田原彰太郎「カント的行為者を文脈に位置付ける」

よく、道徳と

  • 倫理

は「違う」ものなのではないか、といった議論がされることがある。それは、柄谷行人の『探究』において、一般的なものと単独的なものが区別されていたように、後者にはどこか

  • 個人的関係

とでも言ったらいいと思われるような、その人個人の人生の「文脈」に紐付いた意味合いが考慮されているわけである。

道徳と個人的関係とが孕む問題を明確にするためにまずは、この問題圏において有名な例を含む一節を取り上げたい。二十世紀の倫理学研究においては様々な例が有名になったが、この例はそれらの中でも「最も有名な例の一つ」(Honneth/Rossler 20078.S.9)である。

「ある人が、自分自身がリスクを犯したり、自分自身を犠牲にしたりすることなく、危険にさらされてい二人の人を救うことが可能だと仮定する。危険にさらされているその人々の中の一人が、例えば、自分の妻である場合に、ことによるとコイントスによって[誰を助けるのかを決めることで]、その人が危険にさらされている人々を平等に扱わねばならないと主張することはたしかに馬鹿げているだろう。一つの答えは、[...]、この事故自体はランダムに発生したものであり、公正の指令に充分に適う出来事なので、この人は自分の友人や最愛の人を選ぶことが許されるというものである」。

この例を有名にしたのは、先の一節の原著者であるフリードの議論ではなく、それを引用し、フリードを批判した「人格、性格、道徳("Person, Character and Morality")」(Williams 1981, p.17)におけるバーナード・ウイリアムズの議論である。
ウィリアムズに従えば、この例で描かれているような「状況は正当化を超えている」(ibid. p.18)。フリードは公平性という観点から自分の妻を助けるという選択の正当化を試みているのに対して、ウィリアムズはこのような選択は公平性によって正当化すること自体が望ましくないと主張する(その理由については後述)。

(実はこのウィリアムズについては、このブログでつい最近、アリソンの『カントの自由論』からの引用という形で検討したことがある。これから検討することも、基本的にこの文脈の話なのだが。)
ウィリアムズにしてみれば、自分の妻を他人をさしおいて犠牲にするなどということは考えられない。そういった意味で道徳は

  • 間違っている

ということになる。自分が妻をどれだけ「最優先」に考えるのかについて、彼はまったく疑っていない。もしもそれを道徳が責めるというなら、彼は道徳に従わないだけだ、と思っている。つまり、道徳は最優先事項ではない。そういった意味において、道徳の「法則的規範性」は成り立たない。
こういった問題は、もっと一般的に考えられると掲題の著者は主張する。

道徳は公平性という理念を含み、すべての人を分け隔てなく同様に扱うことを要求する。それに対して、友人関係・恋愛関係・親子関係などを含む個人的関係においては、その関係を結ぶ人を特別扱い(partial treatment)すること、すなわち、、不公平に扱うことが求められる。個人的関係を主題とする著作『個人と個人の関係(person to person)」の編者であるジョージ・グラハムとヒュー・ラフォレットが指摘するように、「親密な関係は、特別扱いのもとで育まれ」、「その本性上不公平できわめて不公正である」ゆえに、「少なくとも一見して、公平性と公正という理念と対立するように思われる」(Graham/Lafolette 1989, p.9)のである。
この著作に収められている論文「道徳、親、子供("Morality, Parents, and Children")」においてジェームス・レイチェルズは、公平な道徳と不公平な個人的関係がもたらす問題を、親子関係に即して次のように述べている。「道徳的行為者として私たちはえこひいきすることが出来ない。少なくとも、公平性としての道徳の構想に従えばそうである。しかし、親として、私たちはえこひいきする。親の愛は徹頭徹尾不公平である。さらに、私たちはこの不公平がおかしいものだとは考えていない。実際のところ、自分自身の子供が関係する場合、非常に不公平ではない親には何かおかしいところがあると私たちは普通考えている」(Rachels 1989, p.47)。

