言語のパラドックス

さて。遺伝子には「なんと書いてある」のだろうか? この質問は異様だろうか。遺伝子。つまり、DNAは基本的には幾つかのパターンで分類されたものの連なりとして記述されているわけで、これが生物の発現形態をさまざまに決定していると言うのであるから、これは一種の「言語」なのだろう、と解釈できる、というわけである。
しかし、ここにパラドックスがある。つまり、母語の問題である。

母語は一度身についたら、もはやからだから引き離すことはできない。その引き離しにくさといったら、眼の色をかえるのと同じくらいむつかしく、ほとんど、まったく不可能なことだ。ことばは生理えはなく、後天的に学習して身につくものだけれども、それは無意識的な学習であり、まるで生理とともに与えられるような、かぎりなく生理に近いものである。しかも、人間は、ことばを話す動物として、何か一つ、特定のことばを、かならずどこかで身につける。その上どんなことばでも思うがままに選べるのではなく、いやがおうでも生まれた母親のことばか、自分のまわりをとりまくことば以外ではありえない。

母語は、自分では選べない。自分が育つ「環境」に依存する。つまり、自分を育ててくれている周りの人が話している言語に依存する。そして、上記の引用の記述を踏襲するなら、必ずそういった一つの母語を身につける「過程」を経ることなしに、他の言語を学習する(つまり、第二言語として)という「過程」にはならず、つまりは、それ以降に学習して身につける外国語は「派生」的な(外部的な)二次的言語となる。
なぜ遺伝子の話と、この言語の話が関係しているのかというと、

  • 遺伝子には人間のさまざまな特徴を結果する「設計図」があるとするなら、つまりはそれは「生得的」ということを意味するわけだが、なぜか「母語」は完全なる「環境」に依存する、となっている。しかし、多くの場合に、「言語」こそが人間を最も特徴づけるものと考えられているわけで、それが完全なる「環境依存」ということは、どうなっているのか?

というわけである。ここで、冒険的にもう少し突き進めて言ってみると、

  • もしも私たちがある「生得的」な自分の特徴を指摘しようとするとき、言うまでもなく、どうしても「言語」で記述しなければならない。ところが、この「言語」は上記の引用にあるように、完全な「環境依存」によってしか選択されないというなら、私たちはこの「生得的」なものの記述に本当に成功しうるのであろうか?

ここで言いたかったことは、人間の最大の特徴を「言語」としているのにも関わらず、その言語の選択が「環境依存」となっていることは、人間の生得的特徴において、言語的活動はどこまで囲い込めるのか、というわけである。
ただし、上記の二つの疑問は、ある前提をもって行われている。それは、各言語が「どうなっているか」は、完全に「独立」している、という仮定である。
そこでおそらく、人間の生得的特徴を強調する人たちは、世界にあるさまざまな言語の

  • 共通性

について考えているのではないか、と思っている。もしも言語を、「共通性」のもとで囲い込めるのであれば、この部分におけるものと生得的なものとの関係を考えればいい、という見通しができてくる。
しかし、こういった発想には根本的な批判もありうる。それは、そう考えて「考察」している人が構想する言語なるものが、どうして自らの

にひっぱられないで考察できるのか、という疑問である。つまり、なにが

  • 客観的

なのかが問われているわけで、ここには、ある種の、デカルト的な懐疑にも関係した

  • 方法

の問題が問われているとも言えるのかもしれない...。