宮台先生の「性の<革命>理論」

ところで、先々週の videonews.com における、現在の MeToo 運動を巡る対談における、宮台真司先生のコメントは、なんとも昔の彼を思わせるような議論を展開しているわけだが、これを私たちはどう受け止めればいいのだろうか?

宮台:ぼくが昔、地方の取材をしているときに、保健の先生がこういうことを言ったんだ。ある田舎の中学で、夏祭が終わると、今まで優等生だった子が突然、派手になって、不良っぽくなっちゃうっていうケースがずっとあって、疑問だったんだけど、ある時、そういう集団強姦を目撃して、警察に訴えようとしたんですね。そしたら、回りから止められた、と。なんで止められたのかというと、彼女が言うには、昔からやってたことで、この辺ではそれは当たり前なんだ、と。これ、極端な話をあえて言ってますよ。ぼくの本にも書いたことだから、すでに。女の子の父親も自分もやってた、と。だから、騒ぎたてないでくれ、って言ってたわけ。それで、保健の先生はぼくにわざわざ、相談してきた。この場合、どうしたらいいんだろう、と。実際に、話をいろいろ聞いてみると、実際にそういう目に会った女の子が、その後、別に転居するわけでもなく、そういう人間たちがいる地域社会の中で、括弧付きだけど、「普通」に生きている状況がある。そのときに、あなたは人権侵害されたんだ、あなたは人間の大切なところを徹底的に傷付けられたんだ、って言うことが、いいのかどうか、自信がなくなりました、って言ってるのね。
VIDEO NEWS性暴力被害者に寄り添う社会を作るために

宮台は、ここで言う(括弧付き)「集団強姦」は、わざわざ警察が介入しなくていい、と言っているのだろう。なぜなら、その(括弧付き)「被害」に会った女性が、それが犯罪であると訴えていないのだから、と言うわけである。
じゃあ、それはどういう意味で、彼はそう言っているのか、ということになるが、それが以下である:

宮台:しかし他方で、その程度のことは私はなんでもない。この前、フランスの映画があって、まさにそういう映画だったんですけどね、フランスでフェミニストたちが一部、炎上したりしてましたけど、ぼくは全面的に映画を擁護しましたが、なんでもないって言ってるんだから、なんでもないんだよ、って言っている人間に、いや、あなたはおかしいって言うのもまたおかしいわけね。これは明らかなことだ。
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性的なハラスメントと言っても、ある行為をある人は、「なんともない」と思うのに対して、別の人は「人格を傷つけられた」と思う。そうした場合に、「なんともない」と言っている人まで、「いや、お前が「なんともない」と言うのはおかしい」と言うのは変だ、と。
こういった主張は、90年代に彼がマスコミでさかんに行った

の議論を思い出させる論理展開であるわけだが、(このことの評価をする前に)彼は他方において、以下のようなことを言うわけである。

宮台:実際、ぼくから見て、どうみてもレイプじゃないか、っていうふうなめにあっている女の子の多くが自己合理化をしているんですよ。私はこの男をもともと好みだった、とかね。あるいは、この男はほんとは優しさのあらわれでこれをやったんだとか、というふうに、言葉のラベルをはって、ほんとは無理があるラベルなんだけど、ラベルをはって自己合理化をして、自分自身をおとしめて、被害感情もそうなんだけど、自分自身をネガティブに考えないでいいように、言葉で粉飾決算して、実は非対称な権力基盤を維持しているケースっていうのは、今の若い女の子に山のように、あるんですね。
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宮台:例えば、昔からの風習があったといった社会があったとしましょう。そんな風習があったんだと思う。でも、その中で女の子がそれを我慢していくときに、我慢というか、生きていくときに、そこで生きていくしかないから、それを軽くとるしかない、というふうに自己合理化している可能性があるわけだよ。
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つまり、フロイト心理学的に、自分の「無意識」では、ほんとうはそれを嫌がっているんじゃないのか。だったら、つまり、ある種の「(精神の)病気」のような状態にあるとは解釈できないのか、と。だったら、そういった状態の人の、「意志」を云々するのはおかしいんじゃないのか、と。ようするに

は、この意味で、「正当化」されうる、と。
つまり、どっちなのだろう? 宮台は、どうも前者の主張にこそ、彼の主眼があるようで、後者については、

  • しょうがない

と言っているように聞こえる。つまり、宮台の「性の自己決定論」は、最初から、ある種の「マインド・コントロール」による、女性の「支配」を正当化していたんじゃないのか、と聞こえるわけである。
上記の例が興味深いのは、ようするに、そういった被害にあった「父親」自身が、過去に渡って、そういった集団レイプ行為の加害者の一人として参加してきたという「実績」があるから、今度は自分の娘が、

