「観光客の哲学」とセカイ系

つい最近、マーク・リラという人の、『シュラクサイの誘惑』という本を読んだのだが、これが非常に興味深い内容だった。それは、例えば、以前ここで紹介した、リチャード・ウォーリンの『ハイデガーの子どもたち』のようなジャーナリスティックな観点で、ハイデガーナチス加担を糾弾していくスタイルともまた違った視点で書かれている。つまり、いわゆる世間で「哲学者」と呼ばれていて、難解な本を書いていて、その日本語での翻訳を大学の偉い先生がたが行っていて、しかも彼らはこういった「哲学者」を基本的には「好意的」に「紹介」し、「リスペクト」さえしているかの姿勢で翻訳しているわけであるが、ところが実際のところの

  • 彼ら「哲学者」たちの生活している国での彼らの<評判>

は、けっこうボロクソに、人々からバカにされている、といったことが起きている、ということをよく示している内容だったからである。ではなぜ、こういった「哲学者」は市民からバカにされているのか?
それをマーク・リラは

  • 政治(または、政治学、または、政治哲学)

との関係から説明する。
さて、その本は以下の哲学者の名前を冠した章によって、章分けがされていて、それぞれの章では、それらの哲学者をフィーチャーして紹介していく形式で話は進む:

こうやって、これらの人物名を眺めてみても、いずれも、「現代思想」という形で日本に紹介され、みんな「一級の哲学者」として、その日本への紹介のされ方は、「こういった哲学者は人格も素晴しく、一級の人格者であり、道徳的にも素晴しい」人であるかのように、日本へ紹介され、それらの翻訳の本が売られていることが分かるのではないか。
ところがこのマーク・リラの本では、彼らはかなり辛辣に批判されているわけだが、その批判の観点は、彼ら哲学者たちの「政治に対する姿勢」が、まったく尊敬するに値しない、かなり、うさんくさいペテン詐欺師を思わせる、ということなのだ。
さて。なぜ、そんなことになってしまうのだろう?

日本でもいまや政治哲学といえば、ジョン・ロールズの『正義の理論』や、本書と同じく日本経済評論社から公刊されて多くの読者を獲得したウィル・キムリッカの『現代政治理論』をはじめ、北米でさかんなリベラル・デモクラシーの理論的根拠づけと制度構想の試みをあらわすことばとして定着のきざしをみせている。だが、概念的分析と道徳的理論家をつうじてるべき政治社会像を正当化するという意味での政治哲学(むしろ整理理論(ポリティカル・セオリー)という述語をあてたいが)が語られ、それが学問上の有望な一ジャンルとして確立していくかたわらで、なにか重要なものが確実に失われつつあるのではないだろうか。政治哲学という営為は、本質的に矛盾しあう二つの構成要素----かたや選択、決定あるいは決断、説得、正当化など、実践的な生の活動の領域に属する「政治」、かたや無限の反省、純粋な思考、事物の本質の観照の謂いであるはずの「哲学」----からできている。
(中金聡「訳者あとがき」)

シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

私はここに本質があると思っている。哲学者は「うさんくさい」。それは、彼らの言っていることが「哲学じゃない」からではなく、「政治ではない」のにも関わらず、あたかも、「政治」であることが哲学であることの延長で可能であるかのように振る舞っている、というところにある。以降で、この関係について、さらに深めていきたい。
さて。いつもの、東浩紀先生の『観光客の哲学』であるが、今回はさらに、後半の「家族」論について考えてみたい。
なぜ東浩紀先生は「家族」が新しい時代のすべての「基準」になる、と考えるのかについて、以下のように説明している。

