世界の国家は「一つ」になってはならない

この前の憲法の話のときに少し書いたことであるが、アメリカ型憲法というか、まあ、ジョン・ロック的社会契約論において、社会契約を行うのは「ピープル」となっているだけで、ある「国民」が想定されていない。しかも、ここで「国民主権」という言い方も混乱をもたらすわけで、主権は「さまざま」な対象において存在しうる。ここでの「社会契約」は

  • 信託:ピープル --> 政府体
  • 権利の保証:政府体 --> ピープル

という関係になっているわけだが、ここでは別に、「ピープル」も「政府体」も両方とも「主体」であることには変わらない。というか、こういった「社会契約」はもっといろいろあるわけで、それぞれに、ここでの「政府体」の該当する組織体はみんな「主体」だと言っていいし、なぜそこで区別するのかの理屈がない。
つまり、国家に主権があるのか、国民に主権があるのかが「問題」だと考える慣習自体が、どこまでもフランス・ドイツ型の社会契約論というか、まあ、ルソー型の一般意志とかいう考え方から発生しているわけで、別に、そちら側で考えなければいけないという理屈もないわけだ。
(ではなぜ日本国憲法には「国民主権」と断っているかというと、まあ、早い話が、

  • 戦前とは違う

ということを分かりやすく説明するためであり、つまりは、戦前から「変わった」んだよ、ということを国民に分かりやすく強調する必要があったのだろうと。こういった配慮が今の憲法をさまざまに理解を難しくしている、と言えるだろう。)
もっと言えば、地球上にさまざまな「国家」があることは、ここでの社会契約の考えからは当然だ、ということになる。それは、そういった人たちが「社会契約」をした、ということを意味しているにすぎないわけで、その複数性は当たり前だと言える。カントの「世界平和」をよく、

  • 地球上の全ての国家の「一つの国家化」

といったイメージで語られることがあるが、それは、そもそもそれが「社会契約」となっているのかが問題なのであって、そうでなければ、それを「社会契約」と呼ぶことはできない。
この点は大事なポイントで、おそらくは、アメリカ型の社会契約では、上記にあるように「当たり前」のように、複数の主体が前提とされるどころか、

  • 次々と主体が「生成」されている

ものとしてあるわけだから、これを「一つ」にする、ということが意味不明になるわけである。
しかし、他方において、フランス・ドイツ型の社会契約では、ルソーの一般意志を考えてみても分かるように、むしろ、

  • 主体は「一つ」であるに決まっている

といった色彩をアプリオリに帯びているわけで、むしろ、地球上の国家が「一つ」にならなければ、「矛盾」だ、といった傾向性をもってしまうわけで、まったく違った概念だ、ということになるのだろう。
世界中の国家が一つにならなければならないという場合、そこでの中央政府体による、人々への

  • 均等な分配

を考えていると解釈できるだろう。ようするに「正義」を「実行」する主体は、「みんなを平等に扱う」から「平等」なのであって、ある国家は一部の主体だけが対象で、別の国家はまた別の一部の主体だけが対象となっていては、それぞれの国家でのサービスの「差異」が発生して「不公平」だというわけである。
こういった主張は一見、説得力があるように聞こえるかもしれない。しかし、そこにはある「前提」が隠されている。この「社会契約」を行う、ある「ピープル」の集団と、その「政府体」の関係が「契約」である、ということである。つまり、これらの、さまざまな「社会契約」においては、それぞれで

  • 違う内容の契約

を行っている、と考えることが普通だ、ということである。もしも、世界中の国家が「一つ」になるとするなら、この「契約」の内容が実質的に

  • 同じ

でなければいけない、ということになってしまう。
どう思うだろうか?
私に言わせれば、こういった社会のことを「全体主義」と呼んできたのだと思っているわけである。もしも、ある「契約」が

  • 一つ

しかないなら、そこに「多様性」はあるだろうか?
例えば、こんな例を考えてみよう。ある人になにかを与えることと、その人のいる地球の裏側の人に、それと同じものを与えることは、同値な

  • 意味

があるのだろうか? それが「同じ」というのは、いわば「渡す側」の論理であって、例えば、同じ値段の、同じ製品を、それぞれの人に与えているのだから同じなのだ。しかし、渡される側にしてみれば、どう思うだろうか? 頼んでもいないのに、ある「モノ」を「お前のモノだ」と、この「中央政府体」は押しつけてくる。もちろん、その「モノ」を所有しているがゆえの

  • 義務

も、その人には強制的に守らされるだろう。そう考えても、それを押しつけられたことは「価値」のあることなのだろうか?
大事なポイントは、この「社会契約」が行われる場合には、その一方の側の「ピープル」の集団は複数だが、他方の「政府体」の方は

  • 一つ

だということなのである。一つだから、その行動は「統一」されることになるし、そういった「統一」によって、その「ピープル」の集団をコントロールする。しかし、その「ピープル」の集団の一部が、その対応に不満を思ったり、他方の集団は満足したりといったように、意見の対立が起きたとき、その問題をこの「政府体」は解決する手段をもたない。単に、どちらかの意向に沿うか、まったく別の対応を行い、どちらからも不満をもたれるかの手段しかない。
しかし、もしもこの「社会契約」がそれぞれの集団で分かれていたら、どうだろう? それぞれで「合理的」な解決を見出せるのではないか?
そもそもなぜ、世界の国家の統一といった議論が行われるのか? それはむしろ「ブルジョア階級」によって主張される。ブルジョア階級は基本的に「福祉」に、自分のお金を奪われたくない。つまり、なるべくそのお金を少なくしたい。そのための一番の方法は、