親が自分の子供を「えこひいき」をするのは「当たり前」ではないか、と言うとき、そこには「道徳」への

  • 侮蔑

の感情のようなものを含んでいるとみなされざるをえない。しかしそれは、どういった「筋道」によって正当化しようとするのか、ということが問われることになる。

公平な道徳に対するウィリアムズの批判は「統合性に基づく異論(integrity objection)」(Williams 1995, p.211)というかたちで遂行される。この異論はウィリアムズ独自の行為者の構想を基礎として展開される。行為者はある欲求を持ち、それに対応した計画を立て、その計画を実行することによってその欲求を充たそうとする----これがウィリアムズが理解する行為者の基本像である。ある人がある事柄を欲求する場合には通常、その欲求はそれが充足される未来の時点で自分が生きているということを条件にしている。しかし、ウィリアムズによれば、欲求の中には未来の時点での生存を条件にすることなく、むしろ、これからも生き続けるための条件となる欲求がある。、このような欲求をウィリアムズは、無条件の欲求という意味を込め、「定言的欲求(categorical desire)」と呼ぶ。
この定言的欲求に対応する計画が「基本計画(ground roject)」と呼ばれる。この「定言的欲求 - 基本計画」は、「彼[=基本計画を持つ行為者]の生に意味を与え」(Williams 1981, p.12)、それを持つ人を「未来へと駆り立て、その人に生き続ける理由を与える動機としての力を備えている」(ibid., p.13)。成田はこの基本計画に「生きがい」という訳語を充てている(成田 二〇〇四、七五頁)。この訳語は内容上適切な意訳であるゆえに、本稿でも以下ではこの訳語を採用する。
行為者は生きがいに「最も深いレベルで真剣に取り組み」(Williams 1973, p.116)、「きわめて密接に同一化している」(ibid., p.117)。生きがいが行為者に個人としてのアイデンティティを与え、行為者の「性格を構成する」(Williams 1981, p.5)というのがウィリアムズの見解である。統合性という考え方の前提にあるのが、行為者のこの構想である。行為者の行為がこの生きがいから発する場合には、この行為はこの行為者にとって自分自身の行為であり、この場合に行為者は統合性を示している。それに対して、この行為者が生きがいに反する選択をすれば、この行為者は統合性を欠き、この選択はその結果として生きる意味の喪失を伴う。
ウィリアムズがカント倫理学を批判するのは、この統合性という考え方を基礎としてのことである。カントにとっての道徳の原理である定言命法は理性の命令であり、そこからは行為者の欲求が排除されていなければならず、ウィリアムズの言う定言的欲求も、もちろん排除されねばならない。定言命法に従う行為者は道徳的であることの代償として、生きがいを奪われ自分自身から疎外(alienate)される。生きがいを奪うような倫理学説は望ましくないと訴えるのが、「統合性に基づく異論」である。

ウィリアムズがなぜ、自分の妻への「えこひいき」を絶対的なまでに「正当化」できると考えるのかは、上記にあるように、それが自らの

  • 生きがい

に関係している、と考えるからと見なされる。自分は「なぜ」生きるのか。その自らの人生の「価値」に、自分の妻が「関係」しているからこそ、彼は絶対的なまでに、その「えこひいき」を主張し、むしろ、そう主張しようとしない人を「頭がおかしい」とまで判断する。
しかし、もしそうだとすると、ある「おかしな」ことが起きてしまう、と掲題の著者は主張する。

生きがいを守るというこの論点自体は重要なものであるが、それが公平性の否定を代償とすることによって、レイチェルズが指摘するように、人種差別主義や性差別主義などに「立ち向かうためのもっとも自然で説得力のある手段を私たちは失うことになる」(Rachels 1989, p.48)。ある教師が同じ成果を示した二人の学生のうちの一人に、その学生が男性あるいは女性であることを理由として、もう一方よりも悪い成績を付けるとすれば、それは性差別主義的で不適切である。しかし、公平性を否定してしまうとすれば、このような事例が不適切であることを説明できなくなってしまうのである。

もしも「生きがい」という名のもとに、あらゆる「差別」が正当化されるなら、もはや、この世の中の一切の差別(人種差別から、性差別から)がもはや、その不当性を問えない、ということになってしまう。まさに、現代における

だと言うしかないわけであろう。国民のかなりの「割合」が平然と「差別」に対して

  • 賛成

を述べ、どんな多数決を行っても「正義」が負けてしまう。住民投票を何度行っても「差別」法案が次々と「賛成多数」になってしまい、しまいには、周辺諸国侵略戦争を仕掛けることを、「民主主義的多数決」で決めてしまう「民主主義国」が次々と現れてしまう。
さて。上記のウィリアムズは何が間違っているのだろうか?
人々に「生きがい」があることは問題ないだろう。上記の引用の問題は、それが