ぼくはここまでいくどか、政治運動と自由意志の関係に触れている。冷戦後の左翼は、ばらばらな個人が自由意志でつくる新しい連帯(根源的民主主義)に期待を寄せてきた。けれども、なんども繰り返しているように、そのような連帯は同じ理由ですぐに崩壊する。自由意志で入った集団からは、自由意志ですぐに出ることができる。それでは終末の趣味のサークルとかわらず、まともな政治の基礎にならない。
家族の結びつきはそのような単純なものではない。少なくとも婚姻以外の家族関係は異なる。たいていのひとは、生まれた瞬間に特定の家族に加入させられる。そこに自由意志はない。そしてそこからの脱出はかなりむずかしい。この強制性は一般には否定的に理解されるが(実際にそれは児童虐待などの局面では否定すべきものである)、裏返せば、むしろそれがあるからこそ家族は政治的アイデンティティの候補になりえるのだとも言える。国家も階級も、同じように強制性があった(とみなされた)からこそ、政治思想を支えるアイデンティティになったのである。
それはつぎのように言い換えることもできる。ひとは個人=私のためには死ぬ。国家のためにも階級のためにも死ぬ。だから家族は新しい政治の基礎になりうる。他方でひとは趣味のサークルのためには死なない。だからそれは新しい政治の基礎になりえない。ルソーは『社会契約論』で、ひとは一般意志のためには死ななければならないと記した。全体主義を肯定するものとして悪名高い一節だが、しかし政治の本質を鋭くついてはいる。ルソーが一般意志の概念を政治の基礎に据えることができたのは、彼がそれを「ひとがそのために死ぬもの」だと捉えていたからである。死の可能性のないところに政治はない。いまの左翼はそのことを忘れている。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、ここには驚くべきことが書いてある。なぜ「家族」が重要なのか。それは、人間が

  • 家族のためなら死ねる

からだ、と言っているわけである。ここで、私はこの人が何を言っているのか、この人はここでどんな「政治的発言」をしているのか、を疑わざるをえないわけである。
私は別に、国家のためだろうが、家族のためだろうが、「死ねる」とは思わない。それは多くの人が、別に、家族の中のだれかが重病人になったからって、その家族と命を共にしようとまでは考えないわけであろう。つまり、正直に言って、ここで東浩紀先生は何が言いたいのかが私には分からないのだ。
そして、さらに「重要」な隠喩として、ここで東浩紀先生は自らの唱える「一般意志2.0」の意匠としてのルソーの「一般意志」とは、この「国家のためなら死ねる」に連なる考え方そのものなのだ、と唱えていることである!
そこで、私なりに東浩紀先生の「政治的」な「ほのめかし」を推測せざるをえない。人間が「家族のためなら死ねる」と言っていることは、家族のためなら

  • 自殺できる

と言っているのではないか。例えば、高齢になったおじいちゃん、おばあちゃんは家族に迷惑をかけたくないと考えて、姥捨山に自らを捨てに行く。自分が死んでいなくなれば、子どもや孫たちの「生活」が楽になって、「効率的」な生活が送れるようになるのだから「良い」のだ、と。
そもそもなぜ家族は、お互いに多くの時間をかけて、助け合うのか。それは、お互いが今まで一緒に過してきた年月の中で、さまざまな贈与と返礼を繰り返してきて、多くの恩義を感じているからなわけであろう。それは、家族「だから」ではない。つまい、家族かどうかは「本質的」ではない。
例えば、今期放送されている週刊少年ジャンプを原作としたアニメ「食戟のソーマ」において、薙切えりなは父親の薙切薊(あざみ)は次のような、非人道的な「教育」によって虐待されていたことが描かれる。

あざみ:さて......どちらが正しい味付けかな?
えりな:...左です。右の方は動物性油脂が主張しすぎて調和していません。
あざみ:よろしい。では右の皿の上に在るものを屑入れに捨てなさい
えりな:え......? で、でも......、料理を粗末に扱うなんて...... お父様...!? い...痛いっ 痛い...です!
あざみ:やるんだ
えりな:......ッ
あざみ:えりな よくやったね いいかい、えりな 情けを持ってはいけない 語るべきは味の是非だけ 不出来な品を決して許すな この父の認めるもの以外は屑だ

ようするに、父親と子どもの関係とは一般にこういうものと解釈されてきたわけであろう。だからこそ、ドメスティックバイオレンスの問題はたんに、物理的な「暴力」だけではなく、もっと一般的に、こういった「関係」そのものが

  • 固着的

であることが問題とされてきた。例えば、以下の記事で教育学者の内藤朝雄は、学校における「いじめ」が一向になくならない本質的な問題として、学校の

  • 家族化

を以下のような形で批判する。

茨城県取手市・中3女子自殺事件のように、子どもが自殺に追い込まれ、いじめ殺されてしまうのは、逃げられず対人距離を調節できない閉鎖環境の効果が大きく関与している。
このような有害作用から子どもたちを守るために、閉鎖空間に閉じこめ強制的にベタベタさせる現行学校制度を見直すことを、公論の主題にしならなければならないのではないか。
ここでは、中島菜保子さんが学校のグループ(教員が含まれる可能性もある)によっていじめ殺された経緯から、閉ざされた集団生活のなかで、加害者がどこまでも加害を続け、被害者が内側から破壊されるしくみを考える。そして、国や自治体の「閉鎖空間設定責任」という新しい考えを世に訴える。
人格を壊して遊ぶ…日本で「いじめ自殺」がなくならない根深い構造(内藤 朝雄) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

