戸田山和久『科学的実在論を擁護する』

さて。そもそも科学とは何か、という問いは、普通に考えると馬鹿げた問いのように思われる。というのは、そもそも「科学」と呼ばれてきたものは、言ってみれば、

  • 全て

なのであって、人間のこの自然を「支配」しようとして行ってきた全ての営みのことなのであって、それがなにかと問うということはまさに、進化論的な、

  • なぜ人間は今まで生きてこれたのか(=何がその分水嶺を分けたのか)

といった問いとあまり変わらない問いに聞こえるからだ。
人間は自らが生き残っていくために、さまざまに自然を「支配」しようとしてきた。その手段として自然の「認識」が重要になる。つまり、自然を

として把握することによって、逆に、この自然に「働き」かけ、自然を「変え」て、人間の生活空間を「変えて」、まあ、快適な日常となるように生きてきた。
しかし、その場合に、それぞれの人間が

  • なにを考えてきたのか?

ということと、その人間が

  • なにをしたのか?

は分けて考えなければならない。つまり、そこには認識論的な分断がある。人間は単純にそう考えているたように行動しないわけで、他人からはそのようには問題は考えたものがなんであれ、それによって「生き残って」きたかどうかにある。
掲題の本は、いわゆる「科学的実在論論争」の歴史的経緯に対応する形で、掲題の著者による、科学論を提示するといった議論になっているわけだが、そこにおいて重要な役割を果たしているのが、この実在論

  • 経験論

の対立だ、ということになる。
しかし、こういった議論は普通に考えると違和感がある。なぜなら、経験論とは科学そのもののことと考えられているからだ。なぜなら、科学とは「観測」のことだと私たちは考えているし、この観測の「合理化」を目指す運動だと考えているからだ。
じゃあ、なぜ掲題の著者はわざわざ、経験論に対立したものとして科学論を行っているのか?

問題となるのは、理論的対象と呼ばれる対象たちだ。これは、じかに目で見たり触ったりすることができないという意味で観察不可能だが、この世界にはそれがあって、あるいはこの世界はそれでできていて、何らかの性質をもち、それによって観察可能な現象を生み出している「かのように」語られるものたちである。たとえば、電磁場、原子、電子、クォーク、電子、光子といったものたちが典型例だ。
これらの理論的対象は、観察可能な対象に近いのだろうか。それとも説明・予測・計算のための虚構に近いのだろうか。これが科学的実在論論争の問いを最もラフに述べたものである。

つまり、どうも文脈が違っているわけである。
なぜ一般に科学は経験論だと言われるのか? それは、歴史的な文脈に関係する。
古代ギリシアにおける、プラトンイデア論は、こういった「経験」を軽蔑した。それは、経験は、なんらかの「錯視」を典型として「誤謬」を含みうる「完全でないもの」と考えられたからだ。そういう意味で、プラトンは経験を嫌った。経験的な活動を彼は「奴隷」たちの仕事と考え、それと自ら「ギリシア市民=貴族」たちが行っている「哲学」を区別した。それは幾何学における三角形について考察する比喩にたとえられる。プラトンが重要視したのは、世の中にある三角形の形をしたものが、どのようなテクノロジーとして役に立つのか、といったことではなく、この「イデア」として理想化された「三角形なるもの」についての、彼らギリシア貴族たちによる「言葉遊び=哲学」にあったわけである。
つまり、こういった歴史的文脈に対抗する意味で、科学は「経験論」と深く関係したものとして解釈されてきた(それは、カントの純粋理性批判の基本的姿勢だったと考えてもいい)。
対して、掲題の著者の言う科学は、どこか「形而上学」に近いものになっている。つまり、なんらかの意味で、プラトンイデアに似ているわけである。なぜそうなるのか? それは経験論の

  • 否定

に最も典型的に現れる。なぜ経験論がダメだと言うのか? それは、経験論では実際に経験した範囲を「超え」て、科学を議論できないから。科学はどうしても、経験を超えなければならない。その事情は上記の引用がよく現している。ようするに、ここで言っている

  • 実在

は、意味が反転してしまっている。一般的な意味における実在とは、あるモノがあると言う場合のように、経験的なものを語る場合に使うわけであるが、掲題の著者が実在という言葉で含意しようとする場合は、

  • (素朴な意味では観測不可能なものであっても)ある種の「形而上学」によって、それは「在る」と言うしかないようなモデル(上記の引用の例で言えば、電磁場、原子、電子、クォーク、電子、光子)

を「正当化」するといったような文脈で選ばれた言葉であるために、勢いその主張は

になってしまっているわけである。
しかし、そのような基本的な姿勢を選んだために、どうしても古典的な経験論とは相性がよくなくなる。古典的な経験論とは、ある意味で「独我論」のことだと言ってもいい。それは、結局のところ、私たち人間は、生まれてから死ぬまで、最後まで、この

  • 感覚器官

という「牢獄」の<外>に出ることはできないからだ。つまり、実在論者のように、「心と独立」したなにかを考えようが考えなかろうが、その外に出ることは死ぬまで不可能なのだから、考えるだけ意味がないわけである。
ようするに、実在論は根本的なところで、古典的なドイツ観念論

  • 誤解

している。観念論は理論の「選択」の問題ではない。これがなぜカントの純粋理性批判が観念論の形式をとっているのかの意味するところなのであって、観念ではないなにかなどありえない、という常識的な認識の上で採用されている態度だ、ということが分かっていない。
では、そうであるにもかかわらず、なぜ何度も何度も実在論は現れるのかといえば、そうやって人々が独我論的に、さまざまな経験をしていながら、なぜ、おおよそのところでその

