北田暁大・栗原裕一郎・後藤和智『現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史』

イギリスのロンドンで、タワーマンションが火の海に飲まれた光景は、あっけにとられたというか、あれを見て、高層マンションはダメだな、と改めて思わされた。
高層マンションは火が覆い始めると、まず、高層の人は逃げられない。それだけでも、人が済む場所としてはふさわしくない。
よく、東京はウサギ小屋で、これが、「先進国」かと、中国の都会出身者が日本に来て、バカにするんだそうが、むしろ合理的だよ。人間は、あんな高い場所に住むべきじゃない。日本のマンションでは起きえないとか、専門家は言っているそうだけど、そういう問題じゃないだろう。そもそも、高層階の人は逃げられないことが問題じゃないか、と言っているのであって、そもそも、このマンションだって、行政側からなんらかの「指導」を受けていた、と言っているわけであろう。
なぜ、こんなことになるのだろう? いや。逆なんじゃないか。そもそも、こんな高層マンションが人の住む場所として機能しうるのか、という問いが最初になければならないのではないか。
しかし、おそらく、これからも世界中で高層マンションは建てられ続ける。そして、専門家は「日本では絶対起きませんから」と言って、人々に高層マンションを買わせようとする。
まあ、これが

  • 専門家

の役割なのだ。
私は掲題の本を読んで、三人の中で重要なのは、後藤和智さんの一貫した宮台批判・東批判だと思っている(掲題の本を読んだが、北田さんは同じ社会学者なんだから、宮台がどれだけ害悪があるかは、ちゃんと論文としてやんなきゃおかしいし、そもそも思想地図とかいうやつで、東浩紀先生と「つるんで」いた、張本人なわけでしょう。また栗原さんがこの本で言っている内容はそもそもツイッターの、どこぞのクラスターという「内輪」でもりあがっているネタみたいな話ばかりで、そんなにすごいことを発見したというなら、学会に論文でもだせばいいわけで、そういうどうでもいい党派的な話は、死ぬまでツイッターでやっててくれ、ってことでしょう)。
後藤さんの慧眼は、宮台さんや東浩紀先生が、90年代の「酒鬼薔薇聖斗事件」を境にして、彼らが

  • 若者

を説明する「論客」として、マスコミに扱われ始めたことの深刻な問題が、あまり世間に理解されていない中で、一人、孤軍奮闘している印象を受ける。

北田 後藤さんは東浩紀(思想家、一九七一年生)さんの『動物化するポストモダン』(講談社、二〇〇一)を、若者批判として取り上げましたよね。『動物化するポストモダン』自体が若者批判だったのかというのはちょっとわからないんです。JR東海の『WEDGE』的な世界観における若者批判----「最近の若い奴はけしからん」といった論調----とはだいぶ違う気がする。後藤さんが「若者がバッシングされている」と感じたとすれば、どこにそれを感じたんですか?

しかし、この認識は決定的なように思われる。北田さんが『動物化するポストモダン』を

  • 若者問題

と捉えていないというのは、なぜそういった認識になっていたのか?
今さら言うまでもないが、宮台さんが論壇に登場した最初はブルセラ問題であった。つまり、「若い人」の性の問題から入った。そして、オウム真理教酒鬼薔薇聖斗と、基本的には

として、その「抽象度の高い=哲学的」な議論が(ルーマン社会学と自称wしていたわけだが)、なんらかの「正当性」があると世間で受け取られた。東浩紀先生は基本的に、この宮台さんの「役割」を継承する形で登場した。そして、『動物化するポストモダン』は明らかに、そういった宮台さんの「若者」論を、継承する形で議論が整理されている。そこでわざわざとりあげられた、エヴァンゲリオンや、ギャルゲーなどのいわゆる

と呼ばれたサブカルチャーは、そういった宮台さんの「若者問題」系の議論を補う形で、議論が展開されている。
私は、この二人が決定的に「害悪」のある議論をしたものこそ、彼らの酒鬼薔薇聖斗問題についての考察だったと思っている。
例えば、今でもよく、ニュースで、のら猫が、どこかの人間によって