  • 欲求

に「直結」されていることにあるのだろう、と考えたのが、ハーマンである(実は、この人も、このブログでつい最近、アリソンの『カントの自由論』からの引用という形で検討している)。

熟慮の領域を特徴づけるのが、欲求の「規範化(normalization)」という考え方である。ウィリアムズ的行為者像においては欲求が行為の理由として、さらには、生きる理由としてさえ見なされているのに対して、ハーマンに従えば、「欲求はそれ自体では行為の理由ではない」(Herman 1993, p.195)。ただし、このことをもって欲求が行為の理由とはなりえないことが主張されれいるわけではない。欲求は行為の理由となりうる。しかし、欲求が行為の理由になるためには、それに先んじてあらかじめ、欲求の善し悪しについての評価下されていなければならないというのがハーマンの主張である。「動機の形成には、[...]、判断と評価のプロセスが含まれる」(Herman 2007a, p.20)。ある欲求が理由となるためには、それが肯定的に評価されねばならないというのである。道徳に関して、この評価の規準となるのが定言命法を基礎とする道徳判断である。行為の理由となる欲求にはこの道徳判断によってあらかじめ善悪の評価が定められており、この意味で欲求は「規範化」されているのである。
熟慮の領域は、この規範化された欲求が位置付けられる比喩的な場として理解される。

ハーマンが加えた「差異」はちょっとしたことであるが、本質的である。というか、この「変更」は変更というより、カントの

  • 議論をしなかったこと

を補完しているに過ぎず、逆に、なぜこのようなカント読解の「誤解」が今まで何度も何度も繰り返されてきたのかを反省させる視点でと言えるだろう。
フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』においては、これを孟子の「四端」解釈から同じような結論に至っているが、ようするに、カント批判者たちは、なにかカントを自らが批判したい世間の「常識=おそらくは、キリスト教道徳」を批判する代わりの、仮想敵として、でっちあげて、その藁人形をひたすらマウンティングしているように思われるわけである。
大事なポイントは、ウィリアムズの主張が

  • カントの批判になっている

からではなくて、

  • 一般的に「道徳」と呼ばれているものの否定になっている

ことが問題なのであって、カントにお前が「勝て」ばいい、とかそういった勝ち負けとまったく違う次元の話なのだ。

ウィリアムズはハーマンによるこの応答に満足するだろうか。彼はこの応答に対する再応答を実際には行ってはいないが、彼がこの応答によって完全に説得されるということはおそらくないだろう。というのは、彼はハーマンに対してさらに、彼女の見解では結局のところ欲求に対する道徳の優位が前提にされており、その優位が道徳に反する類の生きがいを奪うことになるという異議を持ち出すことができるからだ。すなわち、生きがいの側にこそ至上の価値が認められるべきであり、生きがいは、その内容にかかわらず、道徳による介入を受けず純粋なままで保護されねばならないと考えることが可能であり、その場合には、道徳に反する生きがいを否定することさえも不当だと主張しうるのである。本稿第二節末尾にて、公平性を否定する代償として差別を認めざるをえなくなる、ということをウィリアムズの見解が孕む難点として挙げたが、このことがもはや難点でとして見なされない可能性さえあるのである。
この点に関するハーマンの態度は明確である。彼女は個人的関係の重要性もちろん認めつつも、その関係が例えば虐待や搾取などの悪事が行われる場であることも指摘する(cf. Herman 1993, p.198)。個人的関係を含む生きがいはそれ自体で善いわけではなく、規範化のプロセスによって「善い生きがい」と「悪い生きがい」とに選別されねばならないと彼女ならば考えるはずである。

私は上記で「道徳」と「倫理」を分ける思想について語った。その場合の「倫理」というのは、柄谷行人の『探究』が示したような「単独性」に関係した次元のものであって、そこにおいては人間の様相を、たんに「善」と「悪」に分けることはできない。
それは「道徳」以前的な関係とも言っていいものであって、こういったことは、私たちは普通に毎日の日常において実践している。私は朝起きて、学校や会社に行って、毎日顔を合わしている同僚と、毎日と同じような「関係」をむすぶ。そのとき、まず大事なのは「道徳」ではない。私と相手との「倫理的相」において、普段と変わらぬ「信頼」を維持できているのかどうか、だということになる。私が相手に「倫理的な関係」を維持するのは、相手の態度に自分が相手を

