「市民ポイント制」型社会契約論

ここのところ、中国で導入が噂されていた「社会信用システム」であるが:

しかし中国では、政府がより広範な「社会信用システム」なるものの構築を進めている。人々を日々の行動などさまざまな基準で採点し、14億人いる中国国民の「信用度」を査定することが最終的なゴールだ。
近未来の世界の悪夢のように聞こえるかもしれないが、運用はすでに始まっている。中国ではこの社会信用システムのせいで航空券や鉄道のチケットを売ってもらえなかったり、NPOなどの組織の立ち上げが禁止されたり、特定のデートサイトが利用できなくなるといった事態が現実に起きているのだ。一方で、スコアが高ければさまざまな「特典」が受けられる。
中国で浸透する「信用スコア」の活用、その笑えない実態|WIRED.jp

以下のような形で、まずは北京で、その実運用の具体的なロードマップが発表された、ということのようだ:

中国が導入すると表明して物議を醸している「社会信用システム」の先駆けとして、北京市は2020年までに、市民や市内の企業に対し「信用度ポイント」を付与する制度を導入する。国営メディアが伝えた。
北京が初の「市民ポイント制」導入、信用度に応じて付与 | ロイター

ポイント制は北京市が初めて提唱したもので、市内のビジネス環境改善のためとして19日に計画を公表した。具体的なシステム運用方法は発表に含まれていないが、このシステムにより、信用に値すると判断された個人には「グリーン・チャンネル」が与えられる一方、ブラックリストに載った人物は「1歩も動けなく」なるという。
北京が初の「市民ポイント制」導入、信用度に応じて付与 | ロイター

確かに、こういう話を聞くと、

だ、とか、

  • 1984年

だとか言った議論になっていくわけだけれども、私はある皮肉を言いたくなってしまう。それは言うまでもなく、「日本」のことを意味しているわけであって、なぜ日本は

  • ポイント制

を採用していないと思えるのかね、という嫌味なわけである。
こうやって社会人にもなってまで、「東大出身」だとか、予備校で何位だったとか、そんなことを話している連中は、ようするに、それが国家によって、

  • ポイント制

として採用「されている」わけではない、という事実性を問題にしているのか、いや、別に国家のシステムとして、今の日本の国民は、そういった情報と国家の管理している「情報」として

  • 記録していない

のだから、中国の社会信用システムとは全然別なんだ、と言いたいのか。しかし、前者であれ後者であれ、私のようなIT系のシステム開発に関係してきた人間には、相当の「お人好し」にしか思えないわけで、

  • 「すべて」の「情報」は、「名寄せ」され「紐付け」される

という事実性を前にして、なにを言っているんだろう、としか思わないわけである。
私たちが義務教育を経て、さまざまな私的な「予備校」などの学力システムと関係して、大学受験を通して、なんらかの、それぞれの子どもたちの

  • 数値化

  • 序列化

を、さんざんやってきておいて、しかも「それ」が、それ以降の子どもたちが大人になり、社会に出て働く段になっても、さまざまに彼らを「拘束」している事実を前にして、どうしてこういう人たちは、中国を馬鹿にできるのだろう、と思うわけである。
こういった「数値化」「序列化」をひとたび行った時点で、それは、私たちを、さまざまに「拘束」する。だとするならそれは、こういった「数値化」「序列化」を起こなった人間の

なのではないのか? むしろ、こういうことを「行った」人間を、「正当」に「裁く」ことこそが求められているのではないか? いや。それだけじゃない。こういった「情報」を無批判に、「受け入れ」る社会の側の免疫のなさこそが、諸悪の根源だとは言えないのか?
こういった「数値化」「序列化」は、すでに適応主義という形で、

  • 遺伝子の「数値化」「序列化」

へと到達しているわけで、

  • 産まれる前から世界は決まっている

という「物理決定論」主義者によって、そもそも「教育」は「教育」ではなくなる。なんらかの「数値」に基づいた、

  • 養分

を与える作業のようなものへと変わっていくわけで、なぜその子どもの「成績」が「上がった」のか、また、「下がった」のかは、完全に「決定論」によって「処理」されるわけで(それが、結局のところ、統計的な処理なのか、そうでないのかは、本質的ではない)、つまり、全ての、その人の人生は

  • 産まれた時点で「決定」している

ということを「証明」していく作業と、完全に同値になる(何度も言っているように、これが「統計」的な処理なのかどうかは本質的ではない)。
よく考えてみてくれ。この事態は、どこか、古代中国で「科学」が発展しなかった話と似ているわけである。
ホッブズ、ロック、ルソーによって構想された

  • 社会契約論

は、よく考えてみると、まるで「史実」と関係のない「物語」でしかないわけで、なんで、大の大人が、こんな「空想物語」を真面目に考えているのだろう、と思われるかもしれない。しかし、この事情と、カントが、たとえ形而上学としてだとしても「叡知界」という領域を考えざるをえなかった事情と、とてもよく似ているように思われるわけである。
カントの「叡知界」は、現象界とは別に考えられた領域なわけで、カントの主張する「自由意志」に関係している。ようするに、こういったものが「ある」と言わなければならないという考えと、「叡知界」という領域を考えざるをえない、という形而上学的な態度が深く結びついているわけである。
では、この問題は社会契約論においては、どのように扱われているだろうか? 社会契約論は、リバイアサンとしての「国家」と、その国家と「契約」をかわす「人々」との関係を明示したものであって、それ以上でも、それ以下でもない。

  1. 安全:国家 --> 国民
  2. 暴力の放棄:国民 --> 国家

大きく分けると、こういった関係になるのだが、後者はいいわけである。問題は前者なのだ。国家が国民に与える「安全」とはなんだろう? ここでは、この二つの「方程式」が問題になっているのであるから、一方の質問は、他方の「答え」で返さなければならない。つまり、それは、国民が暴力を「放棄」してまでも、得ることに「利益」のある何かだ、ということが

に要請されているわけである! 
しかし、そうなのだろうか? ここで、今回中国の北京で導入される

  • 「市民ポイント制」型社会契約論

を考えてみよう。国家は確かに、国民に「安全」を与える。ところが、その「与える」は、

  • ポイント化

されている。各自が所持している「ポイント」の数値に応じて、つまり、そのグラデーションで「安全」なるものを与える、と言っているに過ぎないわけで、強烈なその「正当性」と疑いが強くなるわけである。
よく考えてみてほしい。ある高いポイントを所持している人には、それに応じた高い「安全」が提供されて、そうでない人には、それに応じた低い「安全」しか提供されない。しかし、ここで

  • 低い

と言っていることの意味は、ある

において、上記の二つの方程式の「等式」が破綻する、ということを意味する。つまり、自らの「暴力の放棄」が、この低い「安全」と

  • 割に合わない

ということを意味してしまう。さて。この人はどうするだろう? 言うまでもない。

  • 社会契約の「破棄」

を目指すことになるだろう。この理屈を理解しない連中は、今でも、さかんに「差別」的な発言を世の中に流布している。このことは、中国がいいのか、日本がいいのか、といった話じゃない。それは

  • 程度

の問題に過ぎず、本質が理解されていないのだ...。