以下の記事を読むと、日本は科学論文の
- 不正
大国だというわけだが、驚くべきは、以下だと思うわけである:
3カ月後、佐藤氏は謎の死を遂げる。記者は取材に来日し、代理人弁護士の証言などを得て、自殺であったと示唆する。そして、不正を暴いた不屈の努力の想像外の結果に、動揺する女性研究者の複雑な心境で、記事を結ぶ。
日本は「科学論文の捏造大国」とみられている(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース
これは、STAP細胞のときの笹井教授の自殺を思い出させるわけで、ようするに、日本は
- 偉い先生
が自殺をして死んじゃう国なのだ。
なぜなのだろう?
おそらく、この二つは深く関わっている。日本では「偉い」先生というのは、もはや
- 聖人
の域に達している。つまり、「無条件」に、その人の言うことを「信じる」くらいのレベルに。だから、もはや、そんな域にまで達した「偉い」人は、その存在が汚れてはいけないのだ!
私は、こういった意味において、日本の大学から「教授」というポストをなくしてはどうか、と思わなくはない。なぜなら、ひとたび教授となった途端に、ちょっとしたことで、彼らは
- 自殺
をしてしまうからだ。
この状況は、「子ども」たちの世界にしても、同様のことが指摘できる。日本は子どもの自殺が多い国だ。しかし、なぜか日本で、これがどれだけ「深刻」なことなのかを、受け止めていない。みんな
- 他人事
で、とにかく「自分の子ども」さえ、サバイブして生き残るなら、あとは「どうでもいい」というわけである。
なぜ子どもたちは「自殺」していくのか? それは、子どもたちが、ある瞬間に「偉い」と思ってもらえない扱いを、周りから受けることに、ショックを受けるからだ。そういう意味で、不正科学論文を書いて、自殺していく日本の科学者とまったく
- 同型
なわけである。
だとするなら、この「自殺共同体」をどのように解体すればいいのだろう? おそらく、一番大事なことは
- 偉い人
を「廃止」することであろう。私たちは、だれかを「偉い」とラベリングすることをやめなければならない。私たちは、だれもが、
- どじっ子
で、だれもが
- アホの子
で、それでいいのだ。みんな間違うし、どこにも聖人なんていない。私たちは無理に「友だち」になる必要がないだけでなく、「あえて」友だちにならない。その「微妙」な距離感が、相手を
- 自由
にする。日本にはそれが、おそらくは足りなのだ...。