言うまでもなく、学校のクラスは「家族」的な共同体であり、彼らは強制的に数年をその同じメンバーで同じ「クラス」として、毎日、「強制的」に顔を合わさせられる。つまり、この「強制」が、結果として「いじめ」を拡大再生産している。つまり、「いじめ」とは、こういった

  • クラス(=家族)のために死ぬ(=自殺する)

ことを意味しているわけで、東浩紀先生が自殺を礼賛することと上記における「家族」を礼賛することには、本質的なつながりがあるわけである。
東浩紀先生は、そのドストエフスキー論において、ドストエフスキーが大きな影響を受けた、チェルヌイシェフスキーの『何をなすべきか』という小説に注目する。

ヴェーラには最初に恋人がいる。けれども彼とは思想が合わない。そこに新しい男性が現れる。いろいろあったすえに、ヴェーラはそちらとつきあうことに決める。ところが元恋人は嫉妬したり悲しんだりすることがない。彼は、すべてを受け入れ、新しい恋人とも意気投合し、最終的には三人で共同生活を始める。このいっけん奇妙に見える展開は、物語のなかでは「新しい人間」という言葉で描写されている。新しい社会を築くには、人間も新しくならねばならない。それがヴェーラたちが繰り返し言う言葉である。排他的な私的所有を放棄し、物品だけでなく異性すら「共有」しようとする登場人物たちのすがたは、その新しさのモデルになっている。ヴェーラはつぎのように(いささか性的な連想をともないかねない比喩を使って)語っている。「発達した人間には嫉妬などをもつ余地はありません。これはゆがめられた虚偽の感情、いとうべき感情です。これはほかの者にわたしのシャツを着させない。ほかの者がわたしのパイプでたばこを吸うことをゆるさないのと同じで、人間を自分の所有物と見なすことからそういう考えが生まれるんです」。
ゲンロン0 観光客の哲学

ここに描かれているのはいわゆる「進歩派」の人たちということが分かるだろう。確かに、ここで描かれているのは左翼的な進歩主義であり、それをドストエフスキーは批判している。その延長で、家族的な価値観すらを捨てようとする、こういった「左翼」がいかに非人間的であるかを描くことで、「家族」という伝統的な価値観には、一定の意味があること強調しようとしているのであろう。
もちろん、こういった指摘は分からなくはない部分がある。しかし、だとするなら、この『観光客の哲学』の前半で東浩紀先生自らが提唱した「グローバリズム」が、なぜこの「進歩主義」の陥穽を免れているなどと考えうるのであろうか?
東浩紀先生はこの本の前半で、人々はヘーゲルの「国家の弁証法」を「超克」しなければならない、と力説する。つまり、国家を超えて、

にならなければならない、と。しかし、その含意は彼のいつもの「持論」を敷衍するなら、国家単位での「福祉」を破壊しようという、隠された願望が込められているわけで、共同体の「福祉」を破壊することを、

  • 世界レベルの福祉に<転換>する

というレトリックによって正当化しようとする。しかしこのレトリックが上記の引用の「新しい人間」といかに近似しているのかに多くの人は気付かれるのではないでしょうか。
また、東浩紀先生は、そのドストエフスキー論において、『悪霊』における、スタヴローギンに注目する。

