ブギーポップは「いつ」現れるのか?

NGT48の問題は、やっと、小林よしのりが「ネットの議論」に追い付いてきたようでw、

NGT48の強姦未遂事件を隠蔽する運営に鉄槌を! | ゴー宣ネット道場

まあ、いずれにしろ、今のマスコミの報道よりは、端的な当事者の発言を尊重したものになっている、というわけで、内容はなんか変な気がしないでもない個所も、いろいろ見られるのだろうが、まあ、一定の言論人で、このレベルまで言及した人は、とりあえずいないんだろう、ということでは評価せざるをえない、ということになろう。
まあ、少なくとも、何度もAKBグループについて言及してきた知識人で、これくらいの「普遍的」な分析を発表できない、という時点で、いかに、そいつらの「コミットメント」が嘘っぱちだったのかを、よく現しているわけであろう。
ここのところの前ふりは、このくらいにして、やはり、今期のアニメ「ブギーポップは笑わない」に言及しないわけにはいかないんじゃないのか、といったことは、思うわけであるが、しかし原作が98年の、著者のデビュー作であり、ウィキペディアでみれば、それ以降も、膨大な作品群を発表してきた作者について言及することは(しかも、少なからず、同じ世界観を共有しているとされているらしいわけで)、なかなか難しいんじゃないのか、といった印象は、やっぱり、否めない。
しかし、そういうことなのだろうか?
というのは、なぜ私たちは、ラノベブギーポップは笑わない』を、単独の独立した作品として読んではいけないのかが、今一歩よく分からないからだ。
ひとまず、ネットでブギーポップ作品の「批評」と呼べるようなものを探してみると、以下の方が、著者の全作品を見渡した形で言及されているようで、ひとまずは、参考にさせてもらった。

「上遠野浩平論」 カテゴリーの記事一覧 - 能書きを書くのが趣味。

(ちなみに、最初の記事で

なぜ上遠野浩平について書くかというと、まずその知名度や影響力の割に、言及が少ないからだ。
「上遠野浩平論」①上遠野浩平という人物(インタビュー・あとがきなど) - 能書きを書くのが趣味。

のように発言されていることからも、あまり、まとまった分析は行われていない、ということなのかもしれない。)
とりあえず、私のような人間が注目するのは、『笑わない』論を行っている、

「上遠野浩平論」④傑作セカイ系作品にみる天才性(『ブギーポップは笑わない』) - 能書きを書くのが趣味。

の記事ということになるのだが、正直、違和感がぬぐえない。というのは、作者は『笑わない』を書いた時点で、どこまで、それ以降の、作品群において記述したようなことを意識していたのかが、不明だからだ。例えば、

......かつて、一人の少年が居た。その少年は、別にそれ自体では悪くもなんともない人間だった。だが彼は実は世界の敵だった。なぜなら彼には"生きること"というものにたいして本人も気づかぬ根深い憎悪があったからだ。それでもそのまま生きていたとしたら、あるいは何でもないまま、普通に生きていたかもしれない。だが彼は運命のいたずらで"人喰い"と出会ってしまって、自分のことをはっきりと知ってしまった。彼自身が"人を喰うもの"になってしまった。怪物の法は単に生存条件だったから人を殺していたが、彼のほうは理由らしい理由もなく、ただただ殺し続けた。彼には終点という発想がなかった。もし今でも生きていたとしたら、彼は完全にとりかえしのつかないものを探し出して、世界を破壊していただろう。

「上遠野浩平論」⑤〈世界の敵〉はなぜ敵なのか(『夜明けのブギーポップ』『VSイマジネーター』) - 能書きを書くのが趣味。

とあり、もちろんここでの少年が『笑わない』における、早乙女正美であるわけだが、そうだろうか? というのは、少なくとも『笑わない』を読んだ解釈においては、最初に ブギーポップが竹田に言っている「人を喰うもの」は、マンティコアのことを言っていたのではないか。つまり、第一巻はそれで「統一」的に記述されているが、続巻が出されるごとに、別の解釈を主張する必要がでてきた、ということなのではないか。
『笑わない』を読んで、素朴に思う疑問は、基本的に以下に集約されるように思われる:

  1. ブギーポップは「いつ」現れるのか?
  2. なぜ早乙女正美の記述は「中途半端」なのか?

