年の資格停止という形で、

  • 責任

を明確にされたわけであろう。こういった問題が隠される社会の方が害悪は大きいのであって、やはり道義的な責任を軽んじる社会の政治は「腐敗」するわけである...。