牛乳石鹸CMへの反応に対する違和感

まあ、牛乳石鹸のCMが炎上している件については、今さら説明するまでもないであろう。少しネットで検索すれば、簡単に見られるし、それに付随して叩かれているポスターも見つかる。
しかし、私が見た印象は違った。このCMを最も象徴しているのが、主人公のサラリーマンの父親がモノローグでもらす、次の言葉だ。「あの頃の親父とは、かけ離れた自分がいる。家族思いの優しいパパ、時代なのかもしれない。でも、それって正しいのか」。
これは、ある種の「家父長的価値観」を示唆している。これをどう考えるのかが問われている。
私ごとですまないが、最近、私の母親が病気で倒れ、深刻な症状なわけだが、そこで私は父親に、あとは私の兄弟の夫婦の子どもを見舞いに行かせるかが残っている、ということを言った。つまり、私の母親の変わりはてた姿をまだ幼い子どもに見せるとショックを与えるのではと考えて、そんなことを言ったわけであるが、そのとき父親の答えは、「会わせなくていい」と言ったものだった。その理由は、「うちの家族ではないのだから」と。私の兄弟の夫婦はいわば別の「家族」となっているわけで、つまりはそういったことに悩む関係ではない、というわけである。
これは、確かにドライで冷たいことを言っているように聞こえるかもしれないが、家父長制的な考え方であり、そうやって「割り切って」いることが、行動を決断している、とも考えられる。
私の母親はずっと父親であり、子どもの食事を作り続けてきた。今頃になって、父親は自分で御飯を電子ジャーで炊いて食べているが、そういう意味では、母親本人はそれなりに自由に生きてきたと思うが、一定の線においては、家父長制的に振る舞ってきたのだと思うし、日本のほとんどの一定の世代以上はそうなのではないだろうか。
それは、今の時代が「自由」となってることに対応して、自由に振る舞っていないとか、自由を制限されているとか、そういうことではない。それはむしろ、自由になったから、周りがその人が自由に振る舞うことを「認める」ようになったという意味であり、「優しい」ということなのだ。
なぜそうでありながら家父長的なのか? それは、そもそも彼らが今まで生まれてきて、生きてきた

  • 周り

がそうだったからなのだ。みんな、そうやって生きてきた。その中で「納得」して、「ルール」化して生きてきた。ずっと、そういう範囲の中で「選んで」生きてきたからなのだ。私の母親の今回のことは、どうも、いろいろと謎に思えるところがある。それは、いろいろと生活習慣病の検査結果があったのにもかかわらず、どうもあまりそのことを周りに話さなかったのではないか、という疑いである。おそらく、私の父親とはよくそのことで話していたのだろうが、子どもたちには言いたがらなかったのではないか。その態度には、家父長制社会における、母親の父親に対する態度を思わせるものがある。自分は結局は家族の中で「お客さん」といった場所にあり、基本的には男たちが継承していく。自分はあまり迷惑をかけずに去っていく。
私は別にここで「家父長制」がいいわるいといったことを言いたいわけではない。しかし、自分たちは過去を「慣習」として引き継いで生きているわけで、そことの葛藤のない人生などありえないんじゃないのか、と言いたいわけである。なにがいいとか、なにが正しいとか、そんなことは、ただの推論規則であり、どうでもいいことなのであって、私たちは自らの生きる「目的」であり「道」を探して、その中でちょっとしたことでも「納得」して生きていくことしかできない。私たちはそんなに強くないのだ...。