冒頭でも記したように、スタヴローギンは小説ではテロリストとして描かれている。そして実際に広くそう読まれている。けれどもお実際には彼は、殺人にしろ放火にしろ、みずから破壊行為には手を下していない。彼は集団の構成員の欲望を操作しただけである。しかも、とくに目的があるわけでもなく、操作できるから操作してみただけなのである。スタヴローギンは小説の最後になってもなにひとつ反省していないし(自殺はするが反省が原因とは考えられない)、なにひとつ法的な責任を追及されてはいない。その描写は、『罪と罰』のラスコーリニコフなどとはまったく異なっている。
ドストエフスキーが描いたスタヴローギンの本質は、社会改革への意欲にも理想主義への呪詛にもなく、無関心病にある。他人の運命を操作する。操作できるから操作する。目的なく操作する。現代社会で、そのようなニヒルな関係を世界に対してもつことができるのは、金融市場を介して億単位の金額を日々動かしているビジネスマンや、ネットサービスを介して万単位の人々を自在に動かしているエンジニアぐらいなものである。
ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、これはそのまま、東浩紀先生そのものなのではないのか? つまり、東浩紀先生が「一般意志2.0」というテクノロジーで、どうやって人々を「だまくらかそうか」とたくらんでいる、ニセモノの「テクノロジー」そのものではないのでしょうか。
スタヴローギンは、今で言えば、「サイコパス」なわけであろう。そして、東浩紀先生はそれを

  • おたく

という言葉で、「肯定」した。そのことは、東浩紀先生そのものが「サイコパス」的な振舞いを「意識」していることを意味している。上記の引用の最後で、「ニヒル」という言葉を使っているのは、それが東浩紀先生が考える

的な最終段階の人間の有り様を示しているからなのであって、つまりは、スタヴローギン、また、それが代表している「非人間性」こそが、東浩紀先生の考える「動物化する人間」であり、こういった存在を「肯定」する哲学だ、と言いたいわけであろう。
ところで、東浩紀先生の「観光客の哲学」であるが、前半でヘーゲルの国家の弁証法を批判するという意味で、リバタリアニズムがこのヘーゲルの国家の弁証法を不要にするという意味で、ヘーゲルの国家の弁証法を批判しているのだが、後半では、家族の問題の検討において、ドストエフスキーの小説を作成段階を時系列に検討することで、作者による、主人公たちの思想がちょうど「弁証法」的に、以前の作品のアポリアを「乗り越え」ていく関係になっている、といった記述が現れ、今度は逆に、弁証法を肯定する文脈になっている。しかし、ここで検討されているのはヘーゲル的な意味での弁証法なわけで、ようするに、こういった思考方法は手放していないわけである。だとするなら、前半での「国家の弁証法」を否定した議論はなんだったのだろう? ヘーゲルの「国家の弁証法」を否定するなら、当然それは、「弁証法」的な思考方法への否定に至らなければ、おかしいわけで、だとするなら、なぜドストエフスキー弁証法的に整理しようとする、ということになるのだろう。そういった形で、弁証法が意味があると考えるなら、そう簡単にヘーゲルの「国家の弁証法」だけは「認められない」みたいな、恣意的な選択はできないのではないか。弁証法というのは、最近の整理で言うなら「プラグマティズム」と変わらない。つまり、弁証法と言っている時点で、なんらかの「正しい」ことを言おうという姿勢はなくなっている。弁証法とは、今間違ったことを言うことに、なんの抵抗もなく、でも、いずれ正しいことを言うことができるようになる、という楽観主義(ある種の、メシアニズム)を意味している。しかしそのことは、端的に今の問題を軽視し、極論を無批判に肯定していることと変わらないわけで、いわゆる「反動」と解釈できるわけである。
例えば、東浩紀先生が昔から絶賛し、さまざまな本で言及してきたアニメ「エヴァンゲリオン」は、テレビ版の最初から見れば分かるように、このストーリーは一貫して、主人公の碇シンジが、父親の碇ゲンドウ

  • 言うがままに動いている

だけの物語である。もちろん、ストーリーの展開上、シンジは何度も父親に反発して、エヴァに乗ることを拒否するが、まさに「弁証法」的に、シンジは

  • 必ず

エヴァに帰ってきて(ゲンドウの命令に従って)、父親の願う存在に「結果」として、あることになる。そう考えると、この作品で、そもそも東浩紀先生は一体、何を礼賛しているのか、というのが疑問になってくるわけである。
碇シンジは、エヴァに乗る。しかし、そのことは、使徒との戦いで命を失う、ということと同値である。父親の命令で子どもが自殺をすることを、東浩紀先生は「家族」の礼賛という形で、一種の芸術的美学化を測っているのではないか?
そもそもなぜ「家族」なのか、というアプローチとして、ここで「精神分析」について考えてみるのもいいのかもしれない。ラカン精神分析を自らの哲学理論の中心に置く、東浩紀先生はそういう意味で、フロイト精神分析に基本的に依拠している。そして、全ての心理学的な現象を、父親との関係によって説明する、エディプスコンプレックスを理論の支柱に置く、ラカン精神分析にとって、

