松本俊吉『進化という謎』

いわゆる、社会生物学論争の「決着」ということで、いろいろな大衆向けの本を読んでいると、そもそも、この論争の「結果」というものが、まったく反対に人口に膾炙してしまっているのではないのか、といった疑問を持たずにはいられなくなる。
ようするに、

  • 常識

が間違っている。なにかがおかしいのだ!

グールドとルウィントンが一九七九年に共著で執筆した、適応主義を批判する有名かつ挑発的な----そしてそれだけに毀誉褒貶の激しい----論文は、すでに述べたように、自然選択説の妥当性をめぐるこうした歴史的な論争の延長線のものと位置づけることができる。

しかし他方で、現在生物学者の中でこの論文を肯定的に評価する人はおそらく少数派であろう。その理由の一つは、この論文で著者たちによって指摘されたポイントは、方法論的自覚を持って地道な実証的研究に取り組んでいるまっとうな生物学者にとっては、いわば自明の理であるかもしれないという点にある。確かにこの論文が書かれた当時は、折しもウィルソンの『社会生物学』(1975)が出された直後で、過度に適応を強調する "just-so story"(そうなるべくしてなったというまことしやかな物語)が跋扈していた時期でもあり、そうした言説がもたらす政治的な意味合いも含めて、適応主義に対する原理的な批判が大きなインパクトを与える時代的な素地があった。しかしその後論争が沈静化して進化生物学が再び、「通常科学」化してくると、グールド=ルウイントンの論点は、方法論的的意識を持った誠実な生物学者にとっては特に真新しいものではないということがわかってきた、という事情はあるだろう。

にもかかわらず、この論文が巻き起こした論争は、科学哲学・科学方法論的な観点からすこぶる興味深い。

また個人的にも、ソーカル事件に端を発する「サイエンス・ウォーズ」になぞらえていえば、そこで敵対した「科学の実践家」と「外野の批判者」という両陣営のいずれにも属さず、その中間的な立ち位置から科学の営みをできるだけ内側から(しかし必要に応じて批判的に)見ていこうとしている科学哲学者である私にとっても、この適応主義をめぐる論争は論争発端から三〇年以上経ったいまでも色褪せていない
さらにあえていえば、前々段で述べたにもかかわらず、本書第1章で現代の進化発生生物学(エオデボ)について述べたところでも触れたように、ネオダーウィニズムの選択万能論と遺伝子中心主義の見直しを図ろうとしている最近の生物学の潮流において、グールド的な発想はむしろ再評価されつつあるともいえるのである。

この社会生物学論争の「きっかけ」と言ってもいい、「反適応主義者」のグールドによる論文について、おおよその世の中の受けとめ方は、

なのであり、だから上記の引用でも

  • 進化生物学が再び、「通常科学」化してくる

と書かれている、といった解釈が一般的なわけであろう。ようするに、

  • グールドの「負け」

である。「科学は勝った」というわけであるw グールドは「反科学」であって、もっと言えば「トンデモ科学」だったわけで、しかし歴史は証明する。E・O・ウィルソンやドーキンス

  • 名誉は回復された

というわけである。しかし、上記の引用にもあるように、「進化生物学」の「科学カリキュラム」としての定着の歴史は、E・O・ウィルソンやドーキンス

  • 先駆者

として一定の、この分野の「確立者」としての、歴史的評価を与えているに過ぎず、彼らの「言っていたこと」のなにもかもを盲目的に「継承」しているなんていうものとは、まったく違っている。むしろ彼ら、現代の生物学者は、上記にあるように

  • 方法論的的意識を持った誠実な生物学者

にとっては、

を注意深くその著書からとり除いて読むことが可能になったレベルのリテラシーが定着した、という意味であって、掲題の著者に言わせれば、今度は、むしろグールドこそ現代の最先端では

  • その「発想」においての再評価が始まっている

というわけであろう。
うーん。なにかが違うw

実はここまで述べてきたような歴史の「偶発性」を重視するというモチーフは、グールドがその著書『ワンダフル・ライフ----バージェス頁岩と生物進化の物語』の中で、力説したものである。

実際に、アメリカ科学哲学学会の一九九六年の総会において、文字通り「生物学的法則は存在するか?」というテーマでシンポジウムが組まれている。

まずこのシンポジウムが組織されるきっかけとなったのは、ベイティが上述したグールドの議論に触発されて、以下のような形で定式化した「進化の偶然性のテーゼ」(Evolutionary Contingenccy Thesis: ECT)である。