  • 虐殺

されて、明らかに人によって「虐待」を受けて殺されているのが見つかることがある。そして、それが「大量」に発見されると「事件」になるのだが、多くの場合は、そこまで発展しないため、そのニュースは人々から忘れられる。
しかし、酒鬼薔薇聖斗は彼が殺人を行う前に、動物で「実験」をしているわけですね。
宮台さんは、酒鬼薔薇聖斗問題を考える上で、「脱社会的存在」と言った。そして、基本的にはそれに対応する形で、東浩紀先生はそれを「動物化」と呼んでいる。もちろん、ここでの「動物化」の概念には、オタク的生態だったり、新自由主義的なサバイバル社会を生き抜く「サバイバー」的な比喩が重ねられたりしているわけだが、大事なポイントは、それが

  • 脱社会的

であることの延長で、彼らへの「エリート教育からの排除」といった命題が、その一点において二人には共鳴していた、というところにあったわけであろう。

「幸せは人それぞれ」。都会には都会の、田舎には田舎の、エリートにはエリートの、大衆には大衆の、幸せがある。多くの人が幸せになれるルールを考えることがエリートの幸せだ。大衆は、専門的なことはエリートに任せて、それぞれ幸せになる道を考えればいい。
これは、長い目で見てぼくたちの「選ぶ能力」を上げる方法だ。民主制を否定するんじゃなく、うまく機能させるために、みんなで決めるんじゃなくて「エリート」が3つくらいにルールの選択肢をあらかじめしぼって、大衆に聞く。さもないと失敗をくり返しているうちに死んでしまう。

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

実例を挙げよう。ドイツでは小学校高学年の段階で、エリートになる学校に行くかどうかを決める。エリートにならないと決めたら、そのあと早い段階でどんな仕事に就くかを決め、専門的な訓練を始める。小学校高学年の段階で決めて、あとで選び直す子もいる。
多くの子どもはそこで決めた道を歩む。親や子どもは、絶えず選択に迷ったり競争したりする必要を、まぬがれる。いつまでもエリートを目指して競争するのは、つらい。だったら、さっさとあきらめて、あきらめたあとは自己を卑下せず、エリートを尊敬するのがいい------。
14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

宮台さんが実際にその実行に関わっていた「ゆとり教育」は、そもそも、

  • エリート教育

のためのもので、つまりそういった「エリート」教育の恩恵にあずかる、ほんの一握りの国民

  • 以外

をさして「ゆとり教育」と一括されたのであって、こういった認識は、上記の「脱社会的存在」の議論と、ひとつながりに理解されなければならない。東浩紀先生はこれを「動物化」と

  • 言い換えた

に過ぎなく、二人はまったく「同じ」問題をずっと語っている。
ようするに、二人にはこういった長い「文脈」の中での、御用学者としての共通の「目標」がある。それは、いかにして、エリート以外の

  • 無駄

な教育予算を削減して、それを「エリート」に集中させるか、という。つまり、彼らのあらゆる議論はその一点のために、すべて構成されているのであって、私には一度たりとも、彼らが「それ以外」のことを語っていると思ったことはない。
大事なポイントは、そういった問題を「実証的」に、つまり、学問的にやってくれるんだったら、どうぞご勝手に、ということになるのだが、彼らはそれを

  • 哲学(=抽象的議論)

によって、世の中を「けむにまいた」わけであろう。普通の人が一度聞いただけでは理解できないような、抽象的な議論を「煙幕」にして、ブルジョア的な価値を、大衆に受け入れさせようとした。変な保証書にハンコを押させようとした。私が不快なのは、そういった哲学だとか、形而上学だとかいった、言っている本人自身が、自分が何を語っているのかを分かっているわけもない、意味不明な戯言を「はったり」で語ることで、素朴で純真な大衆を「だまくらかそう」とする、その「イカサマ詐欺師」っぷりであって、それ以外ではないわけである...。