言語とは何か?

よく私たちは「言語」とは何か? という問いを発する。しかし、問題はそうではない。

  • なぜ、それぞれの<私>の言語を、まるで「一つ」のことのように扱うのか

にある。
これはどこか、ソシュール的な問題構成なのかもしれない。私はどうも「言語」というのを話しているようである。そして、目の前のだれかさんも、その「言語」なるものを話しているそうである。しかし、ここで問われるべきは、なぜその二つが

  • 同じ

とされなければならないのか、にある。私が話す言語は、言うまでもなく、私の今までの経験に関係して成立しているのであって、その目の前の人が経験していないことに関係しているために当然、その人が知らないような知識に関係したことも話すわけであって、そういったお互いのものを、なにゆえに

  • 同じ

として扱うのかが、少しも自明ではない、と言っているわけである。
このように考えたとき、「同じ言語」という表現は、ミスリーディングなのではないか、といった印象が強くなってくる。「言語」とは、そもそも、一人一人、それぞれにあるのであって、一人として「同じ」言語を話す人はいない、と。
もちろん、こういった言い方が、一般的な常識に反していることを分かった上で、あえて、語ってみているわけである。
私はここで、一般的な「常識」を覆そうとしている。しかし、そのことがなんらかの「エキセントリック」な、突拍子もないような発想を無理に披瀝することを意図している、ということではない。むしろ、逆で、より原始的なアイデアから始めることで、都会人の常識の自明性への疑いを喚起しようとしている、といったことに近い。
言語とは何か? この問いは間違っている。なぜなら、私たちは言語とは何かを知らなくても、言語を身に付けたからだ。
ここでは、物事を単純化するために、これから言語を獲得していくことになる赤ん坊と、その母親の二人だけが存在する世界を考えてみよう。この赤ん坊は、朝起きてから夜寝るまでの間、隣にはいつも母親がいて、その母親はひっきりなしに、その赤ん坊に

  • なにかを話しかけている

わけである。その環境において、赤ん坊は、自らの耳から聞こえてくる、それらの音から、なんらかの

  • 同一性

という概念を獲得していく。たとえばここで、母親は赤ん坊にリンゴを食べさせてくれていたとしよう。そして、母親はそのリンゴを切って、赤ん坊に食べさせるときに、「赤いのをあげるよ」と、いつも言っていたとしよう。それを覚えた赤ん坊は、そのリンゴがまた食べたくなったとき、母親に向かって「赤いのちょうだい」と言うわけである。すると、母親は、赤ん坊がリンゴを食べたいのだな、と思って、赤ん坊にリンゴを切って、いつものように与える。
この例の場合、二つの特徴的な事態が生まれている。一つは、この相互関係によって、赤ん坊は、今までの完全に母親主導でしか、リンゴを食べることのなかった状態から、「自分から」母親に働きかけることで、リンゴを食べることを実現したわけで、より生における「積極性」を獲得したわけである。
もう一つは、ここでの「赤い」という概念は、この「文脈」においてしか定義されていない、ということである。この文脈において、赤ん坊は色の「赤」がなんなのかを知っている必要はない。そんなことを知らなくれも、いつもと同じようにリンゴを母親からもらえれば、この目的を果たせているのだから、それでいいわけである。
赤ん坊にとって、言語とは、こういった関係にあるものである。それは、そもそもが、なんらかの母親に「働きかける」力をもっているわけであるが、それはたまたま「成功した」体験を繰り返すことによって、「学習」されていくものに過ぎなく、結果として、赤ん坊がどこまで言語に習熟しれいくのかは、「偶然」に大きく依存していると言うこともできる。
しかし、そのこと自体はたいしたことではない。どこまで習熟してようが、そうでなかろうが、この基本的な構造の重要なポイントは、徹底して、赤ん坊にとっての母親に働きかける、その他のさまざまな手段を含めての、

  • 全体

としての行為の中の一つの手段にすぎなく、それら「全体」で、結果として「満足」する一定の効果さえ得られるなら、それでよかった、というわけで、そこにおいて、「言語がどういったものでなければならない」といったこととは、まったく関係なく、その中の「切れ端」が使われているにすぎない、というわけである...、