そだねーJAPAN

今期のアニメ「宇宙よりも遠い場所」のOP曲は次の歌詞から始まる。

教室でノート広げて
真っ白なページ みつめて
鉛筆で殴り書き 「変えたいな、私を」
saya「The Girls Are Alright!」)

ここで、「教室」「ノート」「鉛筆」といった言葉は、ある意味において俳句における季語のような役割となっていて、

  • 日常

アレゴリーとして使われている。いつもと変わらない、教室の風景。その教室に、いつもと変わらず、時分の机に座り、いつもと変わらず、目の前にはノートが広げられて、というこの独我論的な状況は、まったく

  • 変わらない

なにかとして指示されているので、だからこそ、そのノートに、だれからも気付かれることもなく、まったく「個人的」な行動として

  • 変えたいな、私を

と<書いた>ことが重要な意味をもってくる。他方において、次の BUMP OF CHICKEN の曲はどうだろう?

僕の場所はココなんだ
遠くに行ったって 僕の場所は変わらない
これから先ひとりきりでも
たぶん大丈夫 みんながココで見守っている
(BUMP OF CHIKEN「バイバイサンキュー」)

ある日、自分が生まれ育った街を離れ、都会に出ていこうとしているとき、そのたかぶった気持ちとは逆に、この街を離れることに、なにか不思議かつ不安な気持ちが、自らの内面からわきあがってきていることに気付く。その場合の

  • ぼくのバショ

とはなんなのだろう? それは、「それまで」においては問うこと自体が、あまりにも自明で無意味なことだった。それは「ココ」に決まっていたからだ。それに対して、上記の曲は、たとえ、今日、この街を離れることになるとしても、

  • ぼくのバショ

は変わらず「ココ」であることを確認することで、逆説的に、次の新天地に向かう「決意」をしているわけである。
上記の二つの曲は、ある意味で、一つのことの逆側からの側面を照射している、と言えるのかもしれない。
さて。ピョンチャン・オリンピックであるが、私もそれほど興味もなく、とりあえず、女子カーリングくらいしか、まともに見ていなかったわけだがw、途中からそれが、なんか社会現象のようになってきて、まあ、結果として銅メダルまでたどりついた、という結果になったわけだがw

オリンピックとは、元来、卓越したアスリート達の真剣勝負の場です。鍛え上げた肉体を、高機能のウェアに包み1秒でも速くゴールしようとする。あるいは、磨き上げた容貌を美しい衣装で飾り立て、技術と芸術を競う。いずれにしろほとんどの競技の選手達のルックスは「非日常的」「ハレ」。まさに「神々しい超人達」という雰囲気です。
いっぽう、カーリングに目を転じてみると、選手たちの容貌は、どの国もいたって普通。
もちろん、顔がかわいい・かわいくない、とか、かっこいい・かっこよくない、とかの話ではありません。選手たちが放つオーラというか、映し出されるプレイの光景が、「人間離れ」していないのです。
自分たちの身のまわりにいるような、職場で見かけるような、ごくごく普通の体格のごくごく普通の人たち。
ウェアも、ぴったりとするわけでもざっくりしたわけでもない普通のデザイン。そのため、実際には鍛え上げられているかもしれない肉体も、表面にはあまり出てきません。
プレイ自体も激しい接触があるわけでもないし、獣のような目でゴールを目指すわけでもない。メイクもフィギュアスケート選手のように華美ではありません。
結果として、男子・女子、日本・海外を問わず、いかにも「ああ、なるほど、こういう人たちがこの国の国民の平均的なルックスなんだろうな」「街中にはこういう感じの人たちが歩いているだろうな」と思わされます(実際はどうかわかりませんが)。
その醸し出される「普通さ」は、人間離れした肉体・容貌の超人たちばかりが集うオリンピックにおいて、一種異様とも言えます(印象としては、夏のオリンピックの射撃などに近いでしょうか)。
アメリカ男子チームの4人などは、顔から体型からかぶるキャップにいたるまで、なにかもう、「古いアメリカ人像」という印象。ふだんハリウッド映画で見かけるニューヨーカーやヒスパニックたちとはまったく違っていて、逆に「こっち(カーリングチーム)のほうがリアルなアメリカなんだろうな」と思われます。
【カーリング】人気の理由は「普通すぎるルックス」〈親近感〉(五百田達成) - 個人 - Yahoo!ニュース

