貴族主義を標榜する千葉雅也先生

この前紹介した篠田英朗先生の『ほんとうの憲法』については、今週の videonews.com にさっそく登場されて、分かりやすい説明だったわけだが、聞いていて、なるほどな、と思わさせてもらった。
一つのポイントとして、この日本国憲法が、アメリカ占領軍によって、ドラフトは書かれていて、特に前文の変更を彼らが嫌がった、という説明が印象的であった。つまり、前文の「信託」というのは、まさに、アメリカ国憲法の精神そのもので、それは、フランスやドイツの「ルソー」的な社会契約論とは違う。ジョンロック的な思想を、色濃く残している。
「信託」とは、「社会契約」ということである。これは、people がこの憲法を起草し、まさに、「政府」を立ち上げようとしている、そういった「組織体」と、

  • 社会契約

をする、という思想なのであって、ここにはお互いの「約束」がある。
こういった考えは、まったく、ドイツ的な「哲学」における、「国家=人格」的な思想とは違ったもので、「政府」から people から、さまざまな「主体」が乱立し、それぞれが、さまざまな「社会契約」を行っているような、ジョン・ロック的な世界観が見えてくる。
私たち people は、こういった「政府体」がここにおいて成立するにおいて、そことなんらかの「契約」を行う。つまり、その「政府体」に「これこれ、こういったように運営してくださいね」とお願いして、彼らに「信託」しているわけである。
そういう意味で、私たちはルソーのように、別に、自分の「意志」が「一般意志」だなんていう「擬制」を必要としない。その「政府体」と people が「違う」のは当たり前で、そんなところに争点はない。
では、私たち people はこの「政府体」に何を「お願い」しているのだろうか? それが、憲法本文の前半の中心議論である。

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
e-GovSearch

おそらく、ここが日本国憲法の最も重要な場所である。この「政府体」が people に求められたのは「基本的人権」をひたすら守ることである。このために、この「政府体」はたちあげられたのであり、ただただ、ひたすら、これを追及することをもって、people はこの「政府体」への「信託」を続けると主張している。
そして、それをより具体的に語っているのが以下で、13条では「幸福追及権」の「最大限の尊重」を、この「政府体」に約束をさせているということであり、つまりはこの「約束」を破った時点で、この「政府体」には正当性がなくなることを念押ししているわけである。
また、14条では「法の下の平等」を述べているわけだが、わざわざ

  • 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

と念押ししている。
大事なことは、これは、アメリカ国憲法であり、国連憲章であり、そのアメリカがドラフト段階で関わった日本国憲法が共通してもっている「思想」だということであり、そこにおいては、この三つはまったく違わないわけである。
ところが、である。
哲学者wの千葉雅也先生は、下記の対談において、次のような形で、「貴族」の復活について述べている。

千葉 そこが厄介ですね。、無意識ダダ漏れという民主主義の徹底状態になっている。
國分 そこは確認しなくてはいけない。現代における民主主義的なものの徹底が持つ二面性を見据えなければ、今起こっていることは理解できないと思う。民主主義的なものの徹底が二面性を持つという事実から目を背けてはならない。
すると、この現状において「言葉の力」を訴えることは、ある種の精神的な貴族制を肯定することにつながると思うんです。
千葉 なるほど。貴族制までとは言わずとも、ある種の「貴族的なもの」ですよね。
國分 僕は今そのことばかり考えています。実際、今アーレントをよく読んでいるんだけれど、彼女も現代における「精神的な貴族制」の消滅を問題にしていました(『人間の条件』ちくま学芸文庫、一九九四年、一五頁)。
千葉 例えば、東浩紀さんたちが『思想地図ベータ 日本2・0』(ゲンロン、二〇一二年)で憲法草案をつくりましたよね。あそこでは参議院の代わりに日本国籍の人以外も含む世界の哲学者や賢者が集まる上院を置くべきだとされました。東さんは『一般意志2・0』(講談社、二〇一一年)でニコニコ動画的なワイワイとヤジが飛ぶような政治空間を一方で支持しているわけだけれど、それに対するスタビライザーとしての貴族院的発想が必要だと思っているわけです。ここでの話はそれとも共通する危機意識なのではないかとも思います。
國分 僕にとって貴族的なものというのはずっとテーマとしてあって、『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、二〇一一年/増補新版、太田出版、二〇一五年)も一言で言うと、全員で貴族になろうという本だったんですね。楽しみ方を知っていて、暇になっても困らない人間になろう、全員で有閑階級になろう、というのがテーマだったんです。
國分功一郎・千葉雅也「コミュニケーションにおける闇と超越」)
現代思想 2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代

