恋愛と資本主義

そもそも、今どき「哲学」という言葉を使って何かを言っている人って、なんのことを言っているんだろうと、素朴に思うわけだけれど、多くの場合、それは

のことを言っている、というのがあると思うわけです。とはいっても、それは直接にはそうは言わなくて、カントからヘーゲルへ。そして、ハイデガーへ、という形になっていて、ようするに、現象学であり、フッサールが関係している。
どういうことかというと、カントが近代科学、つまり、「認識論」を確立したとするなら、ヘーゲルはそのカントの「理念=理想」を、

  • 現実

つまり、「現実法則」の問題に、もう一回、還元してしまう。つまり、「保守主義」をヘーゲルはカントに対置した、ということになる。よく私たちは今でも、

  • でも、現実はこうだから

といった形で、自分が今感じている「リアリティ」と、理屈や理論との差異を強調する。これに、ヘーゲルの態度は対応している、と一般には解釈されている。だから私たちがよく、「自明」という表現を使うが、あまりにも「自分にとって」当たり前に思われることと、この「現実」は深く関係している。
こう考えると、ヘーゲルに対して、ハイデガーは不要なんじゃないのか、といった印象を受けるかもしれないが、ハイデガーの言ったことは、さらに「民族主義」に近くなる。彼の中心的な概念は

  • 本来性

といったようなものに関係していて、その「現実」の

  • 到来

は普段は伏在して、だれも意識していないのにも関わらず、ある時になると、そうであったものがそうであったのにも関わらず、あまりにも「自明」な形で現れるという形で、そのものの、なんらかの

  • 運命性

  • 歴史性

を言わば、その「民族」「土地」といった身近なものに、まとわりつかせていく。ようするに、ヘーゲルからハイデガーに行くと、その現実の自明性。そう感じられるということは、たんにそうなのではない。
(68年の学生運動のとき、多くの学生はもう少しで、世界中の全ての国は「社会主義革命」が、今にも起きると、本気で思っていた、と言われているが、同じことがナチスヒトラーにも言えた。つまり、すぐにでも、世界中がナチス占領下になる、と考えていた、というわけである。
そして、ハイデガーヒトラーに熱狂したように、その独裁が「速度」と共に、世界中を覆うと考えた。日本のエリートも、ナチスを恐れながら、他方で、そのヒトラーの独裁の「強力」さを認めざるをえなかった。言わば、吉田松陰が考えた、天皇による

  • 世界征服

の野望は、言ってみれば「ヒトラー」が達成する、と日本の上層部を考え始めていた。
この関係は、日本の一部知識人やエリートが、日本維新の会、特に、橋下徹に、同様の

  • 独裁者

の素質を見出し、やたらとのめり込んでいたこととも通じるところがある。彼ら知識人は、橋下を通して、ヒトラーを見て、独裁を見て、独裁の「速度」を見て、そして、そこに

を見ていた。ようするに、彼等がどんなに普段は、リベラルなことを言っているように見えても、その裏には「ハイデガー主義者」としての、独裁への欲望を隠さないわけである。)
そしてそれを、リチャード・ローティは、「芸術家=詩人」たちの、

  • 使命

という形で整理していく。ある言語集団をポストモダン的には永遠の合意形成の不可能性を宿命づけられているのにも関わらず、何が、その共同体が牽引していくのか? それを、ローティは数えるほどの「芸術家=詩人」つまり

  • エリート

だと考える。彼らが、この社会を俯瞰し直観的に、預言をしていくという形をとって、詩的な警句によって、社会を

  • 牽引

するという形で、まあ。自らの「ポストモダン=反合理主義」哲学を正当化したんだよねw
ようするに、今どきの、世の中的な意味で、「哲学」って言葉に、なんらかの色をつけて語りたがっている人たちの意図には、こういったローティ的な「エリート主義」の口パクの側面があるっていうことが、なぜか、あんまり意識されていないんだよね。
少し長々と書いちゃったけれど、ここでようするに言いたかったことは、むしろ最初の、カントからヘーゲルの、まあ、古典的なスコラ哲学的な課題なんだろうけれども

  • 理論に対しての「現実」の対置

というところが、あまり深く考えられていない、という点なんだろうと思うわけです。
病人ということで、少しまとまった時間がとれるようになって、過去に読んだ本を見返したり音楽を聞き返したりしていたわけであるが、やはり少し気になるのは、浜田省吾だろうか。

あの時 彼女は こう喘ぎ続ける
"愛してる...愛してる...もっと もっと..."
だけどゆうべ どこかの金持の男と 町を出て行った
浜田省吾「Money」)

まあ、ここに基本的な現代の社会構造がある、と言っているわけであろう。

  • 自由恋愛:不安定系
  • 恋愛=お金

つまり、ここには二つの矛盾がある。私たちの日常を動機づけているもの。つまり、自由恋愛は、統計力学における非均衡系となっていて、なんらかの均衡状態をもたない。もちろん、多くの場合は、そうはならないが、