生命世界に関するあらゆる一般化は、以下のどちらかの範疇に入る。

  1. 数学的一般化か、物理学的一般化か、化学的一般化----もしくは数学的・物理学的・化学的一般化に初期条件を加えたものからの演繹的帰結。
  2. 生物学固有の(istinctively biological)一般化。ただしその場合、それは進化の偶然的な結果を記述したものに他ならない。(Beatty 975 pp.46)

ここで「一般化(generalizations)」とは、科学哲学でよく使われる話だが、まあ自然法則のようなものだとご理解いただきたい。

その言わんとするところは、次のことである。生物学という個別・特殊科学のレベルに固有の「法則」は存在しない。あるのは、(1)数学・物理学・化学において成り立っている法則の生物学的なケースへの適用例か、さもなければ、(2)生物学固有のものではあるが「法則」の名には値しない経験的一般化のいずれかである。

しかしもっと重要なことがある。それは、こうした「埋め込み戦略」によって生物学的一般化を物理学的一般化に同化・解消することによって、逆に「生物学に固有なもの」が見失われてしまうのではないかという点である。一般に生命進化の歴史は「カオス的」である。すなわちグールドが力説したように、ある時点において見られた初期値の微小なゆらぎがその後の出来事の経過に劇的な変化をもたらすという「初期値鋭敏依存性」をその特徴としている。

要するに彼は、論理実証主義者が物理学に見いだしたような普遍法則の探究という科学の理想を進化生物学に求めることはできないが、しかし限定された範囲内なら、その「偶発的な規則性」に、自然法則に通常要求される説明力・予測力といったものを期待することは可能であるし、実際進化生物学者たちはそうしているのだと論じているのである。これは、「生物学に絶対的な意味での法則は存在するかしないか」という形而上学的な二分法を捨て、プラグマティックな観点から実際の生物学の営みを見直しましょう、というミッチェルの定言に近いものであろう。
このシンポジウムのパネリストだけがこの問題をめぐる可能な立場をすべて代表しているわけではないが、これらの議論を通覧して、私自身の考えも、生物学固有の法則の非存在を唱えるグールド=ベイティ=ミッチェルの方向性に傾いている。

生物学は「科学」か? こんなことが、まことしやかに、1996年に議論されていた、というわけであり、そして、そういった方向性に対して、掲題の著者自身が

  • この方向性に傾いている

と自ら告白しているわけであって、さて。何が起きているのだろう?
しかし、上記の引用の文脈は近年、私がこのブログで取り組んできた、「実在論」の問題に対する、一定の範囲での懐疑主義であり、不可知論に対して、ほとんど並行して議論されている印象すら受ける。
ここで実在論と言うとき、数学、物理学、化学については、

  • 普遍法則

と呼びうるような、インディビジュアルな(原子などの)単純かつ最小単位の「構成物質」による「構造」が科学法則として枚挙可能なことは誰も疑っていない。しかし、そうであることと、そういった認識を、こと「生物」のレベルにまで適応することの

  • 次元の違い

が気になるわけである。そんなに簡単に生物に「法則」があるなんて言えるのだろうか? 確かに私たちは日常的には、なんか、それらしき「法則のようなもの」を慣習の範囲で、見出して「生活の知恵」としている。しかしだからといってそれは、数学、物理、化学において呼ばれているような

  • 普遍法則

の地位に置けるようなものなのか? いや、もっと言えば、そもそも生物学において、そのような「法則」が一つとして見つかるなんていうことが起こりうるのか?
なぜ、このような「困難」性が、こと生物学は避けられないのか? それは上記の引用にもあるように、生物学の分野の

  • カオス性

が関係している。ようするに「生物」として私たちが表象する「最小単位」の時点で、時間的な意味においても空間的な意味においても、

  • 大量かつ多様な原因をもつ

構成要素を考慮しなければならない、となっている時点で、こういったものの挙動が、いわゆる(現代数学において、その性質が定義される)「カオス的」な挙動を見せざるをえない、といったところに、その本質があるわけであり、そもそも、そういった対象に対してどのようなアプローチが合理的なのかが、最初から問われていることに、多くの人たちが気付いていないわけである。
そもそも、経済学にしても、人文系の学問、まあ普通の「日常言語」で語られる学問は、これらを特徴づけているのはみんな

  • (数学的な)線形性

だと言うことができる。つまり、日常言語は「文法」という制約の下に、その文法構造の「線形性」に完全に制約されている。そのことは、マクロ経済学を含めて、非常に素朴な「線形性」の関係性の成り立つ範囲での

