カント哲学に言及することに意味はあるのか?

今さら語ることの意味もよく分からないことだが、伊藤計劃の遺作となった小説「ハーモニー」における主題は

  • 意識

だったわけだが、結局のところこれが「何なのか?」といった命題について改めて問うことには、なんとも言えない苦々しい感覚に襲われる。というのは、こういった問いは、いわゆる「哲学」と呼ばれる分野が、はるか昔から、執拗に取り組んできた命題であって、いわばそれを「踏襲」して、人文系の心理学、さらに理系の神経学、生物学なりが、まあ、なんとなく分かったような

  • 説明

を「とりあえず」のものとして用意しているのであろうが、別にそういった説明を受けたからといって、それが結局のところなんなのか、というか、私たちが知りたかったのは、そういった「説明」じゃないんだけれどな、といった残念感が漂うというわけである。

複合的、または複雑な生物学的システム[たとえば多細胞生物や脳]には階層構造があり、その頂点に近づくほど複雑性が増す(図2・2)。こうした生命階層システムでは、進化的変化はほとんど高次段階で起こる傾向がある。たとえば、DNAの遺伝暗号はたいていの生物で同一であり、どの動物細胞にも同じ細胞小器官ができるが、組織や器官は動物門ごとに多種多様だ。そして階層の頂点に位置する動物の身体は、蠕虫類からエビやイグアナまで、きわめて変化に富んでいる。私たちはこうした傾向がある理由を「階層のすべての段階に自然選択は働くが、最高次段階である生物個体に対してもっとも強く働く。生物個体こそが、特定の外的環境が突きつける難題や変化に対してもっとも直接的に相互作用する」からだとした。一方で低次段階は、高次段階よりも身体の内部で守られている。
創発と拘束は相互に関係のある概念であり、すべての階層システムに当てはまる。創発は第1章で簡単に紹介したが、ここでさらに詳しく考察しよう。創発的特性と階層構造のあいだにある密接な関係について次のように説明したのは他でもなくジェグウォン・キムである。

この世界の根本的実体とその性質は物質的ではあるが、物質的プロセスが一定レベルの複雑性に達したとき、まったく新しい、予測不可能な性質が創発する。そして......この創発のプロセスは累積的に、いっそう複雑で新しい性質の階層を生成する。したがって創発主義では、世界は進化プロセスのみならず層状構造として描写される。これは性質の段階が階層的に組織化されたシステムであり、それぞれの段階は、ひとつ下の段階から創発し、これに依存している。

細胞間および分子間の相互作用から創発する、私たちの身体のとりわけ複雑な生理学的プロセス[生命や意識]は、創発の好例である。その他の一般的な例では、もっと時間的拡がりがある。たとえば単細胞生物から多細胞生物や多細胞植物への進化(図2・1を参照)、または受精卵から胚、胎児、新生児を経て身体が完成する発生、発達が挙げられる。脊椎動物の前脳[大脳と間脳の総称]の進化的精緻化もそうだ。この場合、魚類と両生類の祖先にあった単純な前脳から、両生類、鳥類、哺乳類、一部の魚類で、巨大で複雑な前脳中枢が神経軸[neuraxis](脳を上端とした脳 - 脊髄の基準軸)の最上端に新しく進化した、その代表例が、ヒトやその他の哺乳類の大脳皮質である。
階層の一部が高次段階に新しい性質を生みだすことが創発であるのに対し、拘束は高次段階が低次段階に支配を及ぼすことである。生物学者のハワード・パティーによると、階層的拘束は複合的な生物学的システムの創発に欠かせない。

もし生物学一般の理論があるとしたら、一貫した機能を果たすように物質を制御する、階層的拘束の起源と作用(確実性や持続性を含めて)がその理論で説明される必要がある。これは、なぜ特定のアミノ酸配列が特定の反応を触媒するのか、といった問題だけではない。この問題は普遍的であり、すべての生体の特質だ。分子から脳まで、生物組織のすべての段階で見いだされる。これは、生命の起源の中心的問題だ----生命の起源では、初めは基礎的な物理法則にしか従っていなかった物質が集まり、それぞれの分子に対し機能的で集合的なふるまいをするよう拘束するようになった。これは、発生の中心的問題だ----発生では、細胞の集合体はそれぞれの細胞の成長や遺伝子発現を制御する。これは、生物進化の中心的問題だ----生物進化では、細胞集団に対する階層的拘束を生みだし、いっそう大きな組織を形成する。これは、脳の中心的問題だ----脳を記述するためには、無限の新しい階層段階が想定可能なように思える。どれも階層的組織化の問題である。理論生物学はこの問題を根本的なものとして捉えなければならない。階層的制御は、生命の本質的で際立った特質だからだ。

