進化と自生的秩序

グールドの「適応主義」批判は、むしろ、「進化」という言葉の一般的な使われ方からもたらされる、この社会全体の

  • 差別

の問題を主張していたはずであるのに、なぜか人々はその問題を軽視し、グールドvsドーキンスが、どっちが「勝った」のか、反進化vs進化で、進化が勝った、だから、

  • 進化を理由にした「差別」は容認される

みたいな議論になっているわけで、いや、だから「それ」とグールドは戦ったんだ、と何度言わせんだよ、と思わされるわけである。
このことは、シンゴジラもアニゴジもそうなわけで、怪しい「進化」理論を堂々と作中で披露してくれちゃっているわけだけれど、それって、スペンサーの社会進化論だよね、SFもいい加減、

から卒業してくれないかな、と言いたくなるんだけれど、普段はニセ科学にうるさい人たちも、なぜかSFになると、なにも言わなくなるのって、なんか業界的な「タブー」でもあるんですかね?
どうして、こういった異常な反応が帰ってくるのかな、と考えてみると、だから、グールドは人生を賭けて、この問題に取り組んだわけで、そんなに簡単に答えが出るのなら、話は早いわけで。
例えば、経済学で、ハイエクの「自生的秩序」という概念がある。しかし、ね。これって「進化」と関係ないよね。
ハイエクが問題にしたのは、国家経済学としての「社会政策」としての

  • 設計主義

であった。国家が全てをコントロールする。これは、結局は「最適解」を与えない。「自由競争」による、製品の「競争」、つまり、「市場」が「最適解」を与える。
しかし、ね。
考えてもみてくれ。これは「自由」じゃない。なぜなら、これはこれで国家によってある種の「コントロール」がされているから。つまり、なにかが「固定」されている:

  • この「コントロール」によって、お金持ちはどんどんお金持ちになるし、貧乏人はどんどん貧乏人になる。
  • 「局所的」な「イノベーション」を起こすために、人工的に局所的な「最適化」をしているに過ぎない。

ようするにさ。これが「進化」じゃないという理由は、進化だったら起きるはずの、別の種類の「淘汰圧」を国家権力によって、人工的に「抑圧」することで、なんらかの意味での「秩序」を維持している、ということに過ぎなくて、これが「正当化」されるかどうかとは全然別の話だ、ということなんだよね。
例えば、なぜ「国家によるコントロール」は抑止されなければならないのか? そもそも「進化」においては、これさえも「淘汰圧」の産物に過ぎないはずで、だったら「この」自由競争はどうなるんだ、と皮肉も言いたくなるわけであろう。
こういうことを議論するとき、よく古代中国の話がもちだされる。中国は長い歴史の中で、「科学」の停滞が起きた、と欧米中心主義者は考えた。なぜか? それは、「政治」による、中央集権があまりにも「成功」したために、だれも「科学」の問題に関心をもたなかったから、と。中国国家は以下の二つのルールで動いている:

  1. 国民が自由競争をして、国際競争力のある「国富」が増える。
  2. 国民の「反乱」を防ぐために、国民の自由競争を「規制」する。その場合、多少の「国富」の減少は甘受する。

この二つのルールにおいて、一つ目より二つ目の方が「優先度」が高い。なぜなら、そもそも「国体の護持」こそが、国家の「目的」なのだから。では、なぜ一つ目が「許される」場合があるのか? それは、諸外国の「例」から、この競争の「結果」を、国家がコントロール可能だ、と解釈していることが大きい。ようするに、国家は「予測可能」な範囲では、国民に自由な行動をさせる、ということなのだ。
早い話が、なぜ古代中国の「科学」が停滞したのかは、ある意味での「進化」なのだ。人々は「自由競争」に自制的に行動する。それは、言ってしまえば

  • お金持ちがどんどんお金持ちになって、貧乏人がどんどん貧乏人になる

ということに対する、「社会」の反発が強いために、自らの行動を抑制したから、ということになるし、国家もこの方向の「秩序」を目指した。それは局所的な「安定」であったのかもしれないが、いずれにしろ、こっちの方こそが

  • 進化

と呼ばれるべき現象なのであって、ハイエクの言う「自生的秩序」は進化とは関係ないのだ...。