  • 近似

で世の中を「見て」いるから、なんかそれらしき「もっともらしい」ことが言えている、といったような関係になっている。
しかし、ひとたび生物学のレベルにまで至ってみると、その現象は、そのもの、偏微分方程式で記述されるような、非線形性の性格を深く帯びてきてしまうし、まあ、自然界においてはそっちの方が、当たり前であり、一般的なわけだ。
(ちょっと誤解を呼びそうな比喩かもしれないけれど)以前よく、このブログでも書いたことがあるけど、私たちは通常、「方程式」って言うと、大学の受験のときにやったような、二次方程式とか、三次方程式とか、たかだかその程度の次元のものしか思い浮かべないわけで、たかだか

  • 百次元方程式

なんていう程度ですら、まず、紙と鉛筆で人間が計算できるようなものではなくなる。ところが、これをコンピュータにインプットしたら、どうなるだろう? もしかしたら、コンピュータはそれを「解い」てしまうかもしれない。しかし、果してその「証明」は

  • 人間が読めるのか?

は、はなはだ怪しいわけである。近年、そういった「人間が読めない」証明がされた数学の定理が増えている、と言う。よく考えてみてほしい。私たちは「正しい」ということが、まさか、

  • 人間が「理解できない」証明

によって書かれる、なんていうことを想像もしていないのではないか。そもそも、そんなことは「人文系という学問の否定」とさえ感じないか? つまり、これと同じことが、

の大衆的な認識において起きているように、私には思われるわけである。多くの人たちは、「科学」は「進歩」して、そしてそれは「人間の進歩」と同値の現象だと思っている。しかし、結局のところ、人間の側はいつまでも、その「科学」と正面から向き合えない。どうしても、

  • 自分にとっての「持論」に都合よく解釈してしまう

わけである。ようするに、自分が「そう読みたい」ように、「科学」の結果を解釈してしまう。だから、いつまでたっても、社会生物学論争は決着しないw
以降では、あらためて、私なりに、この社会生物学論争を「総括」してみるわけだが、その場合の私なりのこの論争の「構造」をはっきりさせておきたい:

ここで「あなたはどちらの陣営ですか?」と問うことと、いわゆるダーウィンが言っていた程度の意味での「進化は存在するか?」という問いを混同してはならない。つまり、だれもその「後者」を疑っているわけではない。そうではなく、なぜ反適応主義陣営がウィルソンやドーキンス

  • 個々の議論

に反駁したのか、というところにポイントがある。ようするに、ウィルソンやドーキンスは「ダーウィン以上のことを言っている」わけで、その差異が問題にされているわけで、私たちはその「ねちねち」した細かい細部の議論にこそ、本質がある、と考えなければならない。
まず、E・O・ウィルソンが何を言っていたのかを整理するところから始めよう:

一九七八年に、『社会生物学』の思想の一般向け通俗書として書かれ、米国の物書きにとって最高の栄誉の一つであるピュリッツァー賞を受賞した『人間の本性について』の中に、「つなぎ紐原理(leash principle)」と(後に)彼自身呼ぶところの、よく知られた箇所がある。

高次の倫理的諸価値の文化的進化は、それ独自の方向性と駆動力を獲得して、完全に遺伝的進化に取って代わることができるだろうか? 私はそう思わない。遺伝子は文化をつなぎ紐(leash)でつなぎとめている。この紐は非常に長い。けれども諸々の価値は、人間の遺伝子プールにそれが及ぼす効果によって、避け難く制約されている。脳は進化の産物である。人間行動とは、----その行動を駆り立て導く情動的反応という最深部の能力とともに----われわれの遺伝物質がこれまで無事に保存され、今後も無事に保存されていくための、間接的で遠回りな手法に他ならない。道徳性が持つ究極的な機能で、これ以外のものを示すことは不可能である。(Wilson 1978,p.167)

つまり、私たち人間の文化的行動は、遺伝子という主人に紐でつながれている従者のようなものであり、この紐の長さの範囲内で、自由を謳歌している(と錯覚している)にすぎないというわけである。そして、それに続く箇所で彼は、この思考の延長線上で、自由意志の創発、攻撃性、戦争、社会行動における男女の性差、利他性、宗教といったわれわれ人間の文化・社会現象に対して、次々と適応主義的な説明----すなわち遺伝子の保存のための手段としての説明----を与えていく。さらに彼は、もしこうした行動が何十万年ものオーダーの長期間をかけて少しずつ遺伝的基礎を獲得してきた進化的適応であるならば、文化・社会環境のせいぜい数千年から数十年オーダーの短期間での変動(たとえば人為的な制度改革など)によって変更させられる可能性は極めて少ないだろうという見通しを述べている。これが批判者によって「遺伝的決定論」と呼ばれるようになった主張に他ならない。
確かにこれは、反発を呼ぶに十分なほど刺激的な主張である。けれども、こういった主張は何もウィルソンだけの専売特許ではない。