  • 原理的

には、恋愛は「いつでも」始まりうる。なぜなら、それを「禁止」する原理が、原理的に不可能であるからで、それは、そもそも、この運動の最初が「自由恋愛」から始まっているからだ。人は自由恋愛を手放せない。これを貴重な内面の原理として大切にしながら、そうであるがゆえに、この関係の不安定さに悩まされる。本質的に、次の「愛」に移ることを避ける原理をもたない。
(このことは、私たちに「現実」という言葉が、いかに「不安定」であるのかを、あらためて気付かせてくれる。ヘーゲルはカントの理念に対して、「現実(法則)」という形で、カントを軽蔑的に整理したわけだが、ある女性を好きな、ある状態から、どのような形で、次の自由恋愛が「始まった」のか、また、いつの間にか、そのような「遷移」が発生したのか、あれほど、相手が好きなことは

  • 自明

であったものが、なぜ今は、「次の相手」がそうだと

  • 自分は言っているのか

を考えたとき、一つの「ヘーゲル批判」として読めないだろうか?)
もう一つは一つ目に関係していて、そもそも恋愛と、

  • お金=お金持ち

を区別できない、というところにある。相手を愛していると言うとき、それが何を意味しているのか? というのは、相手が一定レベルのお金持ちでなければ、そもそも、日常生活が成り立たないし、結婚や子どもは不可能だ。よって、一つ目で考察した、恋愛のドライブは、燃えあがる恋愛相手の「金銭状態」によって、状態遷移のパワーに大きな差異が発生する。
さて。ここで私は、浜省を「恋愛」と「お金=資本主義」の二つの概念で整理したわけだが、前者については今さら説明するまでもないであろうが、後者についてはどうかと思うかもしれない。それを象徴する曲が「J.BOY」である。

果てしなく続く 生存競争(サバイバルゲーム) 走り疲れ
家庭(いえ)も 仕事も投げ出し 逝った友人(あいつ)
Ho... そして おれは心の 空白 埋めようと 山のような仕事 抱えこんで凌いでる
浜田省吾「J.BOY」)

J.BOY 吹き飛ばせ その空虚(むなしさ)ってやつを
浜田省吾「J.BOY」)

「Money」で示したように、この社会を起動している「自由恋愛」は、「お金」に動機づけられている。そうである限り、この資本主義運動にコミットメントしていくことは避けられない。浜省は、たんに、

  • J.BOY

に単に、「空虚(むなしさ)」に耐えろ、と言うことしかできなかった、わけである。いや、そうやって、彼は<私たち>に向かって、叫んだんですね。
ところで、浜省の「Money」には、アンサーソングがある。それも彼の曲ではあるのだが、「LOVE HAS NO PRIDE」である。

彼女がメタルのドレスに身を固めて通りすぎる時の
あの冷たい視線は軽蔑かな?
"知りたかないよ"
女って自分のことを好きな男に
なんであんなに冷たい素振りが出来るんだろう?
浜田省吾「LOVE HAS NO PRIDE」)

"この街の男は女のことで悩みすぎてる"
浜田省吾「LOVE HAS NO PRIDE」)

"この街の女は男のことで悩みすぎてる"
浜田省吾「LOVE HAS NO PRIDE」)

そもそも、男が女を好きになるということと、その女のその男への「軽蔑」は深く関係している。男の恋愛の過程は、相手の女からの

  • 承認=軽蔑からの見直し

を得ていく過程と区別できない。また、女の方も、さんざん世間から、「恋愛=お金」の話をされているわけで、たんに、それだけしか考えていないと受け取られることと、極度に嫌うわけであろう。
ようするに、この関係を浜省は、端的に

  • 病的=悩みすぎ

と言ったわけである。まさに、マルクスが資本主義社会を、ある種の「宗教」という形で、

  • 幻想

として否定したように。
さて、こういった上記のような考察をした後で、浜省にとても印象深い曲がある。それが「花火」である。

暮らしには困らぬように稼ぎはすべて送った
今でも部屋には幼いままの子供達の写真
何故か すぐに帰るつもりで車を車庫から出して
アクセル踏み込んだ
浜田省吾「花火」)

これがオレの物語
君の心 失っても 隠せない
二人 河のほとりを歩く 人波に押されて
はぐれないように強く指と指からませて
浜田省吾「花火」)

ようするに、この曲は、バツイチの男が新しい彼女に、離婚した娘も息子も前の奥さんもいる、って打ち明ける場面なんだよね。そして、最後の、河で指を強くからませてるのは、相手がそれを受け入れたことを意味している。
ようするに、これが「自由恋愛」なのであって、こういった

  • 不安定

が常に、つきまとう。家族は全然「安定系」じゃない。常に「離婚」のリスクから逃げられない。
しかし、それを「含めて」、基本的には、浜省は肯定している、っていうところにポイントがあるんだろうなあ、と思うわけですがね...。