進化論と「叡知界」

生物の複雑性を説明するロジックとして、「進化論」は今では誰もが認める学説になったわけだが、これがどのように生物の複雑さを説明しているのかを考えることは、多くの示唆に富んでいる。
カントの純粋理性批判をもちだすまでもなく、この自然界は「物理法則」に則って、一切は

によって、すべてはなんらかの「自然」の原因の「結果」としてあらわれる。しかしそうだとすると、この生物の「行動」というものを、どのように説明すればいいのかが問題となる。
しかし、その場合、これを「進化論」はどのように説明するのか、と考えてみればいい。進化論とは何か? これは名前がよくない。本当は

  • 淘汰論

なのだ。つまり、生物はその圧倒的多数は、自らの子孫を残さず、その前に「滅びる」。しかし、その種という単位で見たときは、そう簡単に滅びない。この生殖行動を継続して、一定の個体数を平均しては残していく。
では、なぜその一定の割合は、「淘汰されなかった」のだろうか?
ここの説明が興味深い。つまり、

  • なんでもいい

ということなのだ! どんな理由であってもいい。とにかく、「生き残った」という事実がそれそのものであって、その生き残ったということが、その個体の「性質」として、その子孫に引き継がれていく、という事実性となる。
よって、ここには二つの性質があることになる。

  • その個体の生き残った「理由」がもしも、遺伝的に引き継げないものであれば、子孫にはその「有利」さは関係なくなる(独立している)
  • しかし、そういった「理由」は一つである必要はないわけで、つまりは「周辺理由」として、多くの「有利」さが関係がある、と考えることもできる

さて。生物の原初的な特徴を考えてみよう。まずは、どうやって「エネルギー」を外部から取り込むか、ということになる。それは、端的には、自分の身の周りに、そういった物質が「ある」という条件が大きいだろう。つまり、なんの苦労もせず、勝手に自分の中にそういったエネルギーが入ってくる条件である。そして、この条件は少しずつ、難しくなっていく。つまり、「反射」である。つまり、「ある」刺激に対して、ある「反応」を行った場合は、そういった「エネルギー」を獲得するための、ある「行動」を反射的に行うような「行動慣習」を獲得すれば、比較的エネルギーの獲得に成功しやすくなり、淘汰回避となりやすい。
他方、自分という「エネルギー」を他の生物に使われる(=捕食される)ことへの「回避」が重要ではある。最初の段階は、ただひたすら敵に出会わない「環境」であることを願うか、いっくら敵に食べられても減らないくらいに繁殖するか、ということになるのだろうが、これも、ある段階において「反射」を獲得するようになる。つまり、ある敵が近くにいる蓋然性が高い兆候をとらえたら、すぐさま逃避行動に入るような「行動慣習」の獲得ということになる。
さて。こういった「反射」行動は、すでに

  • 神経系

を前提にしているところがある。すでにここで言う「生物」は、たんなる細胞ではない。つまり、多くの細胞がそれぞれの「役割」を果して「協働」している、ある「集合」的な存在である。そして、神経系は、ある意味において、コンピュータにおける「プログラミング」のような役割を果たす。
大事なポイントは「なぜ」そのような行動慣習を獲得したのかではない。どんな理由であれ、「それ」が

  • 結果

として淘汰回避に役立てば「生き残る」わけである。
大事なポイントは、これは「ルール」ではない、というところにある。「それ」がなにから作られていようと、間違って作られたのであろうと、なんらかの製造過程での「欠品」であろうとに関係なく、

  • 有利

なのかどうかがその「選択」を「結果」するわけで、ここには完全なる「アナーキズム」が存在する。
ここから一気に、人間の「自由」の問題にまで飛躍したい。
なぜ私たち人間は自らの行動が「自由」だと思えるのか? 上記で注意したように、この世の中のすべては自然の因果律に支配されているのであって、その外に逃れることができないことが分かっているのになぜ私たちは、そうではない、カントの言う「叡知界」を想定して振る舞っているのか?
それは言うまでもなく、上記の「神経系」に関係している。神経系における「反射」は、それ以降の人間の「思考活動=意識」の原初的なベースであるわけだが、基本的な構造は変わっていない。それは、その「反射」行動を行う、というその行動のメカニズムは基本的には、その原因であった「刺激」とは

  • ずれて

存在している、というところにある。つまり、これは「自然法則」ではない。水が気温の低下で氷になったり、気温の上昇で水蒸気になったりするような「自然法則」の

に皮をかぶったような形によって、「生物的なマクロのレベルでの<メカニズム>」が、このような事態をひきおこしている。つまり、これは「神経系」という、なんらかの「コンピューター」がそのように「プログラミング」されているから、そのような反射となったのであって、このシステムの生物学的なマクロのレベルでの進化論的な

  • 生成

なしには起こりえない事態だというということになる。先ほどから言っているように、「なぜこんなコンピュータができたのか」と問うてはならない。なぜできたのかではなく、

  • できたものが<淘汰回避された>

という形になっていて、つまりはこのコンピュータを作ったのは

  • 膨大な時間の間の膨大の「無駄」を繰り返しながらの試行錯誤の連続

が突然変異的に生み出したとしか言いようのない「なにか」なわけである。
つまり、ここには「不連続」がある。
物理法則における「ミクロ」のレベルでの因果法則に対して、ここで問題になっているのは「生物学のレベルでのマクロなレベルでの<メカニズム>」なのであって、私たち人間はこの、自らの身体に備わっている「コンピュータ」を意識しない。ですから、この「マクロ」な因果関係のもしも

  • 原因

を指示するとするなら、そういった過去の祖先の時代に獲得された「遺伝形式」にまでさかのぼって指摘しなければならない。つまり、一切の因果関係は、この私たちという

  • 生物

がこの地球上に生まれた時点から今に至るまでの、この私に連なる

  • 全て

の生物学的(=遺伝子的)な「刻印(しるし)」が「原因」だと言うしかないような何か、となっているということなのだ。
さて。
なぜ私たち人間は、自らがカントが言うように「自由」であり、自由に「選択」していると考えるのか。それは、私たちがこれらの「プログラム」を

  • 意識できない(=意識していない)

ことに関係している。上記で検討したような、非常に複雑な、さまざまな生物学的なマクロな「コンピュータ」を自らの中に内包している私たち人間は、それらが複雑に相互作用を行って実現している、さまざまな「行動」を

  • 自らの主体性で「選択」して行動している

と受け取るように、一貫して「脳」が勝手に<解釈>していて、その脳の働きはまさにカントが純粋理性批判において指摘したように

  • 連続性
  • 一貫性
  • 完全性

によって、「統一」されたものとして受け取られるように「でっちあげている」ということなのだ!
だから、大事なポイントは実際にどうなのかではない、ということで、そのように「人間」が<解釈>するような子孫の方が

  • (淘汰回避的に)生き残った

ということなので、それ以上でもそれ以下でもない、ということなのだ...。