上記の引用は、典型的なウィルソンの「思想」が現れている場面であるが、こういった「通俗的生物学」は、ナチス・ドイツを始め、挙げればきりがないくらいに、何度も何度も、

  • 哲学

という形で、なにか深淵な認識であるかのように反復して登場してくる。ウィルソンが行ったことは、こういった「通俗的生物学」に、一定の「理論的根拠」があるかのように「新しい生物学の分野の登場」という形で現れた、ということなのだろう:

また、生物学者でありかつ哲学者であるマイケル・ギゼリンは、一九七四年に出版した(けれどもあまり注目を浴びることのなかった)「自然の経済と性の進化』(Ghiselin 1974)という本の中で、次のようなさいっそう過激な思想を綴っている。

社会の進化はその最も利己主義的な(individualistic)形態におけるダーウィニズムパラダイムに合致する。いかなる社会現象も、他の仕方では説明できない。自然の経済は徹頭徹尾、競争の原理に貫かれている。自然の経済が働いている仕組みをいったん整理したなら、様々な社会現象が生起する根底にある理由は明らかとなる。すなわち社会現象とは、他の生物の損失の下にある生物が利益を得るための手段なのである。いったんセンチメンタリズムを脇に除けば、純粋な慈善心の存在などをいくらあげつらったところで、こうした社会観を和らげる助けにはならない。協力という名で通っているものは、ご都合主義と搾取の混淆物に他ならないことが明らかになる。ある動物が他の個体のあめに自らを犠牲にしようとする衝動を時に持つことの究極的な根拠は、それが第三の個体に対して優位に立とうとするところに求められる。ある社会の「利益のため」の行為は、それ以外の社会にもたらされる損失の上に成り立っていることが判明する。いかなる生物も、それが自らの利益になるのであるのであれば、当然その仲間を援助するものと期待される。また、他の選択肢がない場合には、彼は共同体への隷属状態の束縛をも、甘んじて受け入れる。けれども、いったん自らの利益のために行動する機会が全面的に与えられたなら、彼を野獣のような行動、暴力、殺害----それがたとえ自分の兄弟や配偶者や親や子に対してであったとしても----から思いとどまらせることができるのは、利己的なご都合主義以外の何もない。「利他主義者」の皮を剥いでみよ。そしてそこに、「偽善者」が血を流しているのを見るがよい。(Hull 1990, p.226 より引用)

しかし、ね。
こういうことって、いわゆる、通俗的な「哲学者」がいっつも言ってきたことだよねw というかさ。いわゆる「マスコミ」で自分を「哲学者」って自称している人たちって、みんな、こんなようなことを言ってるじゃない? それで、自分は大衆とは違う、深淵な「真実」に気付いた

  • エリート

なんだ、って。なんにもめずらしくない。
まあ、こういったある種の「運命論」。お金持ちはどんどんお金持ちになって、貧乏人はどんどん貧乏人になるのは「しょうがない」、「運命」だとか言っている連中の、ようするに

  • 理論的な基盤

をE・O・ウィルソンが与えてくれた、って考えているわけでしょう:

さて、もう一度先に引用したウィルソンの「つなぎ紐原理」に立ち返り、そこに込められた哲学的な含意について若干考察してみることにする。哲学的に見た場合、上に引用したウィルソンの言明には以下の二つの問題が潜んでいる。
第一に、ここでウィルソンは、人間の文化というものを、(遺伝的に規定された)個人の行動の集積として捕えている。すなわち、文化という「全体」は、その文化に属する個人の行動という「部分」の総和異常のものではないと暗黙裡に想定している。すなわり、ここではある種の「還元主義(reductionism)」が顔を覗かせているのである。

さて、「つなぎ紐原理」に関して注目すべき第二の点は、上述したウィルソンの「遺伝子還元主義」的な立場の背後に、唯物論もしくは物理主義という彼の明白な存在論的信念が控えているということである。

