「観光客の哲学」における家族

東浩紀先生の「観光客の哲学」は本人自称、3万部が売れたとかで、自称大ベストセラーみたいに言っているようだけど、それは本当に売れたの部類なのだろうか? まあ、こういった系統の本としては売れた方ということなのだろうが、私にはモヤモヤが残る。
モヤモヤといえば、この前の選挙での「棄権」騒動について、本人はいったいいつになったら「謝罪」をするんだろうね。気づかないふりをして、いつまでも無視するのかね。というか、この人はいつもそうなんじゃないか。今回も、いろいろな人が警告を発し始めると、炎上だとかフェイクニュースだとか、しらばっくれて、決定的証拠がでてくると今度は、無視をきめこむ。まあ、彼の周りに集まっていた、多くの若手が、この人のあまりの非人間性ぶりに嫌気がさして、次々と離れていっても、また、別の若手を囲い込んで、同じことを繰り返しているわけで、死ぬまでこの炎上商法は止めないんでしょうね。
今回の衆議院選挙を考えても、前原と小池がどれだけ「野党」が

  • 嫌い

で、どれだけ野党を彼らが壊滅させて、自民党に媚を売ることに心底したか。この態度において、彼らと東浩紀先生はまったく同様の鬼畜っぷりを示したわけで、多くの人は、この三人については、もう顔も見たくない嫌悪感を感じているのではないか。それに対して、枝野さんという立憲民主党の党首は、一貫して筋を通した。彼と、この鬼畜三人組との違いは

  • 自分の政治的野心のために他人を裏切る(嘘をつく)ことに平気な態度でいる

ところにあるわけであろう。小池は踏み絵の項目に、さかんに憲法違反が問題となった「安保法制」への「賛成」を条件に入れやがった。ようするに、国会議員に「憲法違反」に賛成しろ、と言っているわけで、

  • 自分への忠誠のためなら、憲法違反に同意しろ

と脅したわけであろう。こんな鬼畜ババアをいつまでも日本の政治世界に居続けさせてはいけないのではないか。彼女は恐しい悪魔ですよ。おそらく、彼女であれは、一瞬で日本社会を破壊する。ようするに、この三人にはなんの「徳」もない。なんの「ためらい」もなく、完全なサイコパスであって、おそらく、この三人が、これからの日本社会を破壊する。彼らは日本社会の平和で、みんなが信頼し合って生きているその「信じ合う」美徳に

  • つけこんで

他人をだまして、のしあがってきた、サイコパス気質なわけで、こうやって他人を嘘でだましておいて、なんの恥かしげもなく、今だに、平気な顔で人前に現れやがる。つまり、平気でそんなことができる連中だ、というわけでしょう。
話がそれたが、「観光客の哲学」は前回の「福島第一原発観光地化計画」という本の系統を継ぐ、審議会委員に立候補するための、

  • 国策提案本

だと、私は思っている。それは、この本の二つの「キーワード=バズワード」である「観光」と「家族」が現在の国家官僚たちが考えている国家の「問題」に基本的に集約されていて、むしろ、東浩紀先生の立場は、市民の側ではなく、こういった国家官僚たちの「需要」に合わせて、いかに市民の側を「支配」していくのかについて提案しているわけである:
「観光」については、今さら言うまでもなく、福島第一原発「ダークツーリズム」と同値だと言っていい。この場合、福島第一原発に「観光」に行くということは、観光客を「汚染」させるわけであるが、それによって、

という関係になっている。つまり、これは「国策」なのである。福島第一原発を見にくる若者は「怖いもの見たさ」の不純な動機であり、彼らはこれを見ることによって、「福島県民ザマーwwww」とか言って、いかに福島がこれによって不幸になったのかを見て、アザ嗤うわけであるが、しかし、そういった若者の「態度」が、経済的には、福島県内に若者たちがお金を落としていく構造になっているわけで、ようするに福島県民を古代ローマの闘技場で

  • 殺し合う

戦士たちの「不幸」な姿に見立て、それを高見の見物で愉悦にひたる観客たちを、若者に代替しているわけで、徹底して「非倫理的」な経済活動だった、というわけである。
そして、何度も言及しているが、「福島第一原発観光地化計画」では、なぜかリニア新幹線が福島と東京を結び、福島からは、ロケットの開発が始まる。このことが含意していることは、リニア新幹線には多くの電力が必要とされるため、必然的に新潟県にある柏崎刈羽原発は暗黙裏に再稼動していることが前提とされ(ところが、驚くべきことに、この「福島第一原発観光地化計画」には、福島第一原発以外の日本中にある原発がどうなるのか、どうすべきなのかには言及していないw)、福島でロケット開発がさかんになるという含意が、

