「ペンギン・ハイウェイ」と「お姉さん」

このところ、映画館で映画を見るたびに、一言、このブログで何かを書くということを繰り返してきて、素朴に思ったのは、原作がある映画は、映画を見る前に原作を読むべきなんじゃないのか、といった、なんとも素人くさい考えだった。
こういった考えが、なんとも、「面倒くさい」「うざい」意見であることを十分に分かった上で、なぜそうしなければならないのではないか、と思ったのかといえば、こうやって、実際にその映画を見た感想を、このブログに書いてきたのだから、だったら、それを読んでおけば、どうでもいい

  • 予断

を避けられるんじゃないのか、という、まあ、少し込み入った事情という感じだろうか。
有り体に言えば、映画を見たからといって、その感想を、このブログに書かなければいいんじゃないのか、と言われると、その通りとしか答えられないわけだが、まあ、いずれにしろ、ここで言いたかったのは、いわゆる「原作」のある映画を見たとき、という、かなり限られた話でしかないわけだが。
来月公開される、アニメ「ペンギン・ハイウェイ」の原作は、森見登美彦の角川文庫に収録されているSF小説であり、森見先生といえば、『四畳半神話大系』や『有頂天家族』といった、なかなか興味深い小説を書かれた方でもあるし、そういう意味では、この作品もあまりケチをつけるようなところはないんじゃないのか、と思われるかもしれない。
しかし、私が一つだけ気になったことがあるとすれば、主人公の少年「アオヤマくん」と、歯科医院の「お姉さん」の関係であった。
ようするに、主人公の「アオヤマくん」は、「お姉さん」に「ラブラブ」だから、クラスで仲のいい女の子の「ハマモトさん」と

  • ラブラブになれない

という「フラグ」がストーリーの早い段階で立てられるのだが、別に、自分から「告白」するわけでもない。もし、この作品で唯一の「違和感」を挙げろと言われればここで、一方において、この作品で一貫して、この「アオヤマくん」は、クラスの友だちの「心の揺れ動き」の微妙さを感じとれない

  • 理系バカ

として、鈍感な子どもとして描かれながら、他方において彼自身がもっている「ラブラブ」とは、結局、なんのことだったのか、がさっぱり分からない。ようするにこの

  • フラグ

が最後まで「回収」されないのはなぜなのかが、まさに「パラドックス」なわけである(というか、作品の「欠点」のように、私には思われる)。
ただ一つ。
ある興味深い特徴を、この「アオヤマくん」は示す。それは、この小学生の少年は、異様なまでに、「お姉さん」の「おっぱい」にこだわるわけである。この少年による、「お姉さん」の「おっぱい」の描写が、何度も何度も語られ、それと対照的に、「ハマモトさん」には「おっぱいがない」ことが、かなり「意図的」に断られる。
これはなんなのだろう?
ある小説作品とは、なんらかの意味で、ある「性的衝動」に訴えかける傾向をもっていると考えられる。つまり、そもそも小説は、次の二つに分類される:

  • 成人男性に向けて書かれたもの
  • 成人女性に向けて書かれたもの

そして、この二つは次の二つに、それぞれ対応する:

  • 読んでいる成人男性が、「魅かれる」セックス・シンボルとしての女性を、これでもかと描く
  • 読んでいる成人女性が、「魅かれる」セックス・シンボルとしての男性を、これでもかと描く

まあ、露骨に言ってしまうなら、その成人の異性と「セックスをして子どもを産みたい」と思わせるような、

  • セックス・シンボル

を露骨に

  • 強調

する、ということなのだ。私たちは小説を読みながら、「相手の性的な魅力にひきこまれ、相手との<セックス>であり、<子ども>をもうけるまでの<具体的>なくだりを<妄想>する」。ようするに、この妄想をかなりの「強度」で最後まで、維持してくれる、カタルシスをもっている小説が「よい小説」と呼ばれ、ベストセラーになる、というわけであるw
まあ、このことはアニメ「君の名は。」においてもうかがえた、と言えるだろう。瀧の視線から、三葉は、一見するとまだ高校生で、と思われるかもしれないが、高校生は言うまでもなく、江戸時代以前なら普通に結婚していたし、子どもも産んでいた。つまり、男女の生殖の十分に「可能」な年齢でありながら、現代の進学システムや、就職システムが、こういった関係を難しくしている、ということを意味しているという意味では「タブー」として、この機能をより強調する結果となっている。三葉は、まず「田舎」で「巫女」をやっているといことで、その含意は

  • 処女

を示唆する。つまり、十分にこの作品は「性的」な含意を含んで、それを意識して作られているわけである。
対照的に、現在公開中の「ミライのみらい」では、主人公の「のんちゃん」の目の前に、産まれたばかりの妹の「未来の女子高生」の彼女が現れるわけだが、なぜ「女子高生」の彼女が

  • わざわざ

描かれなければならなかったのかは上記で説明されるが、なぜこの映画がいまいちヒットしていないかといえば、そもそも「のんちゃん」に感情移入して映画を見れる視聴者が、そもそもいないからだ。4歳の「のんちゃん」に、おっさんが感情移入をしたとして、その視点から、「女子高生のみらいちゃん」を、どうやって

  • セックス・シンボル

として眺めればいいのかw 押井監督は根本的に人間を分かっていない。彼は、そもそも、人間にとって、本質的ではない「家族」を、一つの

として、今の自民党政権に「おもねる」思想を提供した、くらいの、「日本の未来を牽引する道徳哲学者」くらいの尊大な考えで、アニメ界の大御所を気取っているのだろうが、そもそもこの人は、物語とはなんなのかを根本的に分かっていないわけであるw
そこで最初の話に戻るわけだが、上記と同様に、「ハマモトさん」と「アオヤマくん」の恋愛が書かれてはだめなわけである。なぜなら、それでは「セックス・シンボル」が成立しない。「ハマモトさん」はまだ小学生であり、子どもが産める年齢になっていないのだから、上記の

  • 視聴者への<性的>な示唆

が成立しない。そういう意味で、あくまでもこの関係は、「アオヤマくん」と「お姉さん」でなければならなかった。
確かに、作品は「ファンタジー」である。しかし、そう考えてみると、この作品は、主人公の「アオヤマくん」の、

  • 「お姉さん」の「おっぱい」妄想

が膨らみに膨らんでしまった、性的なイメージにさえ見えてくる。この作品は確かにSFである。しかし、この一連の一夏の思い出が、この生真面目な少年の「お姉さん」への、なんらかの意味での

  • 性的な妄想

そのものなのではないか、と考えてみると、ある意味で、このSF小説の「どうでもいい」、ストーリー以上に説得力のある話に思えてこないだろうか...。