  • 家族なし

という「状態」は、それが望ましいか望ましくないか以前に、「家族がない(=エディプスコンプレックスがない)」ということを、そもそも理論が想定していない、という意味で、最初から家族を理論の外に置くような哲学を

  • 構想できない

という関係になっているのではないか?
ここで、少し話題を変えてみよう。
素朴に考えてもらいたい。例えば、あるゲーム「将棋ダッシュ」というものがあって、そのゲームをやろうと、ある人に誘われたとする。そして、私はこのゲームを「将棋をやろう」と誘われて、行うことにした、とする。つまり、私は言うまでもなく、今から自分が行おうとしているゲームは

  • 将棋

だと最初から考えて、このゲームに参加することにOKをしているし、実際にゲームを始めても、将棋のルールだと思って行っている。
ところが、最初に断ったように、このゲームは「将棋ダッシュ」であって、将棋ではない。つまり、ほとんどのルールは将棋と同じなのだが、ある幾つかについて、ルールが改変されている、ということを、ゲームが進んで、相手が打った手が、普通の将棋のルール上では、ルール違反であることに私が気付いて、それを相手に抗議をする過程で、相手から

  • 知らされる

ということになった、というわけである。
これが俗に言う、「後出しじゃんけん」というわけであるが、同じような例は、ヴィトゲンシュタインの「プラス」演算ではなく、「クワス」演算についても言うことができるであろう。
このような扱いを受けたとき、私たちはどう思うだろうか? 例えば、私たちがパソコンでなにかのアプリをインストールしたり、ウェブのサービスをブラウザから利用を始めようとすると、必ず最初に、なんらかの

  • 同意

の行為を求められることを多くの人は経験しているだろう。なぜ、こんなことを行っているのだろうか? それは言うまでもなく、「訴訟」のリスクを避けるために、サービスの提供側が、事前にガードをかけている、というわけである。これが一般に言う

である。こういった同意要求行為における、長々とした同意条件を必死になって読む人は少ないだろうが、自分たちがなんらかの「損害」を、このサービスの利用によって発生したとき、逆に言えば、ここで

  • 同意していない

事実であれば、サービス提供側に、「損害賠償請求」ができる、という意味でもあるわけで、重要なわけである。
私がここで何が言いたいのかというと、この「問題」を曖昧にしたサブカルが近年、非常に多く作成されていることに、一つの危機感を感じるからである。
少し前に、非常に人気もでて話題にもなり、アニメ化もされた、漫画「ぼくらの」という作品があった。この作品は、最初、ある子どもたちが集められ、ある一人の大人に

  • <ゲーム>をやらないか

と誘われて、みんなで始めたら、これが大変な事態を引き起こすものであったことに気付く中で、作品が進んでいく内容であった。
このゲームは、そうやって集められた子どもたちが、ある巨大ロボットに搭乗して、「ファイト」をすることを、何ラウンドか繰り返すことによって、進む。
このゲームの対戦相手は、「別世界」の同じような子どもたちで、彼らも同じような「巨大ロボット」を乗って、お互いで戦う、ということになる。
ここで、毎回のラウンドにおいて、そのゲームに参加する「契約」をした子どもたち全員は、一緒にそのロボットに搭乗するのだが、その搭乗者は、一人だけ「操縦席」に乗る子どもと、その他のその操縦席の後ろにある「観客席」に分かれる。そのラウンドの間、観客席にいる子どもは、基本的に何もできず、その操縦席にいる子どもが戦っているのを眺めることしかできない。
そして、ここからが問題なのだが、このゲームはこの子どもたちが最初に参加することに同意した契約の段階では

  • 教えてもらえなかった

ルールが、これらとは別に二つあることが、この戦いを進める段階で子どもたちは「知る」ことになる:

  • 各ラウンドで行われる巨大ロボット同士の戦いで、もしも負けた場合、その負けた側の「世界」は消滅する。
  • 各ラウンドで行われる巨大ロボット同士の戦いに勝とうが負けようが、「必ず」お互いの「操縦席」に座った子ども一人は「死ぬ」

