個人の「幸福」は本当に人生の「目的」か?

功利主義は、有名なベンサムの「人々の幸福に和の最大化」を目的とするとなっている。しかし、他方でベンサムはその「幸福」と人々の「欲望」をほとんど同値であるかのように述べたために、この二つを区別するのか同一視するのか、で功利主義内での論争がずっと続いてきた。
しかし、よく考えてみると、そもそも、私たち一人一人は本当に「自分の幸福の最大化」のために生きているのだろうか?
というのは、東浩紀先生の「観光客の哲学」にも、似たような命題が記述されていたから、「あれ?」と思ったわけである。

----なるほど、神はもしかしたらいるのかもしれない。救済もあるのかもしれない。何百年か何千年かのち、すべての罪人が許され、あらゆる死者が復活し、殺人者と犠牲者が抱き合って涙を流す、そのようなときが到来するのかもしれない。しかし問題は、いまここで痛めつけられ辱められている、罪のない子どもたちが無数にいることである。そんな彼らの苦痛と屈辱は、未来の救済によっても償われない。神はこの問いにどう答えるのか?

ゲンロン0 観光客の哲学

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この質問は、この前の「道徳を基礎づける」においても一つの孟子とカントの「ストイシズム」の

  • 欠点

として指摘されていた項目であった。

君子は終身「憂うる」が、「一朝の患(わずら)い」はないというものだ。君子が終身憂うるのは、自分をたえず聖賢と引き比べて、その水準に到達しようとするからだ。孟子はここで急に結論に向かう。しかし、一朝の「患い」がないのは、それがあったとしても、他人から受けた手ひどい扱いのように、君子は「それを患いとしない」からだ。
つまり、こう言っているのである。君子が唯一「憂う」のは、自らの内的な完成であって、それは道徳的な憂いである。ところが、「患い」は、他人の反応や、世界が君子の行ないに対して定める命運から来るもので、君子はそれを知らない。これは、君子が他人の反応という話題を追及していくうちに、話を変えてしまったということではないだろうか。

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

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例えば、孟子はある国の王に諫言するに、王の抱えるある悩みに、まともに答えられない。それは、もしもこの国ある大国から襲われて滅びることが分かっているなら、国ごとその大国に奴隷として捧げるべきなのか、それとも、最後まで、滅びるまで抵抗すべきなのか、について。
つまり、ここには孟子の議論を「超える」議論がされているために、孟子はうまく答えられないのだ。孟子は王の「徳」が、結果として、人々をその王に「従いたい」という気持ちにさせて、統治はうまくいく、という理屈になっている。それに対して、上記の王の「悩み」は、

  • そうならない場合

というケースが事実としてあるという「現実」の話をしている。それに対して、孟子はそういった議論に乗ってこない。そんな奴らは「動物」並みの「野蛮人」なんだから、そんな奴等を相手にしていては人生の無駄だ、みたいな議論になっている。つまり、正面からこの問題にとりくんでいない。
ようするに、ここにおいて何が問われているのか?
功利主義者は「幸福」を人間の「生きる目的」にしてしまった。そのため、「結果主義」によって、

  • 人間が選択する行動は全て、なんらかの「幸福」のため

なのだからと、トートロジー的に「生きる目的」論を、脱臼させてしまった。つまり、こういった巧妙な形で、功利主義者は「生きる目的」についての議論を、スルーするメソッドを発明してしまった。
しかし、そうなのだろうか?
むしろ、私たちはこの問題に正面から向き合わなければならないのではないか?
つまり、私たちは本当に「幸福」になること、「幸福」であることを「生きる目的」にしているのだろうか?
そうだとするなら、なぜ生きることはこんなにも「つらく」、「苦しい」ものなのだろうか?
それは、むしろ「つらく」、「苦しい」ことを行うことが、

  • 生きる目的の<方向>に向かっている

と思っているからではないのか? こういった考えは、東アジアの思想においては「道」という言葉で表現されてきた。「道」はどんなに、くねくねと曲りくねっていて、遠回りをしているように思えても、「方向」において、あるどこかに「通じている」という解釈がある。私たちは、そういった「方向」に進むことに、一定の「満足」を感じている、ということなのではないのか。
よく考えてみよう。
なぜ私たちは、ある人は「不幸」なまま、その人生を終えてしまった、と考えるのか? それは、

  • 外から見て

それを自分と比べて、そうだとしか思えないから、というわけであろう。つまり、まったく「当事者」性を欠いているわけである。本人は、日々、ある「人生の目的」に向かって、一定の納得をもって前に進んでいたかもしれない。そして、その人の努力は、なんらかの形で後世の人々に影響を与えているかもしれない。そして、その亡くなった人がもっていた「人生の目的」こそ、そういった「影響」において考えられていたら、その人の「人生の目的」の通りになっている、とも解釈できるわけであろう。
なぜ、功利主義者は自らの「欲望」とか「幸福」といったものを、わざわざ「人生の目的」という表現を破壊してまで、重要視するのか? 言うまでもない。そこには、典型的な「パターナリズム」があるわけであろう。私はお前の「幸福」を計算した。だから、私はお前の「幸福」を

  • 制御

することによって、お前を「支配」する、と言っているわけである。つまり、功利主義者の「最大化」とは、一定の範囲に収めるための「制御理論」になっているわけで、自らの「上からの押し付け」を正当化させるためのレトリックの部類にすぎないわけである。
私たちは、孟子のように、悪をたんなる「動物=野蛮人」として「排除」するレトリックと対抗し戦わなければならないが、他方において、功利主義者のように、当事者の「欲望」や「幸福」という「概念」によって、大衆を「囲い込もう」とするレトリックとも戦わなければならない。つまり、私たちは、そもそも生まれた「最初」から、この

  • 人生の目的

の問題に、正面から向き合わなければならないし、そうでない限り、上記の「悪の正当化」「悲劇からのニヒリズム」のパラドックスから抜けられないわけである...。