「とじとも」について

アニメ「ハイスコア・ガール」を見ていると、ゲーセンで小銭を使ってゲームをする子どもたちの「英雄譚」が、これでもかと語られるわけであるが、現在から振り返ってみると、妙な違和感を感じる。それは、小学生が小銭単位であれ、多額のお金をゲーセンで使うということが、あまり合理的でないわけである。
テレビゲームをやるにしても、家庭用のゲーム機を買うなら、それら一式をそろえるまでには、それなりの出費があったとしても、それ以降、家で使う分には、たかだか電気代だけで、いくらでも使いたおせる。
そしてそのことは、現在においては、さらに先に進んでいるとも言えると思うが、そこはどこか微妙なニュアンスを帯びて、という条件が付けられる。
つまり、スマホゲーのことを言っているわけだが、基本点に、スマホのアプリは、「無料」で使うことが前提となっている。私たちは、アイフォンだろうがアンドロイドだろうが、気になったアプリをインストールして使うし、そのことを誰も不思議に思わなかくなった。
しかしこのことは、こと「ゲーム」に関しては異様な感じを受けないわけではない。ようするに、「開発費」が確実にかかっているわけで、そういったものを無料で使わせる、ということが、うまく整合性がとれないわけである(もちろんこのことは。、ゲーム以外のさまざまなアプリでも言えるわけだが、ここで言いたかったのは、ゲームは多くの「人件費」がかかっているわけで、小口の例えば、「広告」表示機能のようなものによるアフィリエイト程度では、元がとれないだろう、といった程度の意味である)。
そこで、近年、さまざまなスマホゲーで採用されているのが

  • 有料ガチャ方式

ということになるであろう。
なぜ無料のゲームが、こういった「オプション」によって、ビジネスモデルが成立するのか? それは、まあ簡単に言ってしまえば、「射幸心」を煽る「ギャンブル性」が強いから、ということになる。
まあ、一応の建前としては、こういったことになるわけだが、それが「具体的」にどういうことなのかは、曖昧としている。普通に考えて、公式でさえ「無料で遊べます」と述べているのだったら、多くの人は無料でゲームをするのではないか? わざわざお金を落とすということには、やはり、一つの具体的な壁を「超えている」という意味がある、ということなのではないか?
ようするに、実際に

  • やってみる

ことにこした「学習」はないわけで、以下はそんな実体験について書こうと思っている。
アニメ「刀使ノ巫女」(とじのみこ)は、前期の深夜アニメで2クールで完結したけであるが、このアニメにはスマホゲー「刀使ノ巫女 一閃の燈火(いっせんのともしび)」(以下、「とじとも」と呼ぶ)がある。このスマホゲーは、上記の文脈からあるように、当然

  • 無料

でできるわけだが、とりあえず、アニメ版とは違った「サイドストーリー」が読める、ということで、どうせ「無料」だし、ということでやってみた。
ちなみに、以下に攻略wikiがある。

刀使ノ巫女(とじとも)攻略Wiki

やってみた印象は、これは対戦型の「アクション・ゲーム」なのだが、いわゆる、ゲーセンの操作スティックをたくみに動かして、その技巧を競うようなものではなく、さまざまな「オプション」を合理的に重ねて、その

  • 数値の多寡

で勝ち負けを決めていくような性質のもので、まあ、近年のゲームではよくあるタイプの戦闘型と言えるだろう。
ちなみに、現在においても、このゲームの「最後」はまだ「配信」されておらず、つまり、このゲームの最後まで行った人はいないわけで、つまりは、まったくこの作品は「完成」していないわけだが、なんとも近年のアジャイル開発を思わせるような、「後出しジャンケン」っぷり、というところだろうか。
私はとりあえず、一週間くらいやってみたのだが、なんの予備知識もなく、アプリをインストールして、だいたい感覚で操作して、序盤をやっていたわけだが、そうしていろいろと煮詰まったくらいから、上記のwikiなどを見始めた位で、まあ、その程度でも、ある程度は操作できて、それなりに楽しめるとい感じだろうか。
そして、その印象として、とりあえず、上記の「有料ガチャ」問題に関係したところを中心に述べようと思うが、ようするに、自分以外にこのゲームを行っている他人の

  • 部隊編成

が「フレンド申請」と「チーム戦」の場合に「見える」ことが重要なのだろう、ということが分かる。まあ、このゲームを非常に単純化して言うと、その多くはアニメ版と共通した「キャラ」を、手駒として集めて、チームを作って戦っていく、ということになるわけだが、そのチームの「強さ」は、ほとんど、この手駒一人一人がもっている「戦闘能力値」で決定している。そして、これらのキャラの最上位のカテゴリーが「レベル4」なわけで、つまりはこの「レベル4」をどうやって集めるのか、に全てがかかっているわけであるw
「フレンド申請」と「チーム戦」で、他人のチームを眺めると、馬鹿みたいな戦闘能力をもっているチームの構成はみんな「レベル4」になっているわけで、それ、どうやって集めたの? となるわけだが、まあ、何ヶ月も苦労に苦労を重ねてきた人はいいのだが、そうでなければ、まあ

  • 有料ガチャ

をけっこう使ったんだろうな、ということになるw てっとり早く「強く」なりたかったら、そういった手段を使う、ということになるのであろうし、そもそも、ある一定のレベルまで来ると、明らかに、「有料ガチャを使え」と言われているような気もしてきますね...。
(ところで、アニメ「刀使ノ巫女」がなぜ、今一歩、人気がでなかったのか、ということを考えてみると、そもそもストーリーが分かりにくかったことがあるように思われる。
まず、第一話から、女子高生たちが竹刀ではなく本物の「刀(かたな)」で斬り合いを始めるわけだが、そのことに、なんの「説明」も行わない。ようするに、「写し(うつし)」という技術によって、これを行えている間は、身体へのダメージがおよばない、ということが「前提」にされているわけで、この辺りは、どこか「ガルパン」にも通じるアイデアだと言える。
もう一つは、どう見ても普通の女子高生が本物の「刀(かたな)」を、

  • 軽々

と振り回している姿は異様の一言であろう。刀はそもそも、そんな軽腕で扱えるような重さじゃないし、骨を断ち切る場合でも、かなりの反作用が自分に返ってくる。
ようするに、この「剣道」アナロジーは、もともと、そういったものとして見てはならないわけである。現代戦において、そもそも、刀は時代遅れである。あらゆる戦闘は、拳銃で行われ、遠くから「卑怯者」が勝つようになっている。そのことは、刀が、なんらかの「精神性」に関係した、「飾り」としての機能しかもっていないことを意味している。
このアニメでは、「刀使(とじ)」は基本的に女子高生しかいない。つまり、女しかなれない。このことは、この「剣術」が

  • 巫女

の、なんらかの「呪術払い」を目的としたものであることを意味している(このアイデアは少し「君の名は。」にも似ている)。つまり、これは最初から最後まで「演舞」なのであって、その「呪術」性を競っている、ということを忘れると、なにをやっているのかが、さっぱり分からなくなる...。)