アンゼルム・W・ミュラー『徳は何の役に立つのか?』

ここのところずっと問題にしている、東浩紀先生の「観光客の哲学」であるが、そこにだれも触れないが、非常に問題が大きいと思われる記述がある。

たとえば少子化問題を考えてみよう。ぼくたちの社会は、女性ひとりひとりを顔のある固有の存在として扱うかぎり、つまり人間として扱うかぎり、けっして「子どもを産め」とは命じることができない。それは倫理に反している。しかし他方で、女性の全体を顔のない群れとして、すなわち動物として分析するかぎりにおいて、ある数の子どもを産むべきであり、そのためには経済的あるいは技術的なこれこれの環境が必要だと言うことができる。こちらは倫理に反していない。そしてこのふたつの道徳判断は、現代社会では(奇妙なことに!)矛盾しないものと考えられている。その合意そのものが、ぼくたちの社会が、規律訓練の審級と生権力の審級をばらばらに動かしていることを証拠だてている。国民国家は出産を奨励できないが、帝国は奨励できる。それが現代の出産の倫理である。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

???
何を言っているんだろう?
あのさ。ツイッター上で、東浩紀先生の「観光客の哲学」が

  • 素晴しい

と言っている人たちって、こういう一つ一つの発言を「吟味」したのか? いい加減な考えで、礼賛してんじゃねーよ。
まずさ。「ある数の子どもを産むべき」って、一体、どこでそうなっているの? 誰がそう言っているの? それは、上記の表現と同じ意味なの?
今どきの、2ちゃんねらーだって、「ソース」くらい示すよ。お前は2ちゃんねる以下かw 適当な、どうとでもとれるような、質の悪い文章ばっかり書いて。恥ずかしくないのか。いい加減、その癖直せよ。社会人だろ。イカサマ詐欺師。
いい加減、厨二病を卒業しろよ。ポエミーなw、しょーもない駄文ばっかり、デビューからずっと書きやがって。
なにが矛盾なの? というか、誰がこれを矛盾だと言っているの? あんたが今、勝手に、そういう話を今ここで、でっちあげただけじゃないか!
人々が子どもを産むのは、子どもを産みたいからに決まっている。人間ならそう思うにきまっている。しかし、さまざまな「いきさつ」から子どもを産まないで終わる人はいるだろう。それはそれで、一つの「結果」であって、そのことが、子どもを産むことが

  • 目的

とされているわけじゃない、ことを示している、と言うこともできる。この社会の環境の改善は、人々の「幸福」、つまり、住みやすさや、日々の生活レベルの向上を目的に行っているというか、そういったことが、民主主義的に「合意」されているから、行政もそう動いているに過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。そういった人々の「幸福」の中に、子どもを産むことも入っているにきまっているし、まさにあんたが言うみたいに、子どもを産むことが

  • 目的

とされた戦争中だったら、「人殺し」をさせるために子どもを産みたくない、と覚悟を決める人だって考えられるだろう。つまり、まったく言っていることが逆なのだ。
それにしても、びっくりするよな。ここで言っている、「ある数の子どもを産むべき」って、なんなんだろう? 一体、どういう文脈から、この発言が、ひねくりだされたのだろう? 東浩紀先生なりの

  • 人間は滅びてはならない

的ななにかなのだろうか? 滅びたら、自分の本が未来人に「評価」してもらえない的な何かなのだろうかw もしも人間が、未来に生き残るべき「価値」がないと、未来の人間が判断したなら、彼らは人間という種の存続を選択しない、ということになり、滅びるのかもしれない。しかしそれは、「倫理的」な判断なわけであろう。これと、東浩紀先生の言う

ってなんの関係があるんだろう。東浩紀先生はおそらく、人間がどんなに非倫理的になり、悪そのものになっても、

  • ある数の子ども(=悪そのもの)を産むべき(=生き残るべき)

ということが言いたいのかな...。なんか、猛烈な徒労感がありますね。
なんで、こういった変な話になるのかな、と考えてみると、いわゆる「近代哲学」がダメなんじゃないのか、と思うときがあるんですよね。
いわゆる、デカルト哲学ですけど。
なんか、そういった「トレーニング」を積んできた人であればあるほど、変なことを言っている。まあ、「文系」的なレトリックですよね。非常に「単純」な、「文法」的な表現で、なんでも「説明」していくから、数学で言えば、全部「群論」レベルの変換規則で証明的な説明を並べていく。でもそれって、しょせんは「線形性」のレベルの話なんだよね。わかんないんだけど、なんか、「哲学」っていう、ものすごい難解な「パズル」のようなものを想定していて、そのパズルを解けるのは、自分のようだ、大学で特殊なトレーニングを積んできた人だけなんだ、といったような(まあ、意味不明の輸入本を翻訳しているだけの毎日だったんでしょうけど、なにかしらの「達成感」はあったんでしょうねw)。
その辺りを、掲題の本を読んでいての「違和感」で説明していこうと思うけれど。