つまり、どういうことか、ということになるけれど、ウィルソンは何が言いたいのか? 人間社会で起きていることは、人間自らの

  • 本能という縛り

から抜け出せない、ってわけね。だから、昆虫の「アナロジー」が人間に適応できる。昆虫で見られる「本性」は人間にも当てはまる。まあ、完全なまでの、

だよね。人間社会の現象は、個々の人間の現象の総和に

  • 還元

できる。そして、その個々の人間の現象は、個々の、人間を構成している分子の「物理現象」に

  • 還元

できるし、その含意として、究極的には人間の現象は、「遺伝子」という分子レベルの「本性」に

  • 還元

できる。もう完璧じゃないですかw まさに、いわゆる

が言っていること、そのものなわけでしょう。そして、このレトリックの例として、何度も得意げきウィルソンが取り上げる例の一つが、いわゆる「インセスト・タブー」だというわけである:

文化と生物学(遺伝子)の関係を考えるための一つの恰好の材料として、----ウィルソン自身も好んで採りあげる----近親相姦忌避(インセスト・タブー)がある。これは、古今東西の人類諸文化においてほぼ普遍的に観察される行動規範であり、その起源に関して昔から様々な説明が提供されてきた。これには大きく分けて文化・社会的説明と生物学的説明がある。フロイトは、異性の親や兄弟姉妹とのセックスをひそかに望む人間の欲動----これ自体は「自然的」なものである----をほうっておくと人間社会の基本単位である家族関係が崩壊してしまうので、それを抑圧し社会的秩序を維持するための手段としてインセストタブーが導入されたと考えた(Freud 1913)。「文化人類学の父」と呼ばれるエドワード・タイラー----そして後にその理論を発展させたクロード・レヴィ=ストロース----は、未開社会において女性がしばしば部族間取引きの材料として用いられていたことに注目し(つまり、女性を他部族い嫁に出し縁戚関係を結ぶことで自らの部族の政治力を高めることができる」、インセストタブーは女性の「交換財」としての価値を維持しておくための社会的装置だとした(Tylor 1889; Levi-Strauss 1949)。以上が文化・社会的説明である。
それに対してもっぱら生物学的観点から近親相姦忌避のメカニズムを考えたのが、フィンランドの人類学者エドワード・ウェスターマークである(Westermarck 1891)。後に「ウェスターマーク効果」と呼ばれるようになった彼の仮説によれば、われわれ人類には、生後六歳頃までの幼児期を共に過ごした異性に対しては長じた後も相互の性的接触を嫌悪させるような生物学的・心理学的抑止のメカニズムが備わっている。こうした効果が実際に存在することは、イスラエルキブツと呼ばれる共同体----そこでは生後間もない子どもたちは、生物学的な両親や兄弟姉妹から引き離されて、他の同年齢の子供たちと集団生活の中で育てられる----における観察によって、ある程度実証されている。したがってこの見解によれば、近親相姦忌避は、生得的な本性を抑圧するための文化的装置などではなく、むしろ生得的な本性自体が発現した自然の帰結だということになる。
ウィルソンは----当然予想されるように----、こうした生物学的説明に全面的に賛同する。そして彼は、近親相姦によって有害劣性遺伝子がホモ接合で蓄積し生存徳のない個体が生まれる確率が高まるという「近親弱勢(inbreeding depression)」という遺伝学的な事実を引きあいに出しつつ、「窮極要因」と「至近要因」に基づく二段構えの説明を用意する。「至近要因(proximate factor)」とは、ある行動を生みだす直接的な(心理的・生理的)メカニズムのことであり、「窮極要因(ultimate factor)」とはそうしたメカニズムがなぜそもそも進化的に獲得されてきたのかを説明しうるメカニズム----つまりは適応的進化----のことである。すなわちウィルソンによれば、近交弱勢によってもたらされる生物学的不利益を排除する自然選択の力が「窮極要因」として作用した結果、近親相姦行為に対して生理的に嫌悪をいだかせるような心理的抑制メカニズムは、近交弱勢を排除するという自然選択の超世代的な作用を一個体の世代内で効率的に実現するための適応形質だ、というわけである。したがってそのとき、近親相姦に対して心理的・生理的嫌悪をいだいている当人は、それが異常劣性遺伝子の蓄積を防ぐためのメカニズムだという窮極の進化的理由を意識している必要なはないことになる。
では、こうした生物学的効果と、上述したような社会・文化的効果との関係はどうなるのだろうか? 一九七八年の『人間の本性について』におけるウィルソンは、一方的に後者は前者の随伴現象----つまり自律的な存在論的基盤を持たない単なる派生物----にすぎないと主張している。彼は言う。「強力な社会生物学的説明によってより根本的で緊急な原因----すなわち近親交配[もしくは同系交配(inbreeding)]によってもたらされる重度の生理学的不利益----が明らかにされる」のであり、「異系交配(outbreeding)の有利性は、文化的進化をそれに便乗させることができるほど強力であると考えられる。家族の一体性とか政治的取引の材料といった効果は、......便宜的な装置であり、直接的な生物学的理由ゆえの異系交配の不可避性に寄生する派生的な文化的適応にすぎない」(Wilson 1978 p.38; [ ]内は筆者補足)。
けれども、ここでの彼の議論もいささか性急に映る。というのも、彼は「文化的要因に対する生物学的要因の優位性のテーゼ」とでも呼ぶべき原理を、ここで論証抜きで前提しているからである。