  • やり返された

ときに、なにも言い返せなかった、というところにあるのであって、ようするにこれは、

  • 父親さえ「説得」できれば、犯罪が犯罪でなくなる

というところにこそ、ポイントがある。典型的な「家父長制」の問題だ、ということであろう。言うまでもなく、こうして父親を軽蔑するようになった、夏祭までは純朴だったが、夏祭の後に不良に変貌した女の子のかなりの割合は、家出をして、都会に出てくるのであろうが、今度はその都会では、そういった女の子を待ちかまえていたかのように、

  • 優しい

態度で彼女たちに近づいていきながら、性産業などに、そういった女の子を売り払っていくような男たちに「だまされて」いくわけで、家にいるのも地獄だし、家出をするのも地獄というわけで、どっちにしろ救われない話だ、といった形になるわけだが、いずれにしろ、宮台はこういった「運命論」を、ある種の

  • 性の開放(フリー・セックス)=革命思想

として考えていたわけであろうw
こういった宮台による「性の自己決定」の議論は、90年代のブルセラ問題が議論されていた頃までは、宮台自身がさかんにマスコミで発言していたこともあって、いろいろと物議をかもしていたわけだが、近年では、さっぱり、この議論自体がすたれれしまっている。
というのは、これが「自明」化したからではなくて、こういった宮台の議論が、さまざまに

  • おかしい

ということが多くの人に、なんとなくではあれ、一般化したからではないのか。つまり、こういった宮台の議論は、人前で行うことがはばかれることとして、フェードアウトしていった、というわけである(もともと、宮台のバックグラウンドを考えると、高橋和巳といった全共闘に深く関係した作家を一時、礼賛していたことなど、なんらかの「革命」思想に、親和性を抱いていたことが伺えるわけで、こういった「性の革命」といったことを、彼なりに考え続けていたのではないか、と思われるふしはあるわけである)。
それは単純な話で、上記の話を逆にしてみればいいわけで、宮台のこんな理屈では、もしも自分に娘がいたら、その娘を

  • 守れない

わけであろう。だったら、そんな社会を望む父親はいるだろうか?
ようするに、なんか変なわけである。
宮台の上記の最初の発言が「物騒」なのは、ようするに、ここで「集団強姦」をされて、夏祭の後に「不良」になった

  • 女の子

は別に、この「集団強姦」に

  • 合意

をしていない(!)、ということなのだ(宮台は明らかに、ここで、ジョン・ロックなどの「合意」を中心として構築される英米的法規範で考えることを意図的に回避して、独仏の大陸的法規範による

  • (一般意志のような、なんらかの意味における)アプリオリな「正当性」

の方向から意図的に解釈をしていることに彼の隠微な意図が隠されていることが分かるであろう)。彼女は、たんに、その後の父親の「説得」によって、自らの気持ちを抑えこんだ、ということしか意味していない。つまり、宮台はここで、ある不思議な「レトリック=マインド・コントロール」を使っている。なぜ、その女の子が「不良」になったのか。それは、こういった父親への

  • 反発

を意味しているわけであろう。つまり、父親とは、こういった集団レイプをする「ような」男たちの「仲間」であり、実際に、彼自身が何度も、そういった集団レイプ行為に「コミットメント」してきた。そういった父親への「軽蔑」を、態度で示している。
確かに、その女の子は、こういった自らの「体験」の

  • パブリック化

を望んでいない。しかしそれは、こういったことが表沙汰にされることを嫌がっているだけで、そうやって「無理矢理」された行為が「自分への犯罪行為でなかった」といった主張に説得されているわけではない。
ようするに、ここで本来、問題にされなければならないのは、「司法」の在り方なわけであろう。なぜ被害者は自らの「プライバシー」を隅々まで「パブリック」にしなければならないのか。こういった性に関わるような「デリケート」な問題は、もっと限定されたプライバシーの制限の中で、行われなければならないのではないか。つまり、そういった「司法」の体制が、現代の日本社会には整備されていないことが問題なのであって、こういった「行為」を当人が「表沙汰にしないでくれ」と言ったら、犯罪じゃない、というのは、ちゃんちゃら、おかしな理屈なわけであろう。
こういった宮台の「自己決定論」の理屈は、どこか、近年の「リバタリアニズム」を思い出させるものがある。リバタリアンを代表するノージックは、以下の基本原理から、「不平等」を正当化する。