ヒトの身体のような生きているシステムでは、細胞は自身の構成要素(細胞小器官)に対し共同作業をするよう拘束し、組織や器官は自身の細胞に対し連携するよう拘束し、身体全体は自身の器官に対し結託するよう拘束する。これらはすべて、身体の生存に必要なあらゆる生理学的機能を果たすためのものだ。いかなる段階であっても、もし拘束が損なわれれば、身体はバラバラになり死んでしまうだろう。
これは高次段階が常に、完全かつ厳格に低次段階を制御しているということを意味するのではない。多くの段階では、低次段階は相互作用して重要な機能を果たすのだが、低次段階が受けるトップダウンの影響は最小限に留まる。

意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

カントは「理性」が他の動物にはない、人間に独特の特徴として考えたわけだが、こと「感覚意識」ということでは、例えば、犬や猫のような人間に親しい動物を考えても、そこに、人間との違いがあるようには思われない。そう考えるなら、この「感覚意識」というレベルでは、人間も他の哺乳類動物も、そこまで違わないんじゃないのか、といった印象をどうしても受けないではいられない。
こういった複雑なシステムの構造として、上記の引用では「階層」に注目する。ようするに、人間であろうが他の下等生物だろうが、下層のシステムとしては非常に似ている。お互いの違いは、「高層」の存在にあるということになるわけだが、その「高層」はまた、何重にも重なりあって、その「相互作用」をうかがわせる。
ではこの場合、いわゆる「感覚」と、この「感覚意識=経験」は、一体どういう関係にあるというのであろう?

神経系は客観的には何十億ものニューロンでできているが、意識は主観的に統一された場(意識の中心舞台)として経験される。これは「砂粒論」と呼ばれている。脳は客観的には砂粒の集まりのように見えるのに、主観的には砂浜全体として意識が経験されるのだ。「単眼的知識」は主観的な心的統一性という謎をうまく表した典型例である(図1・2)。左右ふたつの目から別々の情報が届いているのに、単一の視点から生じたかのような統一された視界を経験するのはなぜかという問題だ。つまり物質としての脳は分割可能で延長をもつ[空間的広がりがある]という客観的な特徴があるのに対し、意識は通常ひとつの中心的な経験に統一されているのである。この矛盾を解決し、ギャップを橋渡しするにはどうすればよいのだろうか。
意識の進化的起源: カンブリア爆発で心は生まれた

このことは、私たちが普段はあまり意識をしていないことではあるが、決定的に重要なポイントである。私たち人間の二つの目は、常に、なんらかの「刺激」を受信しているわけだが、普通に考えるなら、それぞれはまったく

  • 独立

して行動している、つまり「感覚」としてはまったくなんの関係もないはずであるのに、なぜ私たちは「そう」だと思わないのか。つまり、ここで言おうとしていることは「感覚」と

  • 経験

は、まったく別のものであることを示しているわけである!
ところで、こういった「問題」はそもそも、カントの純粋理性批判における、最も重要な命題として検討されていたわけである。

カントの示す図式は以下のとおりである。

  • 一、あらゆる現象の与えられた全体の合成の絶対的完全性
  • 二、現象のうちに与えられた全体の分割の絶対的完全性
  • 三、現象一般の成立の絶対的完全性
  • 四、現象のうちで変化するものの現実存在の依存性の絶対的完全性

(B 442)

カント入門講義〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

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私たちは「なぜか」このように、世界をこういった

  • 統一

されたなにかとして、「経験」している。というか、そういったものとして理解「できている」ということが不思議なわけだが、おそらく、そういった意味においてなら、かなりの哺乳類においても同様の「経験」がある、ということは言えるのではないか。
私たちは、この二つの目の「刺激」の