さて。結局のところ、ウィルソンの言っていることの、なにが「おかしい」のだろう? まあ、いまさら言うまでもないだろう。彼の脅迫的なまでの

  • 還元主義

こそが、めちゃくちゃなのだ。つまり「言い過ぎて」いるわけであるw ダーウィンの進化論が現代においては一定の正当性が語られるように、ウィルソンの挙げている例も、それぞれ個々において見る範囲では、実証的な研究であり、興味深くもある。だからこそ、現代における

  • 進化生物学という「科学の分野」の確立

が成功し今に至っているわけであり、そういった側面において、ウィルソンを問題視している人など、どこにもいない。そうではなくて、そういった個々の研究を超えて、彼ら適応主義者が主張する、ある種の

  • ラカトシュなどの言う意味での)リサーチ・プログラム

の「仮説」が、明らかに「言い過ぎ」ている、ということが、グールドなどの反適応主義者の論点であった:

サーリンズは、ウィルソンの一九七五年の著書を下敷きにして批判を展開しているので、ウィルソンの還元主義に関する上述のようなその後の洗練化を前にしていたとしたら、ある程度批判の矛を収めたかもしれない。けれども、サーリンズが提起している批判で、『コンシリエンス』におけるウィルソンでさえ、いぜん当てはまるものがある。それは、たとえ還元主義が科学的な文脈では有効なものであったとしても、なぜそれのみが唯一の説明方式と見なされねばならないのか、という点である。説明は「下から上」だけでなく、「上から下」にも可能なのではないか。

よく考えてみてほしい。なんで、人間社会の「あらゆる」ことを

  • 物理学

のレベルに「還元」しなければならないのw つまり、このことは少しも「物理主義」を否定していない。そうではなくて、なぜ

  • 下から上

しか認めないで、

  • 上から下

を認めないのか、と聞いているわけである。明らかに、おかしいでしょ! 例えば、上記の「インセスト・タブー」の例を考えてもいい。自分が所属している社会に、「インセスト・タブー」の道徳があったとしよう。そうした場合に、私が

  • 近親相姦はやっちゃいけない

という「ルール」に従って行動しようとする「動機」が、なんで「物理学w」や「生得的wななんか」に還元されなきゃ、気がすまないの?
単純に、「そういったルールに反した行動をしたら、この村社会では、ルールを守れない、頭のおかしい奴扱いをされてしまう」と考えて、このルールを守っている、なんてことは、あまりにも常識的に当然なわけでしょう。ようするに、カントの言う「カテゴリー」なわけで人間はなんらかのこういった「文法」の制約の中で思考しているし、これの「根拠」を形式論理が、本質的には、積み木並べレベルの「物理学」に「還元」されると言ってもいい。だれだって、決められたルールに従って積み木を並べられなければ「おかしい」って注意するよね。この程度のレベルで「変」なことをやらないって、十分に「これだけ」で合理的じゃない? それに、最近の分析哲学でいえば、ブランダムの「推論主義」でもいい。数学の証明をやってるのに、そのルールを破って「これが証明だ」と言っている連中が、数学コミュニティから相手にされないのとまったく同じわけで、なんでこんなものにまで、

  • 下から上

の「原因」をでっちあげなきゃ気がすまないのw なにが「生得的」だ。ばっかじゃないか。
まあ、これと同じようなことは、ドーキンスの「利己的な遺伝子」にも言えるわけだよね:

ドーキンスは、本章の冒頭でも紹介した「普遍的ダーウィニズム」と題する論文の中で、遺伝子の目から見た進化の記述は単なる帳簿的な記録にすぎないというグールドの批判(Gould 1983)に答えて、次のように述べている。

