東浩紀先生の哲学の全体像

今まで、東浩紀生の哲学には、このブログでも、さまざまにお世話になってきたので、ここでは、その全体像を私なりの独断と偏見で、まとめてみようと思う。
といっても、別に教科書のようなものや、まとめサイトのようなことををやりたいわけではなく、いわば彼の「パクリ元」を整理していく、という作業だと思っていい。しかも、私なりの角度からの整理であって、基本的に私が興味なく、かつ、どうでもいいと思っていることは、徹底して無視していく。
例えば、「観光客の哲学」には、以下のような個所がある。

カントの影響下でヘーゲルが生まれ、カントへの反発からニーチェハイデガーが生まれ、のちカントの復興として分析哲学が生まれる。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

これは、一見するとカントがすごいということを言っているように見えるが、むしろ、ここでのポイントは

であることが分かる。東浩紀先生の処女作となる「存在論的、郵便的」は、一見すると、ジャック・デリダが中心的な問題のように見えるが、後半はハイデガーラカン精神分析で「乗り越える」みたいな話になっているわけで、なんらかの意味でハイデガーこそが「問題」だと考え、それに取り組んでいる、ということが分かるわけで、基本的に東浩紀先生の言っていることは、ハイデガーの口パクなわけである(そういう意味では、言うまでもなく、デリダにとってハイデガーもルソーも重要な考察対象だったわけであって、それはデリダが基本的には、フッサールハイデガー現象学をベースにして思考していることからも、それほど違わないわけだが)。
そして、上記の引用は非常に重要な形で、

という形で、東浩紀先生の「関心」の流れをよく説明している。ハイデガーは言うまでもなく、大学での講義でニーチェにとりくんだように、そもそも、ニーチェ理解なしにはハイデガー解釈はありえない。そういう意味で、東浩紀生の哲学はよく読むと、ほとんどニーチェを「教科書」的な意味で「正確」に口パクしている(以下で分析していくように、そもそも、「観光客の哲学」がニーチェの口パクなのだが)。そして、分析哲学ということでは、とりわけ、リチャード・ローティとの関係を、ひとまずは指摘しておく。
そこで、少しずつ、この問題を解きほぐしていきたいと思うわけだが、「観光客の哲学」を読んでいて「あれ」っと思った個所が一つある。

そこで重要とされる著作は、マイケル・サンデルが一九八二年に刊行した『リベラリズムと正義の由来』である。サンデルはそこで、ロールズの議論は普遍的な正義を追及する普遍的な主体(負荷なき主体)の存在を前提としているが、それはあまりにも強すぎる仮定であり、実際には政治理論は、特定の共同体の特定の価値観(正義ではなく善)を埋めこまれた主体しか前提とすることができないと主張した。
ゲンロン0 観光客の哲学

ここは、なんの断りもなく、いきなり「善は正義ではない」ということが自明の前提としてあらわれる。つまり、この意味は「善は共同体的」なものであり、普遍的ではない、という命題が自明視されている。そもそも、こういった発想って、どこから現れたのかな、と考えてみると、どうもニーチェなんじゃないのか、と思えてくるわけである。

まず第一論文[『善悪の彼岸』]においては、「よい(gut)とわるい(schecht)」という「騎士的・貴族的評価様式」が、「善(gut)と悪(bose)」という「僧侶的評価様式」へと転倒されていく様が描かれている。
「よい」(gut)の本質は、通常「利他性」にあると考えられている。すなわち自己を滅して他人を益することこそが、無条件によいことだと理解されているのである。しかしニーチェに言わせれば、「よい」の本来的起源は、むしろ強者=貴族における<力>の感覚にある。それは例えば、「強いこと」「美しいこと」「威厳あること」「幸福であること」「この生を享受すること」「創造すること」「生長すること」などを、その内容とする。要するに、強者は、自分の発現する<力>を「よい」と評価するのである。
このように、強者における自発的・自己肯定的な感情こそ、「よい」の本来的起源である(このことを理解するためには、子どもの頃の「よい」という感覚を思い起こしてみるとよい)。それゆえ逆に、強者にとって「わるい」(schlecht)とは、弱いこと、劣悪なこと、卑属なこと、醜いことということになる。

存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い

存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い

近代哲学はデカルトの『方法叙説』から始まるわけであるが、その最初で、懐疑の問題が語られる。それは、私たちが自明の「正しさ」と思っているものは、よく調べてみると、それぞれの部族で違った慣習となっているわけで、少しも「普遍的」ではない、ということが分かる、という組み立てになっていた。
実は、上記の引用におけるニーチェの「善悪」は、この議論とほとんど同じレトリックになっているわけである。「善悪」はキリスト教ローカルなものでしかない。つまり、

  • 普遍的

ではない、と言っているわけである。では、ニーチェがここで言っている「貴族的」なるものが、「普遍的」ということになるのであろうが、これはなんなのか、について、ハイデガーは以下のように説明している。