カーリング女子の「そだねーJAPAN」の

  • 成功

は、まったく、そのへんにいるフツーの「女の子」たちがやっている、ということに尽きている。既存の「スポーツ」というカテゴリーを破壊するものがあった。例えばサッカーというスポーツを考えてみよう。ハリルホジッチが「デュエル」と言うとき、その意味の半分は

  • フィジカル

ということを意味している。ようするに、スポーツを行う「英雄」たちは

  • 背が高い

わけである。それがある意味で「必須条件」のようなところがある。サッカーだって、ゴール前のフォワードがヘディング勝負をするとき、この背の高さが、決定的にヨーロッパの選手と日本人との「格差」となっている。
対して、「そだねーJAPAN」は、その辺にいる、どこにでもいる「女の子」じゃないか! あの身長の低さは、こういったスポーツ英雄たちの中では「革命」そのものだ! そのことは、メジャーリーグにおけるイチローがなぜ、あれほどの重要性をもったのかを説明している。
そして、あの徹底した「マイク」による会話を拾い続ける姿勢であろう。あれは、ある意味で

  • 革命的

だった。まったく、アニメ「けいおん」の放課後ティータイムの「だべり」そのものではないか! あれを、ゴールデンタイムのHNKで、ながなが、何時間をやっているということが、どれだけ「革命」的だったかw

青森市のバックアップを受けたチーム青森は、資金や、選手の所属する地元の企業に恵まれていたにもかかわらず、バンクーバー五輪で8位という結果に終わった。本橋と私は、『どうしたら世界に勝てるのか?』を模索していました。そこで彼女が出した結論が、『北海道、しかも故郷の常呂町に戻りたい』というものでした」
そんな決断を本橋が下したのも、カーリングという競技が "髪の毛一本の差で勝敗が決まる" と言われるほど繊細だからだと続ける。
チーム青森は、全国各地から強豪を集めた。でも、それはあくまで "寄せ集め" だったんです。カーリングに最も重要なのは、チームワークを超えた『意思の疎通』『阿吽の呼吸』。そのために、"生まれ育った故郷で、気心の知れているコたちで旗揚げするしかない" と考えたのでしょう。それこそ本橋は北見市で、選手の所属会社を探すための地元企業の訪問からスポンサー探しまで、走り回っていました」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180227-00010003-jisin-ent

ああいった「チーム」は今までの既存のスポーツにおける「チーム」の概念を破壊するようなインパクトがあった。そして、この構造は、上記で最初に述べた

  • 対照性

如実に反映している。「変わりたい」ということが、オリンピックに出場して、こうして銅メダルをとることだったとするなら、「ぼくのバショ」とは、こうして、本橋が「地元」にこだわったことに対応している。というか、これこそがスポーツの

  • 本来あるべき姿

だったのではないのか?

この菜津季さんこそが「ラブライバーってほどじゃないですけど、好きです」と語る "黒幕" だった。韓国戦前夜に吉田三姉妹のライングループに「明日、これやって」と、にっこにっこにーの動画を添えて送ったらしい。
とはいえ、ただのファンとしての行動ではないようだ。本人に理由と経緯を聞いてみた。
「今回のアイスは途中から変わってきて難しそうでした。途中でストーンを削った(研磨した)影響もあるかもしれません。イギリス戦、スイス戦と連敗したあたりは、知那美の笑顔も消えがちだったんです。知那美は調子がいい時は楽しそうにやっていて、手がつけられないくらい(ショットが)決まるけど、負けている時に顔に出ることがあるから、リラックスしてほしくて。笑顔で(にっこにっこにーを)やったらさっちゃん(藤沢五月)もゆうみ鈴木夕湖)も和むかな、と思って」
矢澤にこのトレードマークはツインテールと笑顔だ。ツインテールではないが、LS北見もなんといっても笑顔が印象的なチームで、キーワードと言っていい。「アイドルになるためにどうするか、しっかり考えている」と菜津季さんが好きな矢澤にこのように、笑顔を取り戻してメダルに向かって欲しい。そんな願いが込められていたのだろう。
カーリング・吉田知那美はラブライバーなのか?姉が語る真相 (1/2)

まあ。私としては、「そだねーJAPAN」の中にラブライバーがいたってことで、それが見れただけで、あとはオリンピックなんて、どうでもよかったんですがw そうかー。ねーちゃんがラブライバーだったんだな。というか、ラブライブの中で矢澤にこが一番重要なんだよな。実際、女性ファンのほとんどは、矢澤にこ推しっていうことからもよく分かるけど...。