もうお気付きだろうか? この物語は典型的な

なのである! 
このゲームが始まり、子どもたちがこのゲームを「続けなければならない」と考えるようになると(まさに、弁証法だ!)、子どもたちは

  • 世界を救うために自分の命を投げ出す

という形式となっているわけで、まさに上記の東浩紀先生的「家族」的美徳を礼賛する作品であることがわかる。しかし、言うまでもなく、そう考えるようになったのは、このゲームを

  • 受け入れた

からである。つまり、なんでこんな理不尽なゲームを受け入れなければならないのか、についてはこの作品は一切答えていないわけである。
こういった作品群は、近年、サブカルにおいて、次から次へと大量に作られてきた。例えば、魔法少女まどかマギカがそうであるし、Fate/stay night もそうだ。しかし、驚くべきことに、なぜかこういった「大人たち」の企みに翻弄される、主人公の

  • 子どもたち

はその「欺瞞」に思考が至らない。彼ら子どもたちは、自分が「だまされた」ことに想像がたち至らない。それは、作品政策側が、なんとしても、主人公たちがこの疑問を心に抱かないように、必死になって、会話の「不自然さ」を隠しているから、という印象が私にはぬぐえない。
子どもたちは、その最初の契約の段階で、このゲームの「全て」のルールを知らされていない。もちろん、そうであるのに、このゲームを「やります」と答えてしまった子どもたちの「軽率さ」を指摘することは可能なのだろう。しかし、もう一度、上記の「パーミッションマーケティング」のルールを思い出してもらいたい。
一般に、人間社会における契約は二つのルールによって守られている。

  • ルール内ルール ... そもそも法律違反のルールはそれ自体が法律違反のため、裁かれる
  • ルール外ルール ... どんなに法律内のルールであっても、そのルールを参加者に知らせることなく、参加させ、後で別のルールがあったことを認めさせようとすることは、裁かれる

しかし、この問題は実は、もう一つ、さらに深刻な問題が隠されている、と言えるのではないか。というのは、上記の「ぼくらの」の巨大ロボットゲームの作成者たちは

  • この世界を消滅させられる力をもっている

わけである。つまり、この作品は、そもそも

  • 現代の人間文明を圧倒的に上回る「宇宙人」侵略モノ

の色彩をもっている、ということなのだ! 彼ら「外部」の生命体は、そもそも簡単に、地球人を絶滅させることができる。ところが彼らはそれをやらない。それは、彼らは「平和的」だからではなく、たんに、あまりそのことに興味が移らないから、とでも言うしかない理由によって、ということになる。
しかし、だからこそこういった「ゲーム」を提案したりする。彼ら宇宙人は、そもそも地球が滅びようが滅びなかろうが、本質的に興味がない。だから、ゲームという

  • 偶然

で地球が滅びたとしても、「それがどうした」的な感じで、そういった結末さえ、普通にありえるゲームを「遊ぶ」わけである。
例えば、原子爆弾は人間が地球を破壊する可能性を考えて、できるだけ失くしていくべきだ、という運動がある。これに対して、SFマニアたちが「反対」してきたレトリックに

  • もしも、地球外生命体が地球を侵略してきたとき、原子爆弾があったなら「助かった」かもしれない

なら、軽々に地球人は手放すべきじゃないんじゃないのか、と言うわけである。同じことは、未来の人間が現代にタイムスリップしてきて、現代人をはるかに超えるテクノロジーで現代人を皆殺しにしたら、とか、同型のアイデアは切りがないほど、唱えられている。
しかし、こういったレトリックこそ、まさにハイデガーナチスを「礼賛」した陰謀論的妄想であり、それに対して、痛烈に罵倒した、ヤスパースの批判だったわけであろう。