グールドは(本書の中で)、複製子の眼で進化を見ることを、単なる「帳簿づけ」に終始するものにすぎないと見くびっている。これは一見うまい喩えであるように見える。進化に付随する遺伝子の変化を、帳簿上の金銭の出入り----外界え進行している表現型にかかわる真に興味深い出来事を単に経理担当者の眼差しで記録したもの----と見なすことはたやすい。しかしながら、より深い考察をめぐらすならば、真実はほとんど正反対であることがわかる。(ラマルク主義者ではない)ダーウィニストにとって、因果の矢は遺伝子型から表現型と向かうのであってその逆ではない、ということは本質的に重要である。遺伝子頻度の変化は、表現型変化の帳簿上における受動的な記録なのではない。むしろ表現型の進化が起こるのは、遺伝子頻度の変化が表現型の変化を能動的に引き起こす(cause)からなのであり、またその引き起こしの程度によって前者の進化の程度も決まるのである。深刻な誤解が生まれるのは、この一方向的な流れ(Dawkins 1982a,第6章)の重要性を理解し損ねることと、それを頑なで妥協を許さぬ(undeviating)「遺伝子的決定論」(Dawkins 1982a,第2章)と過剰解釈することによってなのである。(Dawkins 1983,p.421;ただしこの引用文中の出典の記載はドーキンス自らによるものである)

本章で論じてきたことから明らかなように、ドーキンスはここで、二つの異なる因果性を混同している。一方は遺伝子型が表現型を構築する(発現させる)という際の因果性であり、他方は表現型と環境との相互作用によって遺伝子頻度に変化がもたらされるという際の因果性である。前者は、まさしく彼が強調するように、ラマルク主義ならぬダーウィニズム(あるいはヴァイスマニズム、あるいは分子生物学セントラルドグマ)のエッセンスである。それに対して後者は、いったん構築された表現型に事後的に淘汰圧が作用することによってもたらされる、前者とは独立の因果性である。しかるにドーキンスは、前者の自明性を論拠に、後者をそれと同一視して----あるいは単純に無視して----いるのである。けれども、個体発生において遺伝子型が表現型を形成する主要要因であるということを認めたとしても、それのみを論拠に、その後のあらゆる選択過程を駆動する原因性は遺伝子レベルの変異にあるのだと強弁するのは、先に挙げた「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じたぐいの、(論理的に不可能というわけではないが)意味の希薄な主張だといわざるをえないだろう。

まあそうだよね。グールドが言っている「帳簿」っていう例は、ドーキンスが強調している

  • 遺伝子が表現型を構築する

という発生側のメカニズムに対してではなく、その

  • 表現型に事後的に淘汰圧が作用する

ようするに、「社会的に生き残る」ときに様々に作用する要因のことを言っているわけで、なんでこっちまでが「遺伝子」にまで

  • 還元

されなきゃなんないの、っていうことの「比喩」なわけでしょ。どうだろう。まったく、上記のE・O・ウィルソンの問題と同様のことが再現されているように思わないですかね?
そもそも「利己的な遺伝子」というアイデアは、まさに、上記で検討したE・O・ウィルソンの「社会生物学」における

に連なる「還元主義」の典型的なヴァリエーションなんじゃないんですか? まあ、そう考えれば、どう考えてもなんかが「おかしい」というグールドの反応は、普通に考えたらこれを

  • 言いすぎ

と解釈するのは、私たちがE・O・ウィルソンに対して、(まあ、それを改めてナチス・ドイツの再現とまで言うかどうかは別として)なんらかの嫌悪を感じるのと同様な意味で、ドーキンス利己的な遺伝子に、そういった側面を読み取ることは当然なんじゃないか、と考えるわけですが、なぜそんな程度の「常識」ですら反発が起きるのでしょうかね...。

先に紹介したロイドは、ウォーターズとの論争に先立つ二〇〇一年に、自然選択の単位をめぐってそれ以前に闘わされた論争を包括的に調査し、なぜこの論争がこれほどまでに紛糾し、いまだ解決の目途が立っていないように見えるのかという分析を施している(Lloyd 2001)。彼女が到達した結論は、それは論争の当事者たちの各々が異なる意味で「選択の単位」という語を用い、その結果不必要な混乱が生じているからだというものであった。すなわちロイドによれば、これまで論者たちによってこの語に与えられてきた意味は、彼らが以下の四つのどれに答えようとしているかに応じて、四つの異なるカテゴリーに分類される。

