国家と鬱病

結局、私たちにとっての「国家」とは、今のカルロス・ゴーンの状況と比べるとよく分かるように思われる。
国家とは、私たちにとって、

  • 法律違反を「摘発」して、牢屋に入れるシステム

のことに過ぎない。しかし、安倍政権の森友問題、加計問題が示しているように、どんなに明らかな「犯罪者」も、牢屋に入れられない。平気に風を切って、パブリックな場で、のほほんと生きている。
このことが示していることは、

  • 権力者に「おもね」れば、牢屋に入れられない

という関係が分かるわけであろう。これが、

  • 御用「お友達」

というわけであろう。だれだって、一代で小金を貯めた連中には、どこかしら、脛に傷をもっている。そして、それを「国家」は

  • 知って

いながら、彼らを泳がせる。彼らは「好き」なときに、すべての国民を牢屋にぶちこむ。しかし、国民の方は、そんな自分の人生の

  • サクセス・ストーリー

を国家に邪魔されたくない。そこで、行うのが、「国家へのおもねり」なわけであろう。安倍首相の憲法改正に「賛成」。沖縄の辺野古の埋め立てに「賛成」。ロシアへの北方四島の譲渡に「賛成」。アメリカから100機の戦闘機を買うのに「賛成」。果して、これが保守なのかと思うわけだが、なんのことはない。安倍政権が行うことには

  • 全て

賛成しているのだと考えれば、なにも不思議はない。まさに、自民党ネット・サポーターズ・クラブ。どっかから「号令」一つで、いっせいに、

  • コピペ

を行う。そういえば、毎日、パワポの資料が配布されてきて、「今日はこれを言ってください」って、指示されているんでしたっけ。
このことは、なぜカルロス・ゴーンが牢屋にぶちこまれたのかをよく示している。なぜゴーンは牢屋に入らなければならなかったか。それは、

  • 「国家」におもねっている日産の西川社長に「泣きつかれた」から

と言うしかないわけであろう。「国家」は、日産の西川社長に、

  • 自分かゴーンのどっちを取るのか?

と迫られて、ゴーンを「捨てた」。これによって、世界中の経営者は日本の企業に努めたら、いつ牢屋に入れられてもおかしくない、と考えて、だれもやりたがらなくなるであろう。ゴーンは「国民」じゃなかった。だから、彼を「はめる」ことは、このゲームにおいて、いくらでもできると思われた。
しかし、そういった「関係」は、結局は「国家」への「おもねり」の強弱の大きさの違いでしかないのではないか、といった印象はぬぐえない。どれだけ、毎日において、安倍首相に「忠誠」を誓っているか。この「従順さ」において、その「競争」において、差がある限り、日本人だろうが「反日」というレッテルと共に、ゴーンと同じ運命を辿ることになり、そのことがプチ・ブルジョア知識人、プチ・ブルジョア経営者たちの「憂鬱」となり、「鬱」となる。
しかし、この裁判の行方は、なぜかアラブのお金持ちを巻き込むような「国際問題」に発展しそうな雰囲気まででてきて、この「醜態」はどこか、イスラエルで安倍首相が「やらかした」リップサービスで、日本人捕虜が首切りされたのを思い出させるわけで、この「国家」システムは、たっぷりと、国益を損ねてくれそうなわけで、なかなかの見物のようだ...。