ナチズムという話題はまるごと避けられていたが、ようやく一九五〇年の三月になってハイデガーは自分からこの話題をもちだし、一九三三年以後の自分がなぜヤスパースの家族と間遠になったのかを説明しようとした。あなたの奥様がユダヤ人だから疎遠にしたのではありません、とかれは断言する。「むしろ、わたしは単純に自分を恥じたからなのです」。ヤスパースはこの羞恥心の表明に心うたれた。かれはそれを悔悛の吉兆ととって、あの暗黒の歳月のあいだハイデガーは自分が何をしているのまもわからない子どもだったのだ、といってやったのである。もしハイデガーが恥知らずな自己正当化と無責任な政治的省察でこれに応じることを選んなければ、そこで問題は落着していたのかもしれない。かれは無垢な子どもという自己イメージに飛びつき、ユダヤ人たちと左翼が迫害を受けていた三〇年代には、たしかにかれらのほうが自分より目端がきいていたとみとめる。だがいまやドイツが苦しむ順番にあたっており、自分のほうにそれを憂慮する者はいないようだ、とハイデガーは嘆いてみせる。ドイツはどちらを向いても敵に包囲され、スターリンは連戦連勝中である。なのに「世間の人々」は気づかぬふりを決めこんでいる。近代人が信をおく政治的なものの領域は死んで、いまやテクノロジーと経済の損得勘定に制覇されてしまった。われわれはいまや、ドイツ人のあらたな故郷喪失(Heimatslosigkeit)から突如として隠された「到来」が出現することしか期待できない、とハイデガーは結んでいる。
ヤスパースは二年待ってからこの奇怪な罵倒に返答した。ハイデガーは救われない----ひとりの人間としても思想家としても。ヤスパースは最終的にそう結論せざるをえなかった。かれにとってもはやハイデガーはあるべき哲学者像ではなく、危険な夢想の火に焼き尽くされた悪魔的な反哲学者であった。こうしてかれは、かつて自分が敬愛した男めがけて感情もあらわに襲いかかった。

あなたのお手紙のそうした文章のうちで思索し語り、何か途方もない幻想を作りだしている哲学は、現実から隔絶することによって、実際にはまたもや全体主義の勝利を準備するものとなるのではないでしょうか。それはちょうど、一九三三年以前に流布していた哲学がヒトラーの受け入れ準備に手を貸したのと同じではありませんか。こんども似たようなことが起こるのではありませんか。......
政治的なものをあなたはすでに役割をおえたものとみなしておいでえすが、それが消えてなくなるなんてことがありうるでしょうか。政治的なものは、たんにその形と手段を変えてきただけではないのではありませんか。また実際にも、ひとはそのことをみとめなければなあないのではありませんか。

つぎにかれの矛先は「到来」へのハイデガーの希望にむかう。

それを読んでわたしの恐怖は増大しました。それはわたしの知るかぎり、過去五〇年間にわたって----そのつど「時宜にかなった」歴史的瞬間に----われわれを愚弄してきた実に多くの夢想と同じく、そのものずばりの夢想です。ほんとうにあなたは、預言者として進みでて、隠された源から超自然的なものを明らかにしてみせようと思っているのですか。そそのかされて現実から離脱した哲学者とでもいうように。

ハイデガーはこれらの問いかけにどれひとつ答えなかった。つづく一〇年間は、誕生日のご機嫌伺いの文句を添えた短信が二人のあいだに行き交うことはとりおりあっても、友情は終わっていたのである。
シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

ハイデガーはまさに「セカイ系」の元祖である。そもそも、「世界」が問題だと言い始めた人こそハイデガーであって、基本的に、東浩紀先生の言っていることは、このハイデガーの口パクであるわけであろう。
こうやって見ると、ハイデガーは確かに、無惨である。そのナチスに深くコミットメントした戦争中の行動も無惨であるが、彼は戦後も一度も「反省」なんかしていない。勝手に周りが、彼を「勘違い」してくれて、比較的に罪を免除されたから、のうのうと戦後も哲学的文章を書いて生き延びたわけであるが、上記の引用にあるように、まったく、戦争中と同じことを戦後も考えていたし、その程度の人間なわけであろう。
しかし、似たようなことは、最初に挙げた、マーク・リラの本が次々と示しているように、多くの哲学者も示している。その一つの例として、ジャック・デリダをとりあげてみる。

アメリカでデリダポストモダン聖典中の古典とみなされている。しかし実は一九九〇年になってもまだかれは、脱構築の政治的含意を説明してはいなかった。そこでときおり本が出版されては、コードを解読し、脱構築とたとえばマルクス主義フェミニズムのあいだにある隠された類縁性を発見したと言い張ることになった。当のスフィンクスはただにやにやしただけだった。しかしいまや、ジャック・デリダがとうとう口を開いた----口を開き、過去一〇年間で政治的な主題を論じる書物を六冊も出版したのだ。パンフレットとインタビュー集にすぎないものもあるが、三冊----一冊はマルクスを論じ、一冊は友情と政治を論じ、一冊は法を論じている----な内容豊かな学術的論考である。なぜデリダがこのときを選んで政治的デビューをはたしたのかは、よく考えてみるべき問題である。フランスではこのときほどかれの思想が期を失していたこてぁなく、この六冊の著作もフランスでは出版時に困惑の眼でみられた。だがアメリカでは、ポストモダニズムが影響力を保ちつづけ、デリダもいまではアメリカでの教育に多くの時間をさいているのであるから、かれのおせっかいはこのうえもないほど時宜にかなったものとなりえたのだ。
シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

