南京大虐殺の今日的問題

今期のアニメ「クジラの子らは砂上に歌う」をここまで見てきて、衝撃を受けているわけだが、それは、このアニメが構造として、

の形式的な再現となっていることに気付いたことだ。というのは、正直言って、原作の1、2巻を読んでいても、いまいっぽ、その辺りの記述はさらっと描かれていて、あまり印象に残らなかったのだが(なんというか、説明的な記述というか)、アニメはそういうわけにいかなくて、かなりリアルな臨場感を感じさせられる。
泥クジラと呼ばれる、砂漠の中を移動していく村の外の人間に生まれてから一度も会ったことのなかった主人公のチャクロは、たまたま訪れた外の遺物調査において、始めて外の人間であるリコスという少女に出会う。その少女を村に連れてきて、一緒に平和に暮そうとしたチャクロたち村人であるが、リコスはチャクロに早くここから逃げろ、と言う。すると、間髪を入れず、リコスの住んでいた奴隷国家の戦士たちが、大挙して、この村の人々を虐殺するために、攻めこんできた。
しかし、、そもそも外部との圧力も、接触すらなく平和に暮らしてきた泥クジラの村人たちは、人殺しを禁止されて過ごしてきたため、ここまでの「虐殺」にうまく戦うことができない。次々と、ふいをつかれ、無惨に殺されていく。
大事なポイントはなんだろう?
それは、これが軍隊による、平和に暮らしていた

  • 民間人

の大量虐殺だ、というところにある。そもそも、第一次世界大戦の頃には、すでに、民間人の殺害は「国際法違反」である。戦争とは、軍隊と軍隊が行う殺し合いのことで、軍人は民間人を殺してはならない。なぜなら、民間人は武器をもっていないのだから、完全な非対照的な「みな殺し」が成立してしまうからである。
なぜ民間人は武器をもっていないのか? それは、国家が自らの国家システムが危機にならないために、自らを防衛するために、武装解除している、と考えるべきだ。それは、豊臣秀吉の刀狩から始まっているとも言えて、国家が民衆からの反逆を抑えつけることを可能にするために、民衆を武装解除させる。つまり、結果として、極端に戦いに弱い人間集団を、無菌状態のように、人工的に生み出してしまっている、とも考えられる。
しかし、このことは逆にも言える。

事件では、犯人が半自動小銃自動小銃のように連射できるようにする「バンプストック」という改造装置を使用。これが10分間の乱射で多くの犠牲者を出すことにつながった。
銃規制には強硬に反対することで知られるロビー団体のNRAだが、バンプストックには「一段の規制が加えられるべき」との見解を示した。
全米ライフル協会、ラスベガス銃乱射で使用の改造装置規制に合意 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

そもそも、全米ライフル協会が強硬に銃規制に反対してきたのにも関わらず、ラスベガスでの銃乱射で、連射システムを装備した「バンプストック」についてでも、

  • 規制

が必要だと言いだしたことは、この問題をよく象徴している。民衆の武装化が必要だ、という主張は、一見すると合理性があるように聞こえるかもしれないが、「バンプストック」はダメだ、というのは、つまりは

  • バンプストック」は、あまりにも、残酷だ

ということを言いたいわけで、つまりは「そんなはずじゃなかった」と言っているに過ぎない。ようするに、それまでの拳銃がそこまでの殺生能力をもたなかったのは、そこまでの武器が作れなかったことを意味しているにすぎず、テクノロジーが進めば、いくらでも、今以上の殺生能力の高い武器は生まれ続ける。それに対して、今までの武器はいいがこれはダメと言うことは、たんに過去へのノスタルジーにすぎない。昔の古きよき「秩序」をあこがれて、それに幻想を見ているにすぎない。
ようするに、これが