を福島で動かす、つまり、

  • 福島はどうせ今でも「汚れている」んだから、あと少しぐらい汚れたって、どってことないだろう

という考えを意味しているわけで、そういう意味での「非倫理的」な本だったわけである。
基本的には、「観光客の哲学」もこの延長で記述されている(どうでもいいことを書くようだが、この本で何度も何度も「ぼくたち」っていう表現がでてくるんだけで、本人が一人称を「ぼく」と言うのは、幼ない感じがして気持ち悪くてもw、まあ批判するほどではないのかもしれないけど、「ぼくたち」って、普通女性は一人称に「ぼく」って使わないんだから、

  • 女性を排除している

っていうことなんだよね。確かに、彼の作る雑誌には、まず女性が書いた記事はなく、たまに対談で「そえもの」のように載せることはあるけど、なんで「ぼくたち」なんていう気持ち悪い表現を使うんだろうね。そんな英語に訳せない、卑怯な表現は、やめればいいのにね)。
そこで、今回はその「家族」の議論に注目していきたいのだが、その前に、この本を諸手を上げて絶賛した、橋爪大三郎先生がなんと言っていたのかを思い出してもらいたい。

粗削りで強引な論かもしれない。だが本書には、切迫する時代に書かれざるをえなかった、説得力と熱量が具(そな)わっている。時代を刻む論考として、後世に記憶されることだろう。
今週の本棚:橋爪大三郎・評 『ゲンロン0 観光客の哲学』=東浩紀・著 - 毎日新聞

つまり、ここで「切迫する時代に書かれざるをえなかった」と言っている「切迫する時代」とはなんのことなのか、なのである。言うまでもない、

という小林慶一郎との対談本の内容はともかくとして、ここで橋爪大三郎が示す

  • 消費税増税への「執念」

こそが、彼の言う「切迫」をよく示しているわけであろう。例えば、橋爪大三郎を兄弟子と慕う宮台真司がここ何年か、videonews.com で、税金を上げるべきという議論のときに、まず消費税の増税のことしか言わない。なぜ増税すべきという議論で、所得税法人税を上げる議論を「無視」して、消費税のことばかり言うのか。まず消費税という言葉しか使わない。恐しいね。言うまでもなく、それが

  • 富裕層

の「意向」をよく反映しているわけであろう。橋爪や宮台は、消費税の20%、30%への増税に「執念」をもやしている。つまり、そうすれば「金持ち増税」をやらずにすむという「野望」が隠されているわけであろう。単純に、橋爪、宮台、東の三人はそういった「国家官僚」たちの消費税増税への「執念」に対応した形で、「理論」を提供しているに過ぎない。
じゃあ、「家族」とはなんなのか? もちろん、この延長で考えなければならない。それは、言うまでもない、老人の「医療費」問題である。

しかし(あるいはそれゆえと捉えるべきか)、人文系の学者はこの可能性に対して基本的に冷淡である。日本ではリバタリアニズムの重要性が広く認知されるようになったのは、ようやく二〇〇〇年代に入ってからのことだ。リバタリアニズムのもつ人文的な意味といった重要な課題----それこそが観光客の哲学の萌芽になるかもしれないのだが----には、ほとんどだれも手をつけていない。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

これと、以下に(何回か引用している)ツイッターでの東浩紀先生の発言を合わせて考えてみてもらいたい。

ぼくは最小福祉国家主義者で、国家は国民の最低限の安全保障と市民生活を維持するのが仕事で(そして実際それで精一杯なはずで)、クリエイティブな才能を伸ばすとかイノベーションを支援するとかには手を出さず、そっちは規制緩和でいいと考えている。だから官僚に夢を与える話はできないのよね。
@hazuma 2017/09/11 12:49

そして日本の最大の問題は少子高齢化なのだけど、これこそ考えてもどうしようもないことで、いま必要なのは高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げることなんだろうけど、これは政治的に絶対的に不可能なので、議論しても意味がない。この点でも夢を与えることができない。
@hazuma 2017/09/11 12:51

彼の「リバタリアニズム」という「夢」が、どうやって

  • 高齢者への年金給付だか社会保障だかを大幅に引き下げる

ことに焦点があることが分かるであろう。つまり、彼はこれがやりたいわけである! この「国家官僚たちの野望」にどうやって御用審議会委員として「答え」を与えるか。まさに、その「(国家官僚の)夢」に答えを与えるために、この本は書かれている。
実際に、「観光客の哲学」の後半の章を読んでまず気付くことは、

つぎに、理論的あるいは倫理的に、「家族」が孕むさまざまな暴力が指摘されてきたという歴史がある。その代表的なものとして、上野千鶴子をはじめとするマルクス主義フェミニストたちの研究がある。彼女たちは、家父長制(家族)は、資本主義と結びつき、女性の家庭内労働および再生産の可能性を搾取してきた暴力装置にほかならないと主張する。上野の定義では、家族とは「性と生殖を統制する社会領域」のことである。家族愛そのほかの言説は、その「統制」の本質を覆い隠す虚飾にすぎない。
ゲンロン0 観光客の哲学