  • 認識

は合うのか、というところにあったわけであろう。それこそ、カール・ポパーの「反証可能性」は、おおよそのところでは成功しているわけで、それというのは、ようするに、さまざまな経験の

  • 反復

が、概ね、人々の間で肯定できる、というところにある。一人の人が同じ実験をすると、同じ結果になるし、それをだれか別の人が行っても、その人もそれが

  • 同じ結果になった

と主張する。つまり、なぜこんな「反復」性が起きるのか、といったところに、経験的実在論の存在意義があった。つまり、この場合の「反復」性のことを掲題の著者は本来は

  • 独立

という意味で言いたかったはずなのだ。
この問題はカントの純粋理性批判においては「客観性」の問題として定式化される。カントは自らの立場は経験的実在論を含んでいると言ったわけであるが、そのことはこれを現しているわけで、純粋理性批判を読めば、どう考えても科学における「経験」の科学を超えた議論がされているわけだが(その典型はアプリオリな推論にあるわけだが)、少なくとも彼の見立てにおいては、彼の理論の

で普通に言われる意味での「科学」は正当化されるし展開されうる、と考えていた、というところに特徴があるわけであろう。
さて。
なぜこういったことが、おおむね「成功」しているのだろう? それを一言で言うなら、なぜこの世界は数学で記述できるのか、と問うことと同値になる。
私たち人間社会のこの科学という営みは、とりあえず、さまざまに「成功」してきた。ということは、この世界を数学によって記述することで、

  • その数学理論の適用による予言・予測の成功
  • その数学理論の適用による工学的なテクノロジーの実践の成功

のこの二つの体験を獲得してきた。ということは、そのレベルにおいては、この社会の「客観化」に人類は成功している、と言えるわけであろう。つまり、独我論的な範囲の知識に、この範囲では逸脱しているレベルにおいては、私たちは

  • 社会

への一定の「信頼」をすることには、一定の正当化を獲得している、と考えることができる。
では

  • なぜ、こういったことは、おおむねであれ「成功」するのだろう?

うーん。
これを「なぜ」と問うことは、では、カントはこの問題をなんだと考えていたのであろう?
ところで、掲題の本は、こういった形でタイトルにもあるように「科学的実在論を擁護する」といった姿勢において、一貫して、経験論を「敵」と定めて、それを論駁する形で書き進められてきたわけだが、後半に行けば行くほど、この姿勢はもう少し緩やかになっていく。つまり、そう単純なことではない、といった色彩が感じられてくる。

つまり、構成的実在論実在論の名に値するのか、という疑問である。確かに、(近似的)真理を基礎概念として組み立てられた実在論に比べると、かなり弱い主張になってしまっていることは否めない。類似性は程度を許す概念なので、「実在システムの忠実なレプリカ」から現象を救うための便宜的な虚構まで、連続的につながってしまう。また、観点主義をとることにより、モデルや科学的世界像は、われわれのもちこむ現実的制約によって構成されたものという性格をもつ。これも構成的実在論の「実在論っぽさ」を低めることは間違いない。

実在システムそのものも自分たちの認知リソースの限界もそれ自体としてあらかじめわかっているわけではない。われわれの手許にあるのは、自分たちの認知のしくみについての科学敵理解と、世界についての科学的理解だけである。そして、科学的世界像は、世界の側からと、われわれの認知リソースの側の両方から制約を受けた「共同作品」になっている。われわれは、この合作の産物しか持っていないことになる。
だとすると、世界そのものからの制約と、認知リソースの制約の均衡点に位置する共同作品としての科学的世界像から出発し、それに含まれる個々の構成要素について、どの程度どちらから制約を受けていると考えるのが合理的なのかということを腑分けする作業として、実在論論争を捉え直すことができるだろう。世界の側からの制約の方が大きけば、その構成要素に対しては、より実在論的態度をとることが正当になる。逆に、認知リソースからの制約の方がより大きければ、その要素は、認知のための道具の色彩が強くなり、それに対しては反実在論的態度をとることがより妥当になる。そうすると、科学的実在論論争は、二つの立場が対立しているように見えながら、実は補完しあっており、二つ合わせて以上のようなあ作業を、共同作業として営んできたというふうに考えることができる。

しかし、まさにこのことを経験論は主張していたのではないのか? 「真理」とは

であり、プラトンイデアのことである。そして、それに反対し続けてきたのが、17世紀の経験論なのであって、それは当時の近代科学の発展と共に生まれてきた。つまり、そもそも「反実在論」を「経験論」と同一視する姿勢にこそ、根本的な誤解があるようにしか思われない。
というか、逆に私なんかは聞きたいわけである。経験論をなんだと思っていたのか、と。掲題の本では、経験論をバークリー、デカルトジョン・ロック、ヒュームといった17世紀の哲学者の、どこか懐疑論的で不可知論的な主張に代表させているわけであるが、そういった「選択」自体が、どこか恣意的な印象を受けざるをえない。まあ、だからといってカントに代表させるというのも、大仰な感じはいなめないとしても、もっと常識的なレベルで考えれば、経験論がそこまでエキセントリックな主張でないことぐらい分かると思うわけである。そうであるなら、ここまで「実在」という言葉を強調する必要もないことが分かるわけで(というか、実在って、英語で「realism」ですよね。普通に、リアリズムって書きましょうよ。なんで、実在論なの。それじゃ、まるで、

の一種のように聞こえますよね)、もう少し違った観点で科学論が書けると思うんですけどね...。

科学的実在論を擁護する

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