  • 世界中の貧乏人たちでお金を「平等」に分け合って、お金持ちは一切の税金を拒否できればいい

と考えるわけである。国家はお金持ちから税金をとらない。その代わり、貧乏人たちはみんながもっているお金を一回、世界政府体に集めて

  • 均等

に分ければいい、と。
しかし、このことは逆に言えば、ブルジョア階級は彼らの周りにいる貧乏人を救わない、ということを意味する。それは今の日本の福祉の状況を見れば分かるだろう。

  • 日本には「貧乏人」はいない

んだ、と。なぜなら、日本より貧乏な国は地球の裏側まで行けば、いくらでもあるからだ。そこの国の飢えて死にそうな人に比べれば、すべての日本人は「お金持ち」なのだから、助ける必要はないw これは、日本の貧乏人に福祉を行わないことによって、お金持ちへの税金が不要であることを主張するレトリックとして使われるわけだけど、しかし、そんなことを言うのなら、ますます、日本の「お金持ち」から税金でお金を徴収していい、というふうに聞こえますよね。だって、

  • 日本には「お金持ち」は必要ない

というわけですから。つまり、日本国家は、その地球の裏側の貧乏な国から「税金」をとられるべきだ、というわけでしょう。じゃあなぜ、そのお金を徴収する相手が、日本のお金持ちたちではない、とするの? 当然、彼らがいっぱいお金をもっているんだから、いっぱい徴収されるべきだろうね、この理屈からいけば。
ここの議論ってかなり本質的で、なぜ日本のお金持ちは、日本の貧乏人に「福祉」のためのお金を税金としてもっと徴収されるべきかというと、そうでなければ、彼ら日本のお金持ちは、逆に、地球の裏側の貧乏な国のために、もっと多くのお金を一種の「税金」によって徴収されることを受け入れなければならなくなる、ということを意味しているわけであろう。
なぜ日本の国民は、日本に税金を払うのか。それは、上記で議論をしてきた、ジョン・ロック的な「社会契約」に関係している。そうしなければ、「信託」に対応した義務を果たしていない、ということになるからだ。
よく考えてほしい。あなたが「お金持ち」の側だったとしよう。もしあなたが、この「政府体」と自分を含む「ピープル」の集合との「社会契約」を考えるなら、自分がどれくらいの「福祉」を提供しなければならないのかは、この「ピープル」の集合に自分が含まれているくらいだから、ある程度は見積もれるだろう。そこで、

  • まあ、これくらい払えばいいかな

と判断できる。というか、感覚でまあ感じられはするだろう。他方、地球の裏側についてはどうだろう? あなたはまったく情報がない。どうも飢えて死んでいる人もいるらしい。そういった人たちを「あなた」は救わなければならないらしい。じゃあ、どれくらいで「あなた」は自らが提供しなければならなくなる「税金」を見積もるだろう? そりゃ知らないんだから、膨大な額にならないか? というか、相手もこっちがなにも知らないと思って、「ふっかけてくる」だろうね。
私はある意味で、平等主義者だ。それは、少なくとも日本人のだれであれ、大学には入れるべきだろう、というくらいには平等主義者だ、という意味で、そのレベルで「お金がないから、大学に行けない」という日本人をなくすことはできないか、と考えているわけだが、こういうことを言うと、「いや、地球の裏側には、今も、ほとんどの国民が大学に行っていない国があるんだから、そこの人と比べて不公平だから、日本の貧乏人を救うべきじゃない」と言い始めたがるウジ虫がわいてくる(特に、偏差値の高い有名大学に入った「エリート」ほど、選民思想的に「差別」を肯定する)。
しかし、そうだろうか? ひとまず、日本国家においては、基本的に日本人は「みんな」が「平等」になるべきなのではないか? それは、そんなに難しいことを言っているわけではない。それは、ひとまずは

  • 「お金がないから、大学に行けない」という日本人をなくす

というレベルで行うべき、ということなのであって、同じことは、その地球の裏側の貧乏な国にも言える。その国でも、一定の平等の福祉を行えばいい。そして、もしもその福祉の内容が日本に比べて見劣りがするというなら、その国が「日本はもっと自分の国に<福祉>を行うべきだ」と訴えればいいのではないか?
私はそうやって、世界中が「平等」になっていくべきだと思っている。というか、実際にそうなってきている、と思っている。というのは、そもそも貧乏な国の貧乏人は、例えば、日本に移住してきて、日本の「福祉」を享受すれば「お得」ならば、そうするようになってきているわけでしょう。それは、ブレグジットなどの動きでもわかる。なんらかの形で、世界的な

  • 平等化

がされなければ、この動きは止められない。そういう意味では、むしろ、

  • 日本国内の「平等化」が進めば進むほど、世界は「平等化」が進んでいく

と考えるわけである...。