家族というPC

まあ、映画「ファースト・マン」を見た感想なのだが、正直、こんなにも分かりやすい

までを、アメリカのPCは

  • 家族物語

にしないと納得しないんだな、と考えると、すら恐しいまでの、このアメリカにおける「家族」強迫が強いんだな、というのはよく分かった。
そもそも、最近のアメリカのヒューマン・ドラマは、全て、家族、というか「父親」の話のような印象を受けるんだけれど、なんなんだろう。家族がいないと

  • 人格者

として扱われないのかな。家族について「悩み」がないと、人間として扱われないんですかね。
結局、なんでそうまでして、ニール・アームストロングは月面着陸を成功させようとしたのか、といったような、半分、生死のギャンブルを強いられるような毎日で、毎日、回りの仲間が次々と死んで行くような状況で、なぜ彼らが

  • 正常

な人格を保てたのか、といった窮極の何かを探したときに、やっぱり「家族」の何かの意味を、そこに見出さないと、どうしても説得的にならない、といった納得感の問題があるんだと思うんですよね。
月面で、ニールは幼くして、ガンで亡くなった実の娘と妻と彼と長男で一緒に外で遊んでいた姿がフラッシュバックするのだが、ニールはずっと、妻にも言えず、亡き娘のことを悩み続けていた。一人で悩み続けていた。だから、月面に思い出のネックレスを置いてくることが、その娘さんとの関係において、非常に重要な何かを象徴しているように描かれている。だから、地球に帰ってきて、妻と再会するときに、妻は彼の姿に、なんらかの個人的な(=家族的な)「やってやった」といった、達成感の表情を読み取ったときに、妻の表情が変わるわけですよね。
だから、この話は一見すると「家族」の物語なんだけれど、ニールが最初のガンで亡くなった娘の問題に、一人孤独に、ずっと悩み続けていた物語だと考えると、まあ、少し色彩が違って見えるのかもしれない。彼はその悩みを、家族に言えない。孤独にずっと、悩むしかなかった。そして、それになんの意味があるのか分からないけれど、月面着陸と、亡き娘をリンクさせることで、彼なりの納得の地平に至れたのだ、と...。