日馬富士と「観光客の哲学」

今日のニュースでは、大相撲のモンゴル出身の横綱である日馬富士が自ら引退を申し出たということで、もちきりになっている。昼間には、その記者会見を開いたらしい。
ちまたでは、さまざまな噂がとびかっている。元横綱貴ノ花親方が、モンゴル出身力士たちの「談合」を疑っているとか、なんらかのモンゴル出身力士内での「ドーピング」を疑う話まで口にする人まで現れているというわけだが、こういった人たちにとっての「ヒーロー」はどうも、貴ノ花親方だというわけで、彼に大相撲界の

  • 改革

をぜひ実現してほしい、ということが本音だというわけである。
しかし、である。
私はそもそも、そんなことに関心はない。昔から相撲にはどこか「八百長」の性質があるんじゃないのかといった指摘は、数限りなくあるわけで、また、統計的にみても、千秋楽で勝ち越しの境界線上にいる力士の勝率がはるかに高いといった指摘があることからも、そういった疑いはそう簡単には消えないのであろう。
そもそも、私は「プロの格闘技」という概念を疑っている。そんなものは存在しない。人間は繊細な動物であり、ちょっとしたことで壊れてしまう。だとするなら、あらゆる「格闘技」は、絶対に相手をおもんばかる形でしか成立しえない。柔道であれ、相撲であれ、基本的に、相手にどうやって怪我をさせないで勝つのかが競われているのであって、そうである限り、それがプロフェッショナルにはなりえないのだ。
つまり、問題はそんなところにはない、ということなのだ。大相撲は、そもそもその起源は、江戸時代にさかのぼり、つまりは「神事」である。神になにかを捧げる行事なのであって、その身体性になんらかの意味があると思う人はそれを、ありがたがればいいのであって、そうでないなら無関心でいればいい。たとえそれが自らの理解を超えていたとしても、当事者たちがなんらかの意味を見出しているのなら、他人がとやかく言う問題ではないわけだ。
私がむしろ、気になっているのは、今回辞めたのが、モンゴル出身の横綱であり、直接には彼による、貴ノ花部屋所属のモンゴル出力士への暴力を原因にしていたことだ。
つまり、これは

  • モンゴル

という国から、「外国人労働者」として日本で働いている人たち同士による「トラブル」から起きている

  • 国際問題

だ、というところにポイントがある!
言ってみれば、日馬富士貴ノ岩も、東浩紀先生の「観光客の哲学」のフレームで説明すれば、モンゴルから日本に来た

  • 観光客

だと言うことができる。そして、その二人の観光客が、この「外国」の日本内で、

  • 「ふまじめ」「不謹慎」行為

を行ったことから「派生」している問題だということになり、ここで判断を誤れば、日本とモンゴルの間での

  • 国際問題

にまで発展する、ということなのだ。
たんに、貴ノ花親方は「ヒーロー」だとか言って、このまま、モンゴル出身力士を徹底して「パージ」を始めれば、こと大相撲の世界の中に閉じたことであっても、外国人労働者を適当に使い潰して、気に入らないことがあると、適当に捨てればいい、と世界から解釈されて、日本の「労働環境」への非難に発展しかねない。貴ノ花親方は「ヒーロー」なのではなく、

  • 当事者

である。問題があるなら、彼は「内部」から改革を今までだって行ってこなければならなかったのであって、そういった外国人を「敵」認定していればすむ話ではないわけであろう。なんらかの、外国人労働者を受け入れる「体制」が、そもそも大相撲界に存在したのか、こそが最初に問われなければならないわけであろう...。


追記(2017/12/02):
週刊誌ではおもしろおかしく、横綱白鵬が主犯で、日馬富士白鵬に忖度したのだろう、と。だから、白鵬も引退すべきだ、とか好き勝手書いているみたいだが、そもそも「プロの興業主」として、あなたが大相撲を「興業(=プロデュース)」している、当事者だったら、と考えてみてほしい。日馬富士は相撲界にとっての「目玉」力士であり、その一人が抜けることは、興業全体の「人気」や「魅力」に影響を与えるのではないか、と考えないのだろうか? 貴ノ花親方が日馬富士は辞める必要はなかった、と言ったのはそういうことで、彼は一人の「興業」担当者の立場から、その損失のデメリットをよく理解して言っているわけである。対して、ツイッター界隈で、「絶対<貴ノ花>支持」とか言って、はしゃいでいる連中は、結局なにがしたいのだろう? どういった人脈の文脈なのだろう...。