フランスにおいて、ジャック・デリダはそのアメリカでの成功に比べて、人々から馬鹿にされていた。それは、上記にあるように、彼の言う「脱構築」が結局のところはなんなのかを、だれにも分かるように説明しない態度だとか、また、一貫して、その「政治的含意」についての説明責任を果さない態度などから、知識人としての責任を果してこなかった、と解釈されていたからなわけであろう。
ところが、中期デリダ以降、彼は急に、政治的な発言を行うようになる。しかし、そもそもフランスの人たちにとって、その、あまりにも意味不明な「転向」は、なんで今さら、今さら遅い、といった「あきれはてた」感覚を抱かせるだけで、まともに相手にされなかっただけでなく、そもそも、そこで主張していた「内容」においてさえ、問題含みだったわけである。

ところで、そうはいってもかれには、正義と呼ばれる概念は存在し、しかもそれが「法 / 権利の外または法 / 権利のかなた」にあることを主張したいという願いもある。だが、この正義は理性によっても自然によっても理解ができないのであるから、その意味に接近する可能な手段として残るものはただひとつ、啓示である。デリダはこのことばを回避するのに懸命だが、かれが述べているのはまさしくそれなのだ。『法の力』でかれは、「不可能なるものの経験」としての、すなわち、あらゆる経験を超えて存在し、それゆえ分節化されえないものとしての「正義の理念」について語っている。そして、分節化されえないものは脱構築されえない。それはある神秘的なやり方でのみ経験されうる。
シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

ジャック・デリダは自らが満を持して始めたこの「政治的発言」において、結局のところ、ヨーロッパにおける伝統的な

  • メシアニズム

に逃げ込むことしかできない。あらゆる「積極的」な左翼的な「正義」を、それそのものとして語れないデリダの哲学的な立場は、それによって、ハイデガー構造主義を批判しえているといくら(パフォーマティブにw)言いえたとしても、端的には、何も言っていないことでしかない。だから、それを

  • はるか未来

を投影する、というわけであるが、それこそまさにハイデガーが語っていた意味での、メシアニズム的な「隠れた存在の未来における現れ」に運命を託す、みたいな議論を繰り返しているわけで、フランスの人たちが、デリダのこの時期の政治的発言を、まともに相手にしなかったというのも、ゆえあるかな、という感じなわけでしょう。

伝統的に哲学者の政治的コミットメントがさかんであったがゆえに、政治哲学の健全な発展が阻害されてきたフランスにおいて、その傾向をサルトルとともに代表するフーコーの点はとくに辛い。本書でリラは、かれらに欠けていたものをプラトンにならって「節度」(moderation)と呼んでいる。
(中金聡「訳者あとがき」)
シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神

このリラという人は、レオ・シュトラウスの教えを受けた人ということのようだが、レオ・シュトラウスのような「政治」哲学の中心を歩いてきた人たちにとっては、こういった哲学者たちはあまりに政治に「ナイーヴ」すぎて、目もあてられないほどに滑稽にどうしても写る、ということなのであろう。というか、こういった「問題」は、まったく今もなお続いているように思われる。自称「哲学者」たちの、政治的パフォーマンスは、一般社会に多くの害悪をまきちらしていながら、社会の側の免疫がないために、第二のハイデガー、第三のハイデガーを何人も輩出してしまい、ナチス的勢力の台頭を許してしまっている印象はぬぐえない。この問題に対する本質的な解決策はないのかもしれないが、もっと単純に

  • たんに「自称哲学者」を世間は<信用しない>

という、人間として「当たり前」の態度(その人が、なにものだから、どうのこうのではなく、その人そのものにおいて、評価されるべき)に立ち戻る、という「まっとう」な姿勢を再度、こころがける、ということしかない、ということなのであろう...。