この不可侵の権利をベースとした正義の権原理論の立場からすると、ロールズの正義論に代表されるような、現時点での資源配分のパターンにしか目を向けない正義論は受け入れられるものではない。ノージックはこの主張がわれわれの直観に反しないとして、次のように述べる。

ほとんどの人は、現時点切片原理で分配上のシェアに関する話が完結すると認めない。彼らはある状況の正義を評価する場合に、そこに体現されている配分だけでなく、その配分がいかにして生起したのかをも考慮するのが適切だと考える。もしある人たちが殺人や戦争犯罪で刑務所にいる場合、われわれはその社会の配分に関する正義を評価するにあたって、現時点でこの人、その人、あの人......が有しているものだけに注目すべきである、とは言わない。われわれは、その人が罰を受けるに値する、またはより少ない取り分に値するだけのことを行ったかどうかを尋ねるのが適切であると考える。(Nozick 1974,p.154 邦訳二六一頁)

それゆえノージックは、「人々の過去の環境や行為がモノに対する様々な権原......を生み出しうる」とする歴史的原理こそが、配分の経緯とそこに介在する正しさの考慮を尊重しうる原理であると公言する(Nozick 1974,p.155 邦訳二六二--二六三頁)。

このように義務が、権利の尊重および権利侵害に対する補償ないし刑罰と相関的なものとして位置づけられる場合、その義務は完全義務(perfect duties)と呼ばれる。対照的に、必ずしも権利と相関的でない義務----たとえば、権利侵害が発生していないケースで貧者を助けるといった善行(enevolence)の義務----は、不完全義務(imperfect duties)ないし慈善(charity)と呼ばれる。ノージックの権原理論は、前者のみを正義の義務体系に組み込む。このことはノージックが、たとえ困窮する者を助けるという名目でも、「n時間の労働収入を奪うことは、その者からn時間奪うようなものであって、それはその者を別の者の目的のためにn時間働かせるようなものである」と述べていることからも窺える(Nozick 1974,p.169 邦訳二八四頁)。いかなる「勤労収入への課税も、強制労働と同等なのだ」というかの有名な言明は、完全義務の体系としての正義を支持するノージックの揺るぎない姿勢を示すものである(Nozick 1974,p.169 邦訳二八四頁)。
正義・平等・責任――平等主義的正義論の新たなる展開

ここでノージックは、自らのリバタリアニズムを正当化する「反平等主義」を、それが「平等主義」の否定から生み出されているのではなく、

  • 過去からの一切を含めて、「より少ない取り分に値する」ことを正当化できるかどうか

に議論をシフトさせることによって、主張する。そして、それをより具体的に語ったのが、「完全義務」の理論であり、つまりは、「労働収入への課税」と「強制労働」の同一視に象徴される。
つまりは、ノージックはお金持ちが税金を多くとられることは、「強制労働」と変わらない、と考える。そうであるなら、それは一種の「犯罪」なのであって、つまり、貧乏人がお金持ちに押し付けてきた「歴史的犯罪」なのであって、つまりはこれは、「貧乏人の罪」なのだから、貧乏人の貧困改善が行われないことは「正当化される」と言うわけであるw
これに対して、上記引用の著者は、以下の反論を紹介する。

しかし、問題点は、そこにある。というのも、自己所有権テーゼによって排除される強制性だけが、自発性を阻害するものではないからである。その点を確認するにあたって、セレナ・オルザレッティによる自由と自発性の区別に関する犀利な議論を参照するのが有益である。オルザレッティは、(左派)リバタリアニズムが自由と自発性を区別せずに、(権利としての)自由の阻害ないし剥奪をもって自発性の欠如を示すことができるとする見方に立っていることに疑問を呈している。オルザレッティは以下の対照的な事例で、そのことを示す。

砂漠に囲まれた都市:デイジーは砂漠の真ん中に位置する都市の住民で、そこから自由に去ることができる、しかし、そこから去りたいと思っていても、もしそこから一歩外に出ようものなら、砂漠の過酷な状況に耐えられず死んでしまうことが絶対確実であるということもデイジーは知っている。その都市にとどまるという彼女の選択は自発的なものではない。
有刺鉄線に囲まれた都市:ウェンディは、電気が通っている有刺鉄線で囲まれた都市の住民であり、そこから出る自由はない。しかし、その都市にはこれまであらゆる人が欲しいと思ってきたものがすべてあり、そこでの生活に完全に満足しているウェンディには、そこから出たいという希望はない。彼女には自発的に、その都市にとどまっている。(Olsaretti 2004,p.38)