と述べておきながら、全編を通して

  • 老人介護

の話が一切でてこない、ことであろう(上野さんの『ケアの社会学』にまったく関心を示さないw)。つまり、なぜか東浩紀先生の考える「家族」は、父親、母親、子どもの三者関係しか登場せず、そこに存在しているはずの、「おじいちゃん」「おばあちゃん」問題が、徹底して無視されているわけである。
これはなんなのだろう?
次に、

家族についてふたたび考えようというぼくの提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新するものとして提示されれいる(第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していたことを思い起こしてほしい)。柄谷が国家(ステート)と資本のあとに贈与に戻ったように、ぼくは国家(ネーション)と個人のあとに家族に戻る。柄谷が贈与が与える新しいアソシエーションについて考えたように、ぼくは家族的連帯が支える新しいマルチチュードについて考える。つまりは、ぼくがここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、そのお高次元での回復」なのである。
ゲンロン0 観光客の哲学

ここで東浩紀先生は自らの「家族」概念が、柄谷行人が言う「アソシエーション」と同値のものなのだ、と言及している。ところが、ここで多くの人は混乱するわけである。じゃあなんで、東浩紀先生はそれを「家族」と呼ぶのか? 柄谷の言う未開社会における「贈与」の関係は、別に、「家族」の中に限定されるものではない。それは、例えば、江戸時代における武士と将軍の「主従関係」においても見られたであろうし、言うまでもなく、こういった「関係」は現代社会においても、普通に通底している。もちろん、学校コミュニティにおける、クラスの子どもたちの関係もさまざまな「贈与」を基盤としているだろう。しかし、どう考えても、東浩紀先生の「家族」概念はそういうものではないわけであろう。
ようするに、彼の言う「家族」という概念は、ある「特殊」な意図(=野心)に関係して、恣意的に選ばれている、ということがうかがえるわけである。
そもそも家族という概念は、近代啓蒙思想の基盤となる、社会契約論から「はみだした」概念である。国家と市民は「契約」をするわけであるが、それは、市民と国家の「1対N」の関係なわけで、ここに「家族」の概念が入る余地がないわけである。つまり、国家は当たり前であるが、市民一人一人の

  • 人権

に責任があるのであって、どんな小さな子どもも、どんなに年老いた老人も

  • 同じ

権利があり、国家はそれを保障しなければならない。つまり、早い話が

  • 家族がなんであれ

国家は市民の「権利」を「保障」しなければならないのであって、つまりは国家官僚はそれを嫌がっている、というわけなんであろう。
なぜ国家は「家族」を強調するのか? それは、国家が家族の「福祉」をやりたくないわけであろう。お金を使いたくないから。だから、なんとしても、子どもに親の「福祉」をやらせたい。逆に言えば、それがやれないんだったら(そのためのお金がないなら)、親を見殺しにしろ、と言っているわけである。親が死ねば、子どもは親の福祉に使うお金を「節約」できる、と。だったら、子どもは親を見殺しにしろ、と言っているわけである。
こういった意味で、基本的に国家官僚が考えていることと、相模原事件の植松聖と変わらないし、長谷川豊と変わらない。それは、東浩紀先生の「リバタリアニズム」とも変わらない。親の「殺害」を

  • 家族の責任

に帰させようとする。こういった議論は、ピーター・シンガー功利主義において、老人はどうせ死ぬんだから、「幸福」の大きさが子どもに比べて、圧倒的に小さい、と言いたいわけであろう。どうせ、老人はもう子どもを産めないのに対して、子どもは未来の子どもの再生産に関係しているのだから、老人を殺して、子どもの「福祉」に回せば、子どもの「幸福」を増やせて、むしろ

  • 合理的

だと言うわけであろうw 基本的に、東浩紀先生もこういったピーター・シンガーを踏襲しているわけで、つまりは、むしろ「何を語っていないのか」に注目すべきなわけであろう。
まあ、小池東京都知事にしても、まったく、福祉をやる気がないわけでしょう。今回の選挙でも、どうやって老人福祉を減らすかみたいな議論しかしていなく、こういった連中が国家に巣喰っている限り、いずれ、この国の福祉は破壊される。それはなぜなら、これが彼らの

なのであり、

  • 生き甲斐

なのだ! 東浩紀先生は昔、なにかの対談で「自殺」肯定論を語っていたが、ようするに、老人は自殺しろ、と言いたい。それは、彼がツイッターで、漫画「天 天和通りの快男児」の最後で赤木が自殺するところを「大絶賛」していたことと、基本的に対応している。ようするに、お金のない貧乏人はどんどん自殺しろ。そして、国家に迷惑をかけるな、お金持ちにお金を「たかる」な。と言っているわけである。ただ、それをあまり表向きに言うと「角が立つ」からw、ゲンロンカフェとかいう所で、ニコニコ放送が終った後で、そういった暴言を言って、聴衆たちと愉悦にひたっている、というわけでw、まあ、その鬼畜っぷりということでは、首尾一貫しているのだろう...。