なわけである! なにかを自然にまかせた方が「リアル」な、ある秩序が生まれるというのも(ハイエクの言う自生的秩序であるが)、もう一つの幻想なのであって、それは「資本主義」に任せることが最良の「秩序」だと言っている、新自由主義者の貧富の格差肯定論と同じレトリックなのであって、こういった連中は「バンプストック」による銃乱射が「秩序」を生み出すと言っているのと変わらない。結局そうやることによって、大半の民衆が虐殺されることを「秩序」だと言っているのと変わらないのだ。
私は根本的に「自然主義」を疑っている。それは、計画主義が万能だと言いたいわけではなく、その自然主義の「反語」を疑っている、ということを意味する。
同じことは、いわゆるセーフティーネット論にも言える。ある一定のラインを超えて、「貧困」に落ちた人を救い出せばいいという考えは、以前のNHKやらせ貧困問題が象徴しているように、なにが「貧困」なのかの神学論争に絶対になる。問題は「貧困」ではない。

  • 平等でない

ことが問題なのであって、私はそういう意味で「リベラル」を疑っている。「リベラル」は、「左翼でない」という自らの立場を正当化するために使われ始めた用語であり、つまりは「反平等」を意味する。しかし、結局のところ、問われているのは

  • 平等

の問題なのであって、例えば、どんなに貧しい家の子どもでも平等な内容の教育を国家はほどこさなければならない、というのは、ここで「平等」が問われているわけであろう。むしろ、欺瞞的なのは、だれも真剣に「平等」を考えていないことなのだ(私はそういう意味で、「左翼」だし、それを否定したことは一度もない)。

浅田 先ほどの話に戻ると、一九七〇年代くあいまでは科学哲学でも政治哲学でもポパー流が支配的で、科学的命題はそれを反証するかもしれないファクトに対して開かれていた。その反証主義は、科学はエヴィデンスによって絶対的に実証されているというナイーヴな実証主義よりは洗練されていた。現代の問題は、千葉さんが言ったように、ポスト・トゥルースが支配的になる一方で、ナイーヴなエヴィデンス絶対主義が復活してきているということですね。
東 それ言えば、ソーカル事件そのものは世界に影響を与えていないと思うのだけれど、あれが起きた時期は象徴的です。確固たる歴史がある、確固たる真実があるということ自体の暴力性に、戦後の長いあいだ思想界も社会も警戒し続けてきた。それに対して、九〇年代から二〇〇〇年代という世紀の転換期に、その警戒が一気に解け、世界中でやはり実証が大事なんだと言われ始めた。例えば、ガス室は無かったというような話も、いまにしてみれば歴史修正主義というより、新しい歴史実証主義だと捉えるべきで、ガス室の実証があるのかという問いだったんですね。
浅田 南京大虐殺もそう。
千葉 実証欲望、エヴィデンス主義の欲望が実は歴史修正主義を駆動していた。この実証とパラノイアの共犯性ですね。
東 実証主義歴史修正主義も、素朴に実証や歴史というものを信じてしまう点は変わらない。結果として、データが無いのだから左翼の言っていることはウソだし、逆に証言があるのだからわたしたちはみんな正義のために戦ったんだ、という意見が世界中で噴出することになった。
浅田 要するに、ポパー反証主義から素朴実証主義に戻ってしまった、と。とはいえ、ネットでファクト・チェッキングが簡単にできるようになったにもかかわらず、そうしたものは誰も見ない。
東 真実を真実として担保するのはデータそのものではなく、データのまわりのコンテクストなんです。だから、ひとことで言うと、ネットでいくらファクト・チェックしてもしょうがない。その情報がどこから出てきているのかという、そもそものソースが分からないんだから。いまやテレビニュースのキャプチャー画像も、フォトショップなどで加工したい放題になっているわけすし。
浅田 そういう問題があるのは確かでしょう。ただ、非常に素朴な次元で言えば、例えばトランプの演説に対して、いつどこで正反対のことを喋っていた、という確実な情報を出すことはできる。それでもトランプ支持者はおかまいなし。このあたりが事態の深刻さを示していると思いますね。
浅田彰東浩紀・千葉雅也「ポスト・トゥルース時代の現代思想」)

新潮 2017年 08 月号 [雑誌]

新潮 2017年 08 月号 [雑誌]

ここで、千葉雅也と東浩紀ソーカル事件を中心に、彼らの言うアンチ・エビデンシャリズムとポスト・トゥルースが同値の現象であることを主張しているわけであるが、ところが、最後の最後で浅田が