  • 認められる

と思われる自分への関係に対する真摯かつ誠実な態度を感じられるからであろう。これは「道徳」以前的な関係である。私は道徳的である前に、倫理的なのである。
しかしそのことが、必ずしも「世間の価値観(=つまり、道徳)」と矛盾しない、というのがハーマンの立場であって、ウィリアムズは

  • そんなの関係ねえ

と言って、そういった「道徳」的な「枠組み」自体を考えることそのものを拒否している。ウィリアムズはただただ、自分の妻を「守りたい」、それしか考えていないわけであり、なぜそれでいけないのかが分からない。どこかKYとでも呼びたくなるような、あまり社会的な行動が苦手な印象を与える。
前にも書いたが、そもそもカントにしてもそうだが、この二つが「対立」していると考えるウィリアムズの姿勢がおかしいわけである。私たちは常に、この二つの立場において迷い続けているし、その二つを常に意識して生きている。つまり、一つだけはっきりしていることは、

  • どんな場合でも、どちらかを選んだその方が「正しい」場合がありうる

ということであって、大事なポイントは、たとえウィリアムズが言うように、妻を「えこひいき」する「倫理」的な側を選択する場合でも、「道徳」側を深く熟慮し考察する、ことがカント主義の前提だ、というわけである。
例えば、こんなふうに考えてみよう。よく、国家は「福祉」を止めるべきだ、と主張するリバタリアンが現れる。なぜ彼らがそう言うかというと、この国の外には、の国の人々より

  • はるかに貧しい

人たちがいる国があるんだから、その国の人を助けることを優先せずに、この国の「比較的裕福な」貧乏人を助けることは欺瞞だ、と言うわけである。
しかし、私はこういった考えは根本的に間違っている、と考えている。そもそも、その国家の中の「平等」すら実現できずに、他国の「不平等」を改善できるわけがないのだ。
よく考えてみてほしい。
あなたは、自分の住んでいる国の中だから、比較的にこの国の事情(それまでのコンテクスト)を分かっているから、そういった人たちに、どういった扱いをすれば「平等」になるか(=その国の人たちが、そういった扱いを「公平」だと思うのか)を想像できるわけであろう。他方、地球の裏側の人たちについてはどうか? あなたは、そこに住んだこともなければ、そもそも、そこの人たちがどうやって生活しているのかも想像できない。砂漠の中で生きるとはどういうことなのか、なにも分からない。それなのに、なぜあなたはそういった人たちに「なにをすればいいのか」が分かるというのだろう?
このことは、民主主義の「速度」に関係しているとも言える。国民の「合意」が比較的容易なのは、自国の国民同士の関係についての「正義」を実現することであろう。他方、その国による「外国」への援助は、どうしてもその援助の「速度」は遅れざるをえない。この場合のその関係を媒介するのが、NGOなどの国際的な人権団体である。彼らは、ある意味、「エリート」であるわけだが、彼らはその「緊急」性に鑑みて、たとえこの地球の裏側の国からでも、一定の援助が行われなければならないと判断したとき、国民の「正義」を喚起して、その「善」を実現する。
しかし、概ねそういった「援助」が成功しやすいのは、その国の

  • 周辺国

だと言えるだろう。ISと戦う「傭兵」が比較的集めやすいのは、そういったISの脅威にさらされている、周辺国からの義勇兵だったのはそういうことで、私たちは自らの「日常」の延長で、その脅威を肌身に感じているからこそ、自らの命を賭けてその「価値」を守ろうとする。ISの支配地域の周辺国の人々は、ISと戦うことが、自らの生活空間の

  • 未来

の希望に関係すると思えるから、それを「生きがい」にすることができる。こういった態度は、「不可知論」とも関係している。ウィリアムズは自分の妻については、無条件に「えこひいき」をすること絶対としたわけだが、彼が本当に言うべきだったのは、例えば、「自分の妻と自分の子供と自分の両親」をどのようにフェアに扱うかは、自分が

  • 他のだれよりも深く理解している

という「レベル」のことだったのであり、それ以外の人たちについてのフェアについては自分は深くを知らないから、ある程度は自分は妻に対しての「フェアネス」を中心に考えた、といったことなのであって、そういったことと「地球の裏側の本当にいるのかいないのかも知らない誰か」をどのように扱うかといったような、自分ではうまく考えられないようなこととを同じレベルでは評価できない(する能力が低い)といったこととを同じレベルで扱ってはいけないわけである...。