思考女子

アニメ「とある科学の超電磁砲」の第一期の前半(第1話から第14話)と、アニメ「TARI TARI」はどこか似ている。もちろん、話の内容は言うまでもなく、まったく違っているが。
それを私がどういうところに感じるのかといえば、佐天涙子と坂井和奏が、ということになる。しかし、そう言っても、この二人が「同じ」というには、全然違うわけで、その意味がなんなのか、ということであるが、まあそれを「陰のある」感じと言ってもいいのだが、もっと言えば、

  • 周りの環境によって「思考」することを強いられている

と言えばいいのかもしれない。つまり、登場人物が「考えている」わけである。
アニメ「とある科学の超電磁砲」の佐天涙子は、表面的には毎日をバカをやって、楽しく過しているが、そこにはどこか陰がある。それは、この世界が非常なまでの「学歴社会」だから、ということになる。彼女は「レベル・ゼロ」である。つまり、超能力の才能がない。そのことは、彼女の通う超能力開発学校では致命的である。そして、そういった延長上で、彼女は「危険」な道具に手を出してしまう。
他方、アニメ「TARI TARI」の坂井和奏は、音学科の高校に入学したのにも関わらず、途中で、普通科に転入する。それは、高校受験の直後に亡くなった母親の影響であることが、作品が進むごとに分かってくる。音学家の母親と、幼い頃から音楽を楽しんで過してきた彼女が、母親の死をどうしても受け止められない長い時間が描かれる。
ここにあるのは、言ってみれば、彼女たちは

  • キャラではない

ということなのだ。キャラとは、アニメ作品を作るときによく言われる、定型的な「性格」や表面的な見た目の「特徴」などを、順列組み合わせ的にパッチワークしていき、作品を構成するような、一種の物語の作成技法のことだと考えてもいい。また、心理学者なら、学校のクラス内での「キャラ付け」といった形で、クラス内で個々の生徒をより「差異化」させるために、その生徒本人が「自覚的」に「演じる」形式によって説明するかもしれないが、いずれにしろ、ここで問われているのは、そういった「差異」が、何を起因しているのかを問わない、というスタイルなのだ。
しかし、こういった作品スタイルについて議論したものに、東浩紀先生の『動物化するポストモダン』をあげることもできるだろう。そこにおいては、例えば、エヴァンッゲリオンの綾波レイのああいった性格分類が、多くの作品の中のある登場人物において類型的に見られることが強調されている。
なぜ「キャラ」なのか? それは「ポストモダン」と関係する。ポストモダンとは「ポスト・ヒストリー」である。コジェーブによるヘーゲル解釈をベースにした東浩紀先生の『動物化するポストモダン』は、「歴史の終わり」と「大きな物語の終わり」を平行して議論する。「歴史の終わり」とは

  • あらゆる「目的」の終わり

を意味する。つまり、すべての「目的」が達成された後(=ポスト)、においては、人間はなんの「目的」もなく、ただただ「消費」して過ごすだけの存在になる、というもので、それがコジェーブにおいては、アメリカであり、日本に求められた。ポストモダンは、そういう意味において、

  • 悟り

の時代を意味する。一切が「悟り」という層に見られており、もはや「細部」は後景化する。物語の「消滅」と、登場人物の「キャラ」化は平行する。登場人物は、作品の最初から

  • 完成

されており、一切の性格の変化は起こらない。すでに最初から「完成」された存在として現れ(だから、それを「キャラ」と呼べる)、彼らには一切の「悩み」といった様子は見あたらない。
そういった傾向を示したアニメとして、「けものフレンズ」を考えてもいいだろう。フレンズたちは、すでにその「動物」という特徴から、「性格」が決定している。フレンズは見た目は、少女のようであるが、徹底して

  • 大人

である。独立自尊していて、まったく「動揺」する姿を見せない。常に、泰然自若としていて、全てのキャラがまるで、道教の修行僧のように、達観した発言をする。
ただし、唯一の例外を除いて。それが、「人間」のかばんちゃんだ。彼女だけは、次々と目の前に襲ってくる困難に悩み、思考して、立ち向かい、状況を打破していく。つまり、彼女は

  • 動物ではなく人間

だということを、そのことが意味している。この場合、人間とは「啓蒙」とほぼ同値の意味で呼ばれていると解釈できるであろう。人間は悩み、今、目の前にある困難に「抗う」存在として定義される。
それに対して、ポストモダンはそういった人間の、「人生の目的」を否定する。ポストモダンは「悟り」モダンと言ってもいい。常に、なにかを「悟って」いて、常に、上から目線で、だれに対しても「説教」をする。彼らは、常に「はったり」を言っていないと気がすまない。
対して、佐天涙子と坂井和奏には、そんなに簡単に「悟れない」人間の性(さが)が描かれる。彼女たちは「人生の目的」に悩む。それに対して、「ポストモダン・ボーイ」は、東大に入学するような奴等で、なんの悩みも抱える暇もなく、なんなく東大に入ってしまうような奴等であり、そういった

  • 人間的

な悩みに直面することなく、周りの大人たちを得意の「はったり」で言いくるめてきた連中だと言えるだろう。
それは、もっと言えば、文系的「ゲーデル不完全性定理」の典型的な特徴だと言ってもいいのかもしれない。「ゲーデル不完全性定理」は自然数についての本質に迫った数学理論であることから、彼ら文系ポストモダン

わけであるw つまり、「無限」を乗り越えるw それが彼らが「ヘーゲル」を乗り越えたことを意味し、すべての哲学、すべての「人間」を乗り越えたことを意味する。彼らは

  • (文系的)メタ

を語り、この人間界の全てを「乗り越えた=終わった」諸相から世界を眺めるのであり、だから彼らは「偉そう」なわけであるw
私はこの問題をもう一度考えてみようと思ったきっかけとして、高野苺の漫画『orange』第6巻を読んだから、というところがある。私はこの第6巻に、あまりいい印象を受けなかった。それは作者自身が後書きで書いているように、この第6巻は、自殺をした翔(かける)を好きだった菜穂(なお)をずっと好きだった須和(すわ)のプロポーズを菜穂が受け入れる場面が描かれるわけだが、これは「10年後」に描かれることを想定したものであった。というのは、もしもそう描くのであれば、菜穂(なお)の翔(かける)への「恋愛」が、ある種の

  • 同情

としてのものであったことを、もう少し「残酷」に描かなければならないのではないか(この後書きで、第7巻を予告しているので、もしかしたら、そういったアフターストーリーを考えているのかもしれないが)。
対して、新川直司の漫画『四月は君の嘘』はどうだろうか? 私は以前はこの作品に否定的だった。しかし、最終巻の第11巻を読んで、ずいぶん印象が違った。第11巻は、宮園かをりが有馬公生に出会うまでの彼女を描いているわけだが、そこで描かれる彼女は、いわば、有馬公生の視点から描かれるような

  • 超越的

な存在ではない。彼女は、普通の女の子として自らに迫り来る「死」の恐怖に悩む存在でしかない。そのちっぽけで、凡俗な、通俗的な、ただの「女の子」でしかない彼女を、これでもかと描いている。つまり、彼女はずっと前から、ただの、音楽の世界ではヒーローだった有馬公生にあこがれる、どこにでもいる

  • オタクのファン

でしかなかった彼女の姿が描かれる。つまり、だから有馬公生は最終巻の最後で、すがすがしい表情をしているわけである。
ここには「悟り」がない。偶像がない。たんに、二人が重ねた日々の記憶だけが存在し、こうして短い人生を<真剣>に生きた彼女へのリスペクトだけが、最後に残ったわけである...。