前者について、どういうことかというと、ブギーポップは宮下藤花の二重人格として現れるわけだが、ブギーポップ自身が言っているように、それは「自動的」だと言う。つまり、それは自らの「意志ではない」という意味で言っているわけだが、今度は逆に、「なんの自動なのか」が問われざるをえない。それに対して、ブギーポップは、「世界の危機」としか言わない。しかし、それは、どういう意味なのだろうか? 「人類」の滅亡? 宇宙人も含める? そして、それを超越的に「検知」するとは、具体的には、何を意味しているのか?
おそらく、『笑わない』を書いた段階では、このことは、エコーズの「人間は善か悪か」の調査と関連して、記述されたのではないか、といった印象は強くする。つまり、ブギーポップの能力が、人間の

からの「悪」の発現、に関係しているのに対して、エコーズの方は、

  • 本質的に人間は善か悪か?

という問いの形式になっているわけで、この「全体集合としての性質」の分析と、その集合が「含む」各要素が、動的に獲得していく性質とが、ことこの

  • 本質

において、どのように整理されるのか、といった緊張感をもっているからだ。
では後者について、どういうことかというと、明らかに『笑わない』は、早乙女正美が「何を考えているのか」を、十全に記述しなかった、ということに尽きているように思われる。上記の、ブギーポップ問題と、エコーズ問題の両方において、明確に

の「試験台」となっているのは、この、早乙女正美しかない。しかし、明らかに、作者は、『笑わない』において、早乙女正美がなにを考えていたのかを、明確に記述することを避けている。

残念ながら本作においては、早乙女正美は異常な人物であるというばかりが強調されており、マンティコアを美しいと言ったり、最期のシーンで彼女を庇ったりする動機も、実は曖昧なままお茶を濁されています。これはおそらく、作者の構想には盛り込まれていたある部分を、編集者か、あるいは作者自身が思うところあってあえて削ったものと思います。
世界を読み解くステージ理論~ あるいは、ライトノベル試論~ - 早乙女正美

私は、ここに関しては、この分析が正しいように思われる。ウィキペディアを見ても、後続巻で、何度も早乙女正美は登場する。ようするに、この段階で、早乙女の「本質」とされるようなものを、はっきりとさせることができなかったのではないか?
おそらく、『笑わない』における、早乙女正美は、作者も言及しているように、荒木飛呂彦ジョジョ作品で描かれるような

  • (無邪気かつイノセントな)美しい「悪」

のようなものを考えていたのであろう。

上遠野浩平は、ヒトの無限の可能性を信じている。それ故、上遠野浩平は夢を目指す者たちの美しさもまた知っている。〈世界の敵〉になってしまった彼らは、たとえ将来の失敗を約束されているとしても、やはり美しい存在なのだ。上遠野浩平の筆致からは、〈世界の敵〉になることのできる存在への、一種の憧れすら読み取ることができる。〈世界の敵〉となったキャラクターたちは常に、強く、賢く、決断力に満ちている。そこらの善良な一般人よりもずっと生命力に溢れ、輝いている。
ブギーポップは、そんな彼らを殺すのだ。夢に向かって邁進していた若者が、自らの致命的失敗を知るよりも前の状態。無限の可能性が、まだ希望に満ちた未来に見えている、希望が絶望に変化するギリギリの瞬間。ブギーポップはその時にやってくる。
そうして殺される〈世界の敵〉たちは、ブギーポップが来なかった場合に自分が何をしたのか、悲劇的結末を知ることは決してない。全ての終わりはブギーポップがもたらすのであり、彼ら自身が間違っていたことは最後まで露呈することがない。ブギーポップは決して、その死の原因を相手の失敗に起したりしない。水野星透子にそうしたように、ただ容赦なく殺す。
「上遠野浩平論」⑤〈世界の敵〉はなぜ敵なのか(『夜明けのブギーポップ』『VSイマジネーター』) - 能書きを書くのが趣味。

そういう意味では、作者は「悪」を肯定している。まさに、サイコパスの現代的な「評価」を、功利主義者が主張するのと同様の意味で、ほとんど

  • 絶対的

に、早乙女正美の悪は成功するし、その「成功体験」の連続はどこか「輝いている」と呼ぶにふさわしい色彩を帯びている。ただ、一つだけ違うのが、ブギーポップがその輝きの「頂点」において

  • 殺す

ということで、しかし、<これ>がなんなのかは作品のどこからも説明されない、という突き放された形においてあるのだろう...。