力への意志とは自己自身に対する正当化であり、ハイデガーによれば、それがニーチェの言う「正義」である。

<正義>(Gerechtigkeit)は、力への意志の最高様式であるゆえに、真理の本質の本来的規定根拠である。無制約的な、完成した力への意志の主体性の形而上学において、真理は<正義>として現成する。(NII.325)

存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い

ここにおいて、以下の対応関係が成立する。

  • 善悪(非普遍的) <--> 貴族的・正義(普遍的)

基本的に、東浩紀先生もこの対応関係を踏襲している。しかし、素朴に考えて、善悪が「非普遍的」であることはいいのだが、その逆とはなんなのだろう? 「観光客の哲学」においては、さかんに「普遍的」という言葉が使われる。そして、その言葉が使われるときには、リバタリアニズムと関係して、

のこととほぼ同値の意味で使っている。つまり、社会はグローバル化しなければならない、と。しかし、そこにある議論の齟齬がある。

ローティは普遍的な理念を信じない。だから連帯の基礎として言語や論理は使えない。プラグマティストの彼が頼ることができるのは、具体的な経験だけである。だとすれば、このような結論にたどりつくのは不可避だと考えられる。
この結論は少なからぬ読者の失望を招くことになった。共感可能性に基づく連帯などというものは、結局のところ異質な他者の排除を意味するあけではないのか、それではほんとうの連帯とは言えないのではないかと厳しい批判を受けた。
ゲンロン0 観光客の哲学

言うまでもなく、ローティと後期ジョン・ロールズの「反普遍主義」は深い影響関係にある。つまり、ローティの議論を踏襲するなら、この前提を変えることはできないはずであるのに、なぜか東浩紀先生は

  • ローティは間違っている
  • 後期ジョン・ロールズは間違っている

という立場で議論をしているわけで、いわば、この本で東浩紀先生は二人を「説得」している、と受けとれるわけで(まあ、説教をしていると言ってもいい)、ある意味において、「異様」なことをここで行っていると解釈せざるをえないわけである。
次に、「観光客の哲学」に何度もでてくる言葉として、「偶然」というのがある。

そしてローティはそれでよいと考えている。それゆえ彼は、その矛盾を積極的に受け入れる立場を構想する。それがリベラル・アイロニストである。それが「アイロニスト」と呼ばれるのは、矛盾とともに生きる態度を意味するからだ。
その立場はまた、書名に登場するもうひとつの言葉、『偶然性』とも深く関係している。公的なものと私的なものの分裂を受け入れるというのは、言い換えれば、自分の私的な価値観がたんなる偶然の条件の産物であることを認めることだからである。ぼくは、たまたま日本人だから、たまたま男性だから、たまたま二〇世紀に生まれたからこのような信念を抱いているのであり、別の条件のもとではまた別のことを信じただろう、と想像をめぐらせることだからである。
ゲンロン0 観光客の哲学

この「偶然」とか、「確率」は東浩紀生の哲学で何度も使われる(デリダが使った)「郵便的」という用語を説明するものとして、さかんに登場するわけだが、実は、この「偶然」という言葉も、ニーチェのパクリであることが以下から分かる。

断想五[71]の最後において、「最も不健康な種類の人間」である能動的ニヒリストに対置して、本当の「強者」を以下のように規定していることからも、ニーチェがもはや能動的ニヒリズムを支持していないことがはっきりと分かる。

強者であることが明らかになるとはどういう人間たちであろうか? それは中庸の人々である。つまり、極端な信仰箇条を必要としない人々、相当量の偶然、無意味の存在を認めるだけでなく、それを愛する人々である。人間について考える時に人間の価値を相当に減少させて考えることができ、しかもその際に卑小になったり、軟弱になったりしない人々。(VIII-1.220)

存在肯定の倫理I ニヒリズムからの問い

ここで「偶然」が、「強者」の説明として使われていることが示しているように、「偶然」とは基本的に、上記の議論で言えば、

  • 貴族的・正義(普遍的)

の側のものとして想定されていることが分かるであろう。
また、「観光客の哲学」の後半がドストエフスキー論になっているわけだが、それはなぜなのかと違和感をもたれるかもしれないが、そもそも、ニーチェドストエフスキーを読んでいるわけで、特に、後期のニーチェはかなりドストエフスキーに影響されているのではないか、と言う人もいる。そういう意味では、上記のラインに繋がっているわけである。
さて。次に、東浩紀先生がよく話題にするルソーの問題を考えてみたい。例えば、ジョン・ロールズでもいいし、マイケル・サンデルでもいいが、彼らが「社会契約」について考えるとき、基本的にそこでは、

