田中克彦『言語学者が語る漢字文明論』

この前、病院に行ったとき、初診の場合は、受付でアンケートのようなものを書かされるわけだが、非常に混んでいて、さっさとこれを書いて提出しないと、順番を後回しにされると思って書いていたのだが、言うまでもなく、私のような(ほとんどの人が同様だと思うが)、毎日、パソコンでしか文字を「書か」なくなってしまった人間は、漢字がでてこない。とっさにその時にとった行動は、ほとんど全てを「ひらがな」で書いて提出した、というわけである。
これを「恥かしい」と思うかどうかは、人の勝手であるが、別にそれから、「このひらがなの部分は、どういう漢字ですか」など聞かれることもなく、というか、少しぼけた老人もたくさん来るわけでだろうし、そういったことが日常茶飯事なのだろう。なにごともなく、そのまま終わったわけだが、私が思ったことは、そもそも漢字で書く必要なんてない、ということなのだ。
なぜ漢字で書かなければならないのか? それは、漢字を使わないと、別の言葉と区別がつかないからで、つまり、文脈を考えても、「どっちなのか」が分からないというわけだから、そもそも、そんな漢字の「読み方」の方がおかしいんじゃないのか、と考えるべきであろう。つまり、そんな「日常語」は

  • 話せない

わけであるw 話せない言葉ってなんなんだ、というわけで。なにかがおかしい。
そもそも日本語に、漢字は関係ない。漢字は、それまで日本で話されていた言葉を書き記すときに「使われた」文字にすぎない。つまりそれは、ひらがなでよかったし、その最初が、アルファベットで行われた

  • 可能性

すらあったのだ。

中国の公式見解えは漢語(いわゆる中国語、言語学ではシナ語という)のほかに五五の言語を少数民族語として「認定」した。この五五という数え方にはかなり問題がある。どういうふうにかと言えば、ほんとうは「方言」としていいものが独立の言語とされていることである。
逆に中国全体で、九〇%以上を占め、一つの言語である「漢語」(国際的にはシナ語というが、日本では中国語という)は、その話し手が耳で聞いても相互に通じないほど、それぞれの「方言」のあいだにはへだたりがある。そのひだたりはたとえばスペイン語ポルトガル語よりもっと大きいかもしれないのに、単に方言とされている。私は専門家ではないから具体的な数字をあげられないけれども、「八丈語」を独立の言語と見るたちばからすれば、「中国語」なるものの実態は二〇くらいの「異なる言語」から成っているとしてもいいくらいである。

このことは、ある程度は日本についても言える。日本の「方言」がそれぞれあるということは、もしその地域が「独立」して一つの国家になれば、その方言がその国の「国語」になる。
日本の漢字受容が本格的に行われたのは、むしろ明治以降と考えるべきだ。医学用語が典型だが、さまざまな専門分野で日本の学会は、奇妙な「漢字」をどんどん作り続けた。欧米から流入した科学知識を体系的に記述するのに、さざまざま「日本漢字造語」がでっちあげられた。おそらく、こういった用語は彼らには便利だったのだろうが、しかしそのことが「読めない」漢字文字の氾濫を増やしてしまう。

母語は一度身についたら、もはやからだから引き離すことはできない。その引き離しにくさといったら、眼の色をかえるのと同じくらいむつかしく、ほとんど、まったく不可能なことだ。ことばは生理えはなく、後天的に学習して身につくものだけれども、それは無意識的な学習であり、まるで生理とともに与えられるような、かぎりなく生理に近いものである。しかも、人間は、ことばを話す動物として、何か一つ、特定のことばを、かならずどこかで身につける。その上どんなことばでも思うがままに選べるのではなく、いやがおうでも生まれた母親のことばか、自分のまわりをとりまくことば以外ではありえない。

そもそも、言語は相手に意図を伝えるためのものであるわけで、相手に伝わらない時点で、役割果たせていない。そういう意味では、難しい漢字など使う必要はなく、全部「ひらがな」で書けばいい。なぜ、それでは悪いのか。ある、全ての人に伝えなければならないメッセージを、張り紙にしていたが、漢字の苦手な人がそれを理解できなかったがために、伝わらなかったら、それは本来の役割を果たせていない、ということなのであろう。

ヨーロッパ人は、自分たちは言語学を作ったし、数多くの言語を知っている、だから、ことばへの考察は、アジア人はまだまだヨーロッパのレベルにとどかないときめ込んでいるらしい。その最たる人がジャック・デリダである。
かれはソシュール言語学を批判して、ソシュールの作った言語学の体系はヨーロッパ中心の「音声中心主義」だと批判したらしい。

文字学ならばともかく、言語学が音声中心主義でなくて成り立つだろうか。オトのないことばなんてものがあるだろうか。

そもそも、言語とは音声以外にありえない。話せない言語など使えないし、「音声中心」にきまっている。そういう意味では、「方言」も一つの言語だし、日本の英語教育が失敗し続けているのは、この「音声」を中心に構成されていないから、時間をたくさんかけても、いつまでたっても話せるようにならないわけであろう。
今起きているのは、「日本語の終焉」なのであろう。世界的に、日本の後進性、不利性が明確になってきた。日本人は外国語の習得が苦手で、それどころか、意味不明の「漢字」への戯れにふけって、一生を終わる。学者や芸術家たちの、漢字フェティシズムが教育を汚染し、漢字が読めないというだけで、市民権を剥奪される。
こういった「漢字」偏重は、実際に一人一人が話している「音声」の差異、「方言」の差異を隠蔽する。もしも、今までの日本語では表現できない対象があらわれたなら、それを訓読みによって、「うまく」表現することを考えなければ、それは本当に「日本語」なのか、と疑うべきはずなわけであろう。そうでなければ、日本語が豊かになったというより、「外国語」を使っているにすぎない。
ジャック・デリダの「音声中心主義」批判は、いっそうの日本語の「漢字」中心主義を拡大し

  • 言語の「フラット化」

をもたらす。日本は「フラット」だ、という意味は、漢字によって、「方言」がノイズとされたことを意味し、すべては東京語に還元され、東京中心主義をもたらす。東京中心主義と、漢字偏重主義と、日本人が英語をいつまでも話せないこととは、同型の事象なのだ。
この事情は、文系の意味不明の哲学ジャーゴンとまったく同一の現象だ。文系ジャーゴニストは、自分たちの社会的権威を高めるために、当たり前のことに、いちいち意味不明の哲学用語をでっちあげて、日本語を「囲い込む」。そして、困ったことに、こういった「悪文」がやたらと高校入試の題材で使われるw

このようなもの書きは、外国人に日本語を教えた経験もなく、この「カンモクユーケー」を漢字で書かなければならないことが日本語を世界にひろげる上でどんなにじゃまになっているか、本気で考えたことがある人とは思えない。こういう人が、外国人ながら日本で看護師・弁護士になろうという感心な人たちに、「褥瘡(じょくそう)」だの「誤嚥(ごえん)」だのという漢字が読み書きできないからといって、国家試験で追っぱらっているのだ。

まさに、東大入試ではないかw たかだか、「国語」なる教科でホルホルしていた連中が、いかに意味不明の差別主義者で害悪か。私は哲学者という人種をこの世からなくしたいのだが、なんとかならないもんかね...。