  1. 何が相互作用となっているかという問い(Interactor Question)
  2. 何が複製子となっているかという問い(Replicator Question)
  3. 何が進化の受益者となっているかという問い(Benefiary Question)
  4. 何が適応の担い手なのかという問い(Manifestor-of-adaptation Question)

(1)は、その時々の選択過程において実際に環境と直接的に相互作用している実体は何なのか----つまり自然選択の力が直接作用する形質は何なのか----という問いである。シマウマの集団には、足の速さに関する変異が存在する。しかし同時に、縞の本数に関する変異も存在する。そのときこの問いは、ではサバンナにおいて実際に生存闘争を闘っているシマウマにとって生き残りのために重要なのは足の速さなにか、それとも縞の本数なのか、といった形で立てられる。

まあ、この指摘が本質的だよね。つまり、グールドがずっと言ってるのは、上記の(1)なんだよ! 彼はある意味、このことしか言っていない。そして、そう考えれば、E・O・ウィルソンやドーキンスが明らかに

  • 言い過ぎている

ことは(まあ、そのことは近年、さかんに議論されるようになってきた「進化心理学」もまったく変わらなくて)、自明なわけでしょう。そりゃあ、生き残ったり滅びたりって、いろんな「原因」があるに決まってるわけじゃない。なんでそれ意地でも

  • 還元主義

にさせられるの? それって、なんの「イデオロギー」?
まあ、最後に私なりにこの問題の持論を書かせてもらうなら、進化論の議論は、どこかキリスト教における聖書の「解釈学」の議論に似ている、ということに尽きているかな、と思っている。それはまさにキリスト教原理主義者の

  • 正統と異端

うの議論を「再現」しているかのように。

  • 最先端の科学の成果として「適応主義」はほとんど全ての生物学者に認知されており、それに反対した「グールド」や「ルウィントン」のような「反適応主義者」はトンデモ科学者扱いをされている

といったように、大衆を「最先端の科学の成果を知らない」のだからと、「上から目線」で馬鹿にする態度を示しながら、実際は、デネットのような大衆向けの進化論本を書いている人が基本的には「適応主義」の看板を掲げているのだから、これが「現代科学の<常識>」と考えることには、正当性があるだろう、といったような。
なぜ進化論が聖書に似ているのか? ようするに進化論が聖書を「否定」したのだから、進化論にこそ聖書の

  • オールタナティブ

がある、という直観に関係している、と言うことができるだろう。ようするに、こういった人たちはなんにも「キリスト教」の外に至れていないわけである。キリスト教が「否定」された。まあ、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのと変わらないですよね。だから、何が起きるかというと、キリスト教徒は

  • 不安

になるわけです。とにかく、この不安をなんとかして払拭してほしい。そうしてくれれば、「なんだっていい」というわけです。聖書が間違っていた、ということは、何を意味するかというと、

  • 聖書が言っていた「道徳」が間違っていた

ということを意味します。この場合、こういった「キリスト教徒」にとって、自らの「不安」を払拭するのは

  • 聖書がなくても、聖書に書かれている「道徳」には「根拠」がある

という発想ではありません。むしろ彼らにとって、聖書が正しいのか間違っているのかは、大した問題ではないのです。そうではなく、

  • 自分が「不安」でなくなること

こそが何よりも優先して解決されなければならないことです。そのことの「重大さ」に比べたら、聖書に書かれていた「道徳」が間違っていたかどうかなどということは、どうでもいい話なわけです。まさにニーチェ主義。彼らは何を求めているのか? ようするに、

  • 神が間違っていたのなら、何が「正しい」のか?

に「答え」てほしいわけです。それが「不安」なわけです。そして、その代替物として彼らが最初に「すがる」のが進化論です。
進化論は彼らに聖書のような「間違った」知識ではなく、本当の「真実」を教えてくれます。まさに「科学」です。だから、彼らは「安心」できるわけです。これは「真実」なのだ、と。だから、彼らは以前の神を信じていた頃と「同じ」ように日常を生活できるわけです。
聖書に書かれている「道徳」が間違っていたんですから、人間の「本性」は。

  • 利己主義

ということになるでしょう。このことは確定です。なぜなら聖書は間違っているから。そして、聖書の真実性を否定するものこそ進化論なのですから、進化論「が」この真実を

  • 証明

しなければなりません。大事なことは、神に見捨てられたキリスト教徒が「不安」から免れるためにはどうでなければならないか、ということです。それを可能にするために、「そうでなければならない」わけです...。

進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)

進化という謎 (現代哲学への招待Japanese Philosophers)