の言う社会契約のことを議論しているわけで、そもそもそもで、ルソーの「社会契約」は眼中にない。このことが示しているのは、ルソーの「社会契約」論が非常に奇妙な議論をしているし、基本的にこれは「社会契約」の話じゃない、ということを示していて、もっと言えば、これはある種の「宗教」論なわけであって、全然違った出自の話をしているわけである(もちろんそう言ったからといって、フランス革命において、一定の影響力をもったことは確かなわけで、その歴史的意味がないとか言いたいわけではない)。

日本国憲法「前文」で謳われている「信託」とは、政府と人民が「契約」関係にあることを示す概念である。つまり「国民主権」論だけに還元されることのない非ルソー的な「社会契約」を示している。これは社会構成員全員が平等に参加する社会を設立するための「社会契約」に加えて、統治構造を設立する人民と政府の間の「統治契約」の二重構造を内包した、たとえばジョン・ロックの議論に代表される、英米思想に特徴的な社会契約論である。

こうやって見ると分かりやすいように、日本の憲法は戦前はフランス・ドイツ型憲法の影響下にあり、言ってみれば「ルソー」と相性がいいわけだが、戦後のGHQが草案を作った日本の憲法は、完全にアメリカのジョン・ロック型の社会契約になっているわけで、ルソーは関係ないわけである(そういった意味から、ゲンロン憲法草案は、どこかルソー的だとも言えるわけで、おそらくは、そういった意味で、「戦前」への復古を意図している側面もあるのだろう)。
ルソーの一般意志の特徴は、なんらかの意味で、「国家」の全体性を

的に説明しようという野望が隠されているわけで、このことは、全般的にフランス・ドイツ型の哲学者にそういった動機が多く見られる。ヘーゲルの有機体的な国家イメージもそうで、このことからも戦前の日本と、相性がいい。ハイデガーナチス関与も、基本的には、こういった全体性を肯定的に、形而上学で説明することの野望を秘めているわけで、東浩紀先生がハイデガーを最も本質的に先取りしている存在としてルソーに注目することは、鋭いとも言えるのであろう。
しかし、そもそも今の日本の憲法アメリカ型なわけで、そう考えると、なぜルソーの社会契約について、戦後の日本がコミットメントをしなければいけないのかの、理屈がよく分からないわけである。別に、ルソーなんて無視すればいいんじゃないのか。別に、ハイデガーなんて今の日本人にはなんの関係もないわけだし。
そういう視点で、「観光客の哲学」を見てみると、ヘーゲル的な国家観に対して、ノージックリバタリアニズムが対抗軸として提示されているわけだが、このノージックの議論は、上記の分類で言えば、ジョン・ロック型の社会契約なわけで、そういう意味では、鮮やかな「転向」をした、とも読めるかもしれない。しかし、この場合、大事なポイントは、

  • お金持ち優遇

の社会を実現するには、ルソー的な「一般意志」は、結局はコミュニティの「団結」のようなことを言っているわけだから、あまり相性がよくない、と解釈できる、ということなのだろう。そういう意味で、「一般意志」ではなく、「一般意志2.0」と言い変えているミソはそこにあるとも言えるわけで、そもそもルソーの社会契約にコミットメントしようという考えは、あまり感じられないわけである。
そろそろ、結論をまとめようと思うのだが、前回も、ハイデガーにおける「存在」と「存在者」の関係について書いたが、そこにおいて、基本的にハイデガーの「存在」論は、素朴実在論に戻っている、ということを強調した(それが、古代ギリシアに遡行するということの意味であった)。このことは、東浩紀先生にも適用できるわけで、私は基本的に、東浩紀先生は

  • 素朴科学哲学

で考えている人なのだろう、と思っている。それは「客観的」という言葉を、基本的には無批判に使うということであり、ようするに、素朴科学哲学なのだ、と。そういう意味では、彼は哲学者ではない。上記の「普遍的」という言葉も、その延長上にあって、それが何を意味するのかについて、ジョン・ロールズリチャード・ローティのように、徹底して根底まで考えない。
例えば、「観光客の哲学」を読んでいて、何度も「動物」や「共感」という用語が肯定的に議論されているわけであるが、よく考えてみると変なわけである。それは、このブログでも最近、何度か検討した「進化論的暴露論法」から考えれば、なぜそういった「直感的」なものが信頼できるのかが分からない。つまり、ある種の

  • 反語

のような形になっていて、本当はどんなものであっても、さまざまな「推論」によって人間は選択していくし、そうしなければ、妥当な選択ができないはずであるのに、なぜか「直観」が社会を幸せにする、みたいな「ロマンティシズム」になっているわけで、そういう意味でも、東浩紀先生は哲学者じゃない。もっと、素朴な実在論者として振る舞っているわけで(まあ、ルソーもニーチェハイデガーもそうなんだよねw)、その辺りは、一般人、通俗的なSFマニアの延長、であり、「おたくいきり」といった程度ということなのだろう...。