國分先生は、貴族に「全員」がなる、と言っているのだから、これは「民主主義」のことなのだろう。他方、千葉先生は、東浩紀先生のゲンロン憲法草案における、

  • 上院

の構想に注目しているように、どうも國分先生とは違っていて、もっと具体的に

  • 貴族の復活

について提案していると考えることが、素直な読み方であるだろう。
東浩紀先生のゲンロン憲法草案での「上院」の構想は、東浩紀先生は当時はスティーブ・ジョブズを例にあげていたわけだが、そういった国籍にとらわれない、さまざまな才能のある人たちによって構成される「議員」集団ということを言っていたと思うのだが、なぜか、上記の引用では、

  • 哲学者

という、まさに千葉先生自身や國分先生自身を「貴族」として国民は扱え、みたいな話になっているわけで、どうもきなくさくなっているw
現在の日本国憲法は、アメリカ国憲法国連憲章と一緒の、ジョン・ロック的社会契約論の延長で構成されているわけで、この社会契約と、11条から14条は絶対に譲ることのできない、この憲法の根本思想がここで構成されているわけで、ここのフレームは絶対に変えることはできないのだ。
つまり、なにが言いたいのかというと、東浩紀先生のゲンロン憲法草案は、このジョン・ロック的社会契約論の最も根幹に関わるところを

  • 破壊

してしまっている。わざわざ、「貴族制を認めない」と言っているのに、まるで、戦前の大日本帝国憲法のように、実質的な「貴族制」を復活させてしまっている。つまり「色」のついた people を「上院」に迎えると言っているわけだから、実質的な

を破壊しているわけである。
よく考えてみよう。例えば、今に自民党でも、政府でも、なんらかの「ブレイン」集団を抱えている。だとするなら、なぜそれではダメなのだろうか。これに代えて、「上院」を作らなければならないのだろう。
ようするに、東浩紀先生のゲンロン憲法草案は何が言いたいのか、なのである。この「上院」を構成する people は、まさに上記の引用にある意味で「貴族」なのだろう。しかし、こういった貴族がなぜ、

  • 政府体

において、「優遇」されなければならないのか? なぜ、彼らは「特別」なのかを、なにも説明していないという意味で、きなくさい発言になっている。
こういった「差別主義」はさまざまな形で、復活してくる。例えば、「共和制」を考えてみよう。共和制においては、民主主義は必須ではない。それは、アメリカ国憲法を起草した、一部の「インテリ」が別に、民主主義によって選ばれていない、ということからも分かるように、それは

  • エリート

だった。もちろん、戦後日本の立ち上げ時における、アメリカ占領軍も「エリート」だった。ここから「共和主義」は民主主義の否定を正当化する。別に、民主主義なんてなくていい。それは、共和主義が証明している、と。
しかし、ここに一つのパラドックスがある。つまり、上記の憲法の引用が示しているように、それは「法の下の平等」なのかが疑わしいからなのだ。よって、必然的に自然消滅的に「共和主義」は消滅し、民主主義に移行する。彼らの「特権」をいつまでも維持する正当な理由の維持が難しいからなのだ。
同じことは、安倍政権の回りをかこんでいる極右集団の主張する、「戦前の復活」にも言える。大事なポイントは、戦前の大日本帝国憲法は、ジョン・ロック的社会契約論ではない。フランス・ドイツ流の、ルソー的「国家=有機体」論に依拠した、まったく別の、民主主義をベースにしていたと解釈できる。
ようするに、貴族制と言うとき、戦前の大日本帝国憲法

  • 古き良き

制度として、「復活」を主張することは、確かに、大日本帝国憲法日本国憲法の「連続性」に注目するのなら、その可能性を議論する予知はあるのかもしれないが、

  • まったく違った思想

によって導入されているということを理解するなら、そもそも、こんな発想は出てきそうがないわけである。
言うまでもなく、もちろん、戦前の日本にだって「いい点」はたくさんあったのであろうし、こういった「貴族院」だって、ある側面においては、日本社会のさまざまな側面に寄与していたのかもしれない。
そういう意味で、東浩紀先生のゲンロン憲法草案も、日本の極右も、言っていることは「戦前の復活」という意味においては同じだし、同じ発想を違ったふうに言いかえているにすぎない。
しかし、何度も言うようだが、今のアメリカ流の日本国憲法は、戦前のドイツ流の憲法とは、根本的に「思想」が違っているわけである。
大事なポイントはここにある。
もしも、戦前の「貴族」または「貴族」的なものを復活させたいなら、今の憲法を「破壊」して、まったく違ったものにするしかない。まあ、それがいいというなら、それを目指して活動をされればいいだろう。
しかし、今の政治状況で人々が懸念しているのは、それこそまさにその「憲法の破壊」が、多くの今ある憲法が戦後一貫して、その「信託」によって保証してきた

  • people の権利

を破壊するのではないのか、と疑っているわけであろう。そういった people の不安に対して、東浩紀先生のゲンロン憲法草案は答えていない。勝手に国民を「脅し」てこれを「憲法草案」と主張しているに過ぎない。私は彼らの

  • 貴族

という「アナロジー」であり、「ジャーゴン」を危険なものとして注意しなければならないだろうと考えるわけである...。