前者の例では、いまいる都市から去るという自由はあるが、その自由はその都市から去るという選択を通常、自発的なものにはしない(したがって、そこにとどまるという選択の自発性も担保しない)。後者の例では、ウェンディにはいまいる都市から去る自由はないが、彼女は自発的にその場所にとどまっている。つまりこの二つの事例が示しているのは、自由があることは自発的選択のための充分条件ではない、ということである。
正義・平等・責任――平等主義的正義論の新たなる展開

私たちは、単純に、自由と「自発性」を同一視してはならない。この指摘は、上記の宮台が挙げた「集団レイプ」に対する、被害者の女の子の「行動」と深く繋がっていることが分かるであろう。
このことは、何が間違っているのだろうか?
それを、上記引用の著者は、「宇宙的価値としての平等」という言葉で示そうとする。

第二の論点は、われわれの議論が反平等主義的かどうかについてである。これについては、宇宙的価値としての平等を純粋理念として掲げる平等主義的正義論は定義上、反平等主義に陥ることはないと言える。なぜなら、宇宙的価値としての平等は、統制原理たる正義原理の採択に際して規範的な影響力をもつと考えられるからだ。ここでは、不平等に対する個人の責任の条件を構成する構想を正義原理とする場合を想定して、例証していくことにしよう。そうした責任構想は正義原理として、われわれの世界を特徴づける一般的なコンテクストをふまえて採択されるものである。しかしそれは、宇宙的価値としての平等が大枠で示す方向性に反しない原理でなければならない。それゆえ、仮になんらかの責任構想が正義原理として採用されるとしても、その原理自体、過度な不平等を許容するものであってはならない。したがって個人的責任の追及が大きな格差をもたらした場合、そのこと自体許容されることはないだろう。宇宙的価値としての平等が、通常それを容認しないからだ。
正義・平等・責任――平等主義的正義論の新たなる展開

われわれは日々の実践のなかで、ときに反平等主義的な判断を「正義の名の下」に下してしまうこともある。過度な個人的責任の追及や尊厳を無視した社会・公共政策はその具体例である。そうした行き過ぎや尊厳の無視を許さない正義のあり方を宇宙的価値として平等が輪郭付ける----そのような正義原理の採択を、宇宙的かち としての平等が指令する----のである。このようにいて、平等と正義の関係は価値間関係、原理間関係ともに明確なものとなる。
正義・平等・責任――平等主義的正義論の新たなる展開

ノージックリバタリアニズムと、宮台真司の「性の自己決定論」は、ある意味似ている。それは、彼らの主張が「正しいのか、間違っているのか」にあるのではない。そうではなく、彼らのそういった主張が、

  • 極端な正義の暴走(=正義による<革命>)

によって、上記引用の著者の言葉を使えば、「正義に優先する<平等>」が毀損されている、というところにある。つまり、上記引用の著者の考えによれば、

  • 平等は正義に優先する

わけである。そうであるからこそ、たとえどんなに大きな罪となる犯罪を犯した人であっても、一定以上の非人道的な扱いは間違っている(=平等理念に反している)として、そういう意味での「正義」は、制約される、と考えるわけである。
こういった「平等」の考えは、よく考えてみると、上記引用の著者はその著書の中では言及していないが、私のような人間からすると、まさに

  • カント

が主張していた、「実践理性」や「人間の尊厳」といった理念に非常に近い印象を受ける(実際に、実践理性批判における、目的の国の構想が、世界中の人間の「平等」な扱いに関連して演繹されていたことから考えても、カントの実践理性構想が、深く「平等」と関係していたことは自明なわけであろう)。
それに対して、ノージック宮台真司は、いわば、

  • 左翼批判

として議論を展開しているわけで、彼らのその出発点を考えるなら、彼らには、そういった「正義の暴走」に対するストッパーが最初からない、ということが、まさに「保守主義」のアポリアと同じ

  • 欠点

となっているわけだが、そのことこそが、彼らの主張が21世紀に入って、まったく人工に膾炙しなくなった深い理由であることを、見事なまでに彼ら自身が「分かっていない」ことを、上記がよく証左しているのではないだろうか...。