  • 独立性

をまったく意識しない。これは何を意味しているのか? ただ言えることは、人間の「体」がそうしている、と言うしかないわけで、なんでと問うても、まあ、そうなっているから今まで人間はこうやって進化論的にこの地球上を生き残ってきた、としか言えないような、なんらかの「統一性」があるわけである。
これは、なんらかの「完全」さとか、そういったことを意味しているわけではない。ある種の精密な「観測装置」であり、正確な「記録」がこのようなことを結果しているというふうに考えるより、逆に、

  • さまざまな誤差を「そのように」感じさせない

ような、そっちの方の人間の「能力」の方にこそ、その特徴があるわけで、そう考えるなら、おそらくかなりの割合において、人間の「体」は「勝手」に、なんらかの調整をしていることが考えられる。
カントの純粋理性批判を特徴づけるのは、この人間の特徴に対応する形で、ある「アンチノミー」の命題群を提示したところにある。

第一のアンチノミーでは、「世界は時間において始まりをもち、空間に関しても限界のうちに取り囲まれている」という定立に対し、「世界は始まりをもたず、空間における限界ももたない。むしろ世界は、時間に関しても空間に関しても無限である」(B 455)という反定立が対置される。重要なことは、ここで問題になっているのが、カントもはっきり示しているようにそれぞれに証明可能な命題であるということ、そしてこの証明がいずれも事柄の本質から引き出されたものであり(B 458)、それゆえに理性を自己自身との矛盾に陥れるものだということである。理性が懐疑論や頑固な独断論に陥るべきでないとするならば、この矛盾は除去されなければならない。第三のアンチノミーの場合にも事情は類似している。このアンチノミーにおいては、「自然法則に従った原因性に従った原因性が唯一のものではない......。(世界の現象の)説明のためには、さらに自由による原因性を想定する必要がある」という定立と、「いかなる自由もない。むしろ世界におけるすべてのことは、ひたすら自然の法則に従って起こる」という反定立が対立する(B 472f.)。
カント入門講義〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)

カントのアンチノミー。世界の始まり、世界の限界、絶対的な自発的なもの、絶対的に必然的な存在。この四つのアンチノミーのうち、非常に問題含みであったのが、第三のアンチノミーなわけで、というのは、いわゆる

  • 自由、自主性、主体性

といったものを、カントが

  • 超越論的自由論、超越論的観念論、叡知界、ヌーメノン

といった概念を使って、ある種の「(プラトンの)イデア論」を思わせるような、「形而上学」で説明したことは、カントの「物自体」と同じくらいに

  • 評判の悪い

説明として今に至っている。

オニールの Acting on Principle(文献一覧参照)の新版(Canbridge University Press, 2014)の序文における回想によれば、一九六〇年代後半までの英米圏では、カントが哲学的倫理学の真剣な検討対象になるようなことはなかったという。
(城戸淳「訳者後記」)

カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

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このカントへの「悪態」は古くはヘーゲルなどの「同時代人」から、ニーチェを経て、現代の功利主義者のピーター・シンガーに始まり、分析哲学者やプラグマティスト、科学哲学者に至るまで、とどまることを知らない。まあ、哲学の歴史は、カントをバカにする歴史だと言ってもいいくらいに、その悪態は限りがない。
しかし、である。

この論点にきわめて敏感なセラーズが言い表すように、「考える存在者が「責任を担うことができない」ようなものかもしれないという可能性を、カントは開いたままにしている。いいかえれば、それは精神的または思考的な自動人形(automaton spirituale or cogitans)、思考する機械仕掛けなのかもしれない」。セラーズによれば、われわれはみずからをそのような思考する機械仕掛けより優れたなにかだと意識しているとカントは確信しているが、しかしまたこの「より優れた」ということがたんなる幻想、「頭脳が紡ぐ幻」かもしれないという可能性をカントは懸念してもいる。セラーズの見解は誤謬推理論におけるカントの合理的心理学批判についてのものであるが、弁証論における行為者性論にも容易に適用しうる。
セラーズの見解はまた同じく、規準章にも適用しうるように思われる。すなわち、規準章におけるカントの当惑せざるをえない示唆によれば、われわれに知られうるところをまったく裏切って、「感性的な衝動にかんしては自由と称されるものが、より高く、より遠く離れた作用因にかんしてはふたたび自然になるかもしれない」(A803/B831)。
カントの自由論 (叢書・ウニベルシタス)

