アニメ「バンドリ」をどう評価するのか?

アニメ「バンドリ」も、ゲームから始まっているからなのか知らないが、どうもストーリーが、なんとも言えない「てざわり」であることが、どうしても気になってしまう。
「かすみ」はその学校の中等部に通っている妹の影響で、地元とは別の学校に通うようになったわけだが、この作品世界では、どうも他の登場人物は、そのまま中等部からのエスカレーター組のような描かれ方をしている。実際、第一話において「さあや」は「ありさ」が走っている「めずらしい」場面を見たと言っているし、「さあや」はクラスで、「おたえ」とぶつかりそうになって、ずっと知っている感じであいさつをしている。また、妹は高校進学のために、勉強を始めようとしていて、いつまでも子供っぽい夢みがちな姉を少し軽蔑しているかのような態度をしている。
つまり、「かすみ」以外は、中等部からの「日常」の延長で、なにも変わっていない、という感じがある。
この状況で、「かすみ」はバンドを始めようとしていくわけだが、いずれにしろ、「ありさ」「りみりん」「おたえ」「さあや」の4人のいずれにしても、無条件的にバンドに入るという感じではなかったわけで、そのことは、なぜ彼女たちがそれまで「日常」だったのか、つまり、バンドをやっていなかったことを「受け入れていた」のかを説明する形になっていて、それらの「葛藤」を描くことにかなりの時間をさいている。
こういった手法は確かに、各話形式のストーリーで次回までひっぱることを目的として、なんらかの「ショック」を残していく手法ではあるのだろうが、なんというか、それって

  • トラウマ

になりそうな、ショック療法みたいなもので、どこか

  • 鬱展開

なんだよね。その最も典型的な場面が、最終話の直前の、「かすみ」の声が出なくなるところなわけだけど、本当はこういうのって、非常に重大な、つまり

  • 深刻

な場面なわけだから、そんな軽々に、こういったストーリーを描いてはいけないんじゃないのか、とは思わずにはいられないわけでしょう。まあ、一言で言えば、鬱展開がこの作品を非常に後味の悪いものにしている。本当に必要だったのかが疑わしい。「かすみ」の声が出なくなったのも、言ってしまえば、ライブハウスのオーナーの「説教」がショックだったからなわけでしょう。そう考えるなら、オーナーはあんなにこっぴどく、こきおろす場面を描く必要があるのかが疑問に思えてくるわけで(まあ、他人ですしね)、一貫してこの作品はそういった首尾一貫性を欠いているようなものが目立つわけである。
例えば、「おたえ」メイン回において、ライブハウス「スペース」でライブをするのが目標となったわけであり、これがいかに難しいかが話し合われていたわけだが、なぜか次の回では「かすみ」は、学園祭のクラスの実行委員長になっている。あれ、練習は? と思うわけだが、なぜかそのことは、まるで健忘症にかかったみたいに、だれも話題にしない。普通に考えたら、文化祭で、バンドの演奏をすることを目指すのなら分かるけど、そんなクラスの実行委員長なんてやっている場合じゃねえんじゃねえの、とは思わなくはないわけで、ほとんどこういった形で「かすみ」の人格を描くことが、一貫して放棄されれいるようにしか感じられないわけである。
まあ、そういった中で、どうやってこの作品の「可能性の中心」を考えるのかということになるわけだけど、まあ、私的な観点で言わせてもらうなら、ほとんど最初の回が全てだったんじゃないのか、と言いたくなるわけで、つまりは、「ありさ」回である。
ありさ」は、ちょっとした変わりもので、勉強は学校で一番にできるが、そのためか、適当に休んでも単位をもらえるようになっているようで、学校をさぼりがち。あまりクラスでも友だちがいないようで、少し孤独な少女として描かれている。
ありさ」の言葉の一つ一つは、かなり乱暴で、「かすみ」が傷つくんじゃないのかということも言ってたりするんだけど、そこが微妙な会話のやりとりで、乱暴なことを言ったと思ったら、そのすぐ後で、それを否定するような優しいことを言ったりして、まあ、「ツンデレ」という感じなのだろう。
ありさ」は確かに、冷静に「かすみ」の行動を少し軽蔑的に分析をするが、他方で「ありさ」の中には、なんらかの情熱のような熱いものを隠している。こういった、行きがかり上の縁でしかなかったとしても、「ありさ」は「かすみ」との友情を大事にしようとしているように見える。まあ、「ありさ」は「かすみ」という

  • 友だち

ができて嬉しかったし、とっくにあきらめたピアノの代替としてのこのバンド活動を始められることも嬉しかったのだろうし、まあ、勉強のできる彼女はこの程度のことは片手間でやってしまうのだろう...。