  • ...という確実な情報を出すことはできる。それでもトランプ支持者はおかまいなし。

と言うことで、この議論を終わらせてしまっている。ここにおける本質は、そもそもトランプ支持者が「正しいことを言おう」としていない、というところにあるわけであろう。そういう意味で、千葉先生も東先生も、ピントの外れたことを言っている。
千葉先生と東先生に共通しているのは、つまり

  • 方法

についての問題意識がないことなのだ! 歴史修正主義も、歴史学の文脈においては、どんなにバカげた行為に思えても、しょせん は、「学説論争」に過ぎない。つまり、だれもデカルト的な方法的懐疑の話なんかしていない。つまり、そんなレベルで、トランプ支持者は「おかしい」なんて言っていない。むしろ、議論のレベルを意図的に混同して、幼稚な反論をしているのは、千葉先生や東先生の方なわけである。

劉永興さん(一九一四年生まれ)は、南京で何回もお話を聞かせてもらっただけでなく、日本にも来て大阪や広島などの都市で講演して頂いた。八十歳を過ぎてから体調がすぐれない時期が何度かあり、日本にいる私たちも気をもんでいる。この方の体験した南京大虐殺は、機関銃による集団虐殺の典型と言えるだろう。十二月十五日、大方巷から集められた「四千から五千人の人々が[]揚子江岸の下関に]移動することになりました。八人の列を作り、一番前は国民党の警察官、後は一般の男たちで、私と近所の顔見知りの三十人ほどは列の後ろの方について行きました。冬の日は短く、五時前にはもう薄暗くなっていました。列のあちらこちらに銃を持った日本兵が監視して歩いています。最後の方には、日本軍が機関銃をいくつも抱えてついてきたので、殺されるのだろうかと大変怖かったです......。まもなく、日本軍が列の後ろから二十人ずつ引き出して少し離れた場所で機関銃掃射をして殺し始めました。ものすごい機関銃の音がずっと続いていました。こちらの方にも機関銃掃射がされ、弟にも弾が当りました。周りの人もバタバタ倒れていきます。日がすっかり暮れていました。日本軍が死体の山の上に乗っかって、生きている人がいないか確かめていました。うめき声を出したり、生きている人を見つけると銃剣で突き刺してとどめを刺していました。私の近くにもやって来ましたが、小舟の影に隠れ死体といっしょに水につかってじっと死んだふりをしていました。
やっと真夜中頃、日本軍が引き上げたので、あたりを注意深く見回すと生き残ったのは私と、あと七、八人ほどの人影が動いていただけでした」。

南京戦・切りさかれた受難者の魂―被害者120人の証言

南京戦・切りさかれた受難者の魂―被害者120人の証言

(言うまでもないが、こういった「事件」の証言は、現地の、これを体験した中国の老人たちだけでなく、日本の元日本兵の老人たちも、たくさん証言している。)
ここには一つの「構造」がある。それは、非武装の「民間人」を、外国の軍隊が虐殺する「構造」なのであって、まさに、アニメ「クジラの子らは砂上に歌う」が描いている問題である。
そのように考えるなら、ここで問われていることが「真実」かどうか以上に、もっと本質的な問題があることが分かるわけであろう。それは、こういった「問題」はちょっとした条件で、起きうるということであり、だとするなら、それを回避するための「条件」はなんなのかを考えることであって、そもそも、そういった「条件」が整備されていない限り、ちょっとしたことで、何度でも起きうる、ということなわけであろう。
千葉先生や東先生は、アンチエビデンシャリズムとかいう、うまい

  • 商売道具

を見つけたつもりになっているのかもしれないが、われわれエンジニアは、こういった「問題」に日々追われて、実際に実践的な対策を日々行っているのであって、こういったバカバカしい議論を、一刻も早く止めてもらいたい。それは、なにが本質なのか、なにが今、直近において直面している「問題」なのかの論点をそらす、ある一定の勢力による「隠蔽工作」に加担した所作と解釈せざるをえないわけで、まあ、自民党ネットサポーターズクラブネトウヨ・デマと同様に、官房機密費から彼らにお金が流れているのだろうと、想定せざるをえない「ネトウヨ」的な行動だ、と考えるわけである...。