ヨーロッパにおいて長い間、道徳性に関する、すなわちよい行為やよい振舞いの尺度に従って人間の生活をどう導くかに関する考察の中心をなしていたのは、徳という概念であった。

プラトン以降18世紀に至るまで、道徳哲学とは本質的に徳倫理学だったのである。

20世紀になるとさらに、日常のプライベートな議論においても公の議論においても、次第に徳概念からの離脱が進行する。

ところが、最近になって再び「徳の流行」というべき事態が生じている。

上記の説明を見ると分かりやすいが、ちょうど「徳」の衰退期が、

の流行である時期に対応している。いずれにしろ、掲題の著者は以下のように「説明」して、この本で「徳」を「理解」することを目指すと言うわけである。

それでは、「徳に向かって突き進め!」と言うべきだろうか、。このどちらが正しいかはさておき、本書の論考の目的は人々に徳を説くことではなく、徳を特徴づけること、つまり徳の本質や価値を正しく理解することにある。

さて、掲題の著者が言う徳を「理解」するとは、どういうことなのだろう? 最初に目につくのは、以下の説明である。

たとえば糸ノコという概念には、初めからこのタイプのノコギリの使用目的が含まれれいる。この目的(合板の切断など)が、よい糸ノコにとっての基準、すなわち、糸ノコの目的を無条件に達成してくれる様々な性質の総体を定めるのである。これらの性質の中の一つを欠いている場合、たとえば糸ノコの刃が鈍い場合、この欠陥はその糸ノコを悪い糸ノコにするのである。

うーん。これって、もろ「デカルト」的だよね。いわゆる「分割」ですよね。糸ノコの「使用目的」を「分割」していけば、有限の範囲で「列挙」できる、ということなのでしょう。つまり、「徳」は

  • 対象

なんだ、と掲題の著者は言っているんだよね。
そうだろうか?
もしもそうなら、「徳」は、「一般的」に、つまり、有限の範囲で「説明」できる、ということになっちゃいますね。
例えば、こんな例を考えてみよう。ある、左利きの人がいたとする。その人が、右利きの人たちの意見を集約して作った「理想」の糸ノコを使おうとしたら、とてつもなく「使いにくい」となったとしよう。さて

  • 理想

とはなんだろうw
そもそも、西洋における「徳」論は、プラトン以来、以下のようにまとめられる。

西洋の徳論は、プラトンの伝統を引き継いで、人間の道徳的な資格付与の核心を、特に重要とされる四つの徳の習得に見出している。四つの徳とは、思慮(あるいは知恵)、正義、勇敢さ(あるいは勇気)、そして節制である。

こうやって見るとよく分かるけど、正義、勇気、節制って、みんな

  • 相手(=二人称)

に対して使われる概念ですよね。私が「がまん」するときって、相手に迷惑をかけちゃだめだと思っているときでしょう。私が「勇気」をふりしぼるのは、助けたい相手のために行うわけでしょう。私が義に答えようとするのは、不正義によって打ちのめされている相手が「かわいそう」と思うからでしょう。
みんな、

  • 二人称

の概念なんだよね。
そもそもデカルトの「分割」や「延長」って、そうやって「観察」している自分と、その「分割」や「延長」を行おうとしている対象とが

  • (数学的確率論の意味での)独立

だと思っているから成立しているんだよね。自分に関係なく、対象が「ある」から、その性質とかを云々できるのであって、もしも、自分の「態度」が相手の「状態」に大きく影響するなら(数学的確率論の意味で独立していないなら)、そんなことはできないわけでしょう。それこそまさに、二人称的な「倫理」そのものなんだよね。
例えば、量子力学がなぜあんな「変」な理論になっているかといえば、ようするに、観察する人と「(量子力学的な)対象」が、(数学的確率論の意味で)独立していない、ということなんでしょ。まあ、人文系の対象だって、それと同じってだけだと思うんですけど、なんでそれが分かんないんだろうね。それだけ「哲学」っていうカテゴリーは、文系の人にとって

  • ボクノサイキョウノ「哲学」

っているほどに、無敵感がハンパないってことなんですかね...。