つまり、カント自身が自らが提案した「叡知界」の持論を、将来のいつの日か、撤回する日が来るかもしれない、と言っているわけであろう。これを考えるなら、現在の神経脳学者たちが、より唯物論的なモデルで、脳の動作を解明していこうとしている連中が、こういったカントの主張を無視して彼を嘲笑し続けているのは、むしろ、彼らこそがなぜそこまでしてカントがこういったモデルにこだわったのかの、その理由を理解していないで、楽観的な見通しを語っているだけなわけであろう。
例えば、ヘーゲルが分かりやすいように、彼らがカントをバカにしたということが、彼らがカントが関心をもっていたことに、カントの延長において、なんらかの解決を与えられたのか、ということを意味しているわけではない。むしろ、ヘーゲルの説明における、なんらかの物語的な説明が、どこか論点先取りを感じさせる「うさんくささ」を意味しているように、なんら本質的な問題への取り組みを意味していたわけではないことを考えると、この問題の深刻さを感じさせる。
このことは、例えば、法律の世界における、現代における「カント主義」の隆盛を考えると、よく分かる。どんなに哲学の分野においてカントがバカにされていようと、国際法を始め、世界中の法律はどこを見ても、カント主義そのものなわけであろう。人間の

  • 自由

を基盤にして、個人の自主性、主体性、人間の尊厳。こういった概念を中心にして、構成されるそういった法的な概念には、まさに上記で問題にしたような、

  • 超越論的自由論、超越論的観念論、叡知界、ヌーメノン

によってカントが「超越論」的に正当化した

  • 自由

に深く依存した概念によって提示されているし、そのことに、多くの人は別に、今さらカントを読み直して、この基盤の脆弱性を深く考えることすらない。
おそらく、人間の脳の中で行われている、なんらかの「選択」や「自主性」といったものは、本当は「自由」ではない。それを私たちが「自由」だと思うのには、なんらかの「差異」が関係している。つまり、相対的な「自由さ」の差異が、こういった「選択」や「自主性」を、他のものと比べて、「自由」なものだと思わせる

  • 近似的なモデル

が想定できる、ということなのだろう。上記で検討したように、私たちは「現象」しか「経験」できないし、その「現象」とは私たちの知覚器官との

  • 相対的

なものとして意味があるにすぎない。自主性の問題も同じで、相対的に自由度が高いものとそうでないものの違いはあるわけで、それが、上記で引用した脳の「階層性」に関係している。より下位の神経系は、自由度が弱いが、より上位の大脳とか、言語野のような所になると、例えば、

  • 血流の多さ・少なさ

のような、ちょっとした理由でも、大きな判断の方向の違いが生まれるわけで、そうなってくると、これが自由でないとか言うことに、相対的にはあまり意味がなくなってくる、ということもあるのであろう。
それでは、なぜ、そんなことになるのであろうか?
結局、その答えは「17世紀」にあるのだろう。

発表後、当時大阪市立大学におられた小林道夫先生から、もし研究者になりたいのなら、ロールズではなく、「真っ当な哲学」(!)に取り組むべきであるとアドバイスを賜った。まさかそのように言われるとは予想していなかった私は思わず、では哲学とは何かと質問した。すると、小林先生は厳かに断言された。哲学とは一七世紀の哲学のことである、と。

ロック倫理学の再生

ロック倫理学の再生

ポストモダンが、マルクス主義のロシアでの収容所国家化への反動として、つまり、資本主義の

を反語的に(マルクス主義の否定という延長)肯定したことと同じように、現代思想と呼ばれる一連の近年の「哲学」は、はっきり言ってしまえば、17世紀の哲学を、ほとんど

  • 噂レベル

の記述にまで薄めて、なんだか勝手なことを言ってもいいかのようなパフォーマンスとしてしか、存在しえなくなったわけで、つまりは、17世紀の哲学者たちが実際には、何に取り組んでいたのか、を軽視した。その彼らの

  • 問題意識

なしに、近年はまるで、「受験勉強の暗記項目」ででもあるかのように、哲学はその彼らの格闘した問題意識と離れて、勝手にだれもが自分の問題を代替して語る「ファッション」になってしまった。
むしろ、17世紀の哲学とは結局なんだったのかを考えることによって始めて、多くの問題の見通しをよくする、ということなのであろう...。