<私>とは誰か?

私はいつの頃からか、今と、少し前の、<私>を、まるで

  • 同一

のなにかであるかのように扱うことを少しも不思議に思わなくなっている。つまり、そこにはなんらかの「同一」なものがあって、それは「変わっていない」と思っているわけである。少し前に、<私>は、なにかをしようと意志して、そして、なにかを行動して、今、私はそれについて、ちょっとした「後悔」をしているとしよう。その場合、私はその、この文脈における、「ちょっと前の私」と、「今の私」が

  • 同一

である「から」、ちょっと前の「決断」に対応した形で、今の「後悔」という意識がある、ということが

  • 前提

になっているわけで、基本的にこの「構造」は、一貫しているわけである。
そういった意味で、私はいつからか、この「同一性」という「カテゴリー」を自明のことのように受け入れて、この「フレーム」に則って、なにもかもの「行動」を行っていることに気付く。
しかし、次のようなケースを考えてみよう。不思議なことに、私たちは産まれてすぐの「記憶」をもっている人は一人もいない。どんなに遡っても、おそらく、三歳以前のなにかを記憶している人というのは、いないのではないか。そして、その記憶のない頃の、産まれたばかりの赤ん坊が、お腹が空いて、母親のおっぱいを吸って、母乳を飲んでいるわけであるが、では、そのときの

  • <私>

とは誰なのだろう? 少なくとも、その頃と今との、上記で言った意味での「同一性」は実感としてないのだから、仮説として、この二つは違った<私>なのではないか、というふうに考えられる。
例えば、ここでは、このことを、脳の複雑性に対応して考えてみよう。産まれたばかりの赤ん坊の脳の構造は、言わば、大脳新皮質などの、いわゆる人間を特徴づけるような部分の、

  • 一番外側

の部分が、まだ十分に発達していない段階、つまり、もう少し、哺乳類として、「下等」な段階の動物に近い状態だ、と考えるわけである。その段階では、赤ん坊は、すべての行動は

  • 本能

のままに振る舞うとなるだろう。お腹が空いたら、母親のおっぱいを吸うし、眠くなったら寝る。これをひたすら繰り返す、というわけである。
ところが、ある成長の段階において、大脳新皮質などの人間を特徴づける、脳の一番外側の部分が急速に発達するようになる。すると、それらの部分は、今まであった、脳の中心部において、その生命を支えるのに非常に重要に活動してきた

  • 本能

の「自然」な活動の部分とは、言わば、

  • 独立

した形で(まあ、一時期はやった表現を使えば、「別のエージェント」として)、活動を始めるわけである。つまり、ここに

  • 別の<私>

が「生まれていた」ということになる。この<私>は、例えば、大脳新皮質の左脳に関係する言語野では、耳から聞こえてくる母親の「言葉」という音に

  • 対応

した形で、<私>の口から「声」を応答することで、なんらかの「リアクション」を得ることを日々の繰り返しの中から、獲得していき、このリアクションの「パターン」の獲得を増大させていくことによって、より多くの応答の「パターン」を獲得していく。
こういった活動の特徴を一言で言えば、それまでの、ほとんど

  • 本能

に対応して行っていた行動に対して、言わば、それらを場合場合によって、

  • 抑制

する行動を「獲得」していく過程だと言うこともできるだろう。言語活動のほとんどは、自らがもしも<本能>だけしかなかったなら、そう行動していたはずの行為を「我慢する」ようになることに、その「全て」があると言ってもいいくらいに、決定的な違いとなっていると思われる。
このように考えると、後から生まれた、大脳新皮質の言語野における<私>に対して、おそらくそれ以前の、ほとんど本能と変わらない<私>は、いわばその

  • 陰に隠れて

存在している、と言うこともできるのではないか。
私がここで、「私とは誰か」と言うとき、少なくとも言いたかったことは、それは「今目の前に存在している、物質としての<私>」のことじゃないよな、というアイロニーだったわけだが、そのことの意味は、この目の前の私なる、生物としての「物質」は、多くの細胞で構成され、もちろん、細菌もたくさん含んでいるし、もちろん、ウイルスも含んでいる。そういった

  • さまざまななにか

が、それぞれに「独立」して活動している物質の塊そのものを指して、「私」と言われても困るだろう、といった程度の意味だったわけである。
言うまでもなく、私の心臓は、たとえ<私>が頭の中でどんなことを考えようと、それとは

  • 独立

に勝手に、一定の感覚で心臓の筋肉を動作させて、呼吸をしているわけだけど、この二つが、「同じ」<私>と言われても、反応に困るのではないか。
しかし、そう言われてみると、では、上記の文脈における「同一性」に関係した形で、まさに自らの中にあるとしか思われないような、<私>とは、なにのことを指していたのだろう? これを、掲題のタイトルとして「私とは誰か」と問うてみたわけである...。