けものフレンズ2の大混乱

さて。巷では、アニメ「けものフレンズ」問題が、こと、二期の評価の段階においてまで続いている、という異例の事態が起きているわけであるが、ようするに、二期が

  • おもしろくない

と言っている人が、かなりの割合に至ってしまったことに対して、これはなんなんだ、なにが起こっているのだ、といった推測を強いられている段階だ、ということになるのだろう。
これを、一期の、たつみ監督が、二期は監督を行わないということがはっきりした時点で、多くの一期の信者が、二期への「感情的反発(いわゆる、dis)を継続していると受けとることは易しい。しかし、もしもそれだけで済まない何かがあるんじゃないのか、と考えたときに、この話は、少し、うさんくささを帯びてくる。
以前に、このブログでも、一期については比較的に、好意的な文章を書いた記憶があるが、今回、あらためて、二期を見てみて、

  • なんじゃこりゃ?

といった、かなりのカルチャーショックを受けた。
その辺りについては、以下のブログの方が、比較的によく、その特徴を捉えた分析をされている:

そしてもう一つ、本作は「ケモノ」に対する「ヒト」の影響を徹底的に描写する。
2話の「名付け」、3話の「調教」、5話の「支配」。それらはいずれも、本作の舞台においては前作と異なり、フレンズが自然体ではなくヒトの影響を受け、かつてヒトに管理されていた存在であることを露骨に示す。更に言えば、それらの影響が、物語にトラブルを生じさせるネガティブな影響として描写されている点に本作の特徴がある。2話、3話に顕著であるが、本作のフレンズはヒトがいなければ生まれない、ヒトの影響下にある人為的な存在であるが故に問題を引き起こす。ケモノの自然な習性をフレンズの特徴として肯定的に描いた前作とは、フレンズの存在自体が対照的であるといっていいだろう。
W175 N57 : 『けものフレンズ2』中間感想(6話まで) - livedoor Blog(ブログ)

そもそも、なぜ一期は、あれほど肯定的に受けとられたのか?
それは、アニメ「けものフレンズ」が最初に放映されて起きた「現象」に象徴されている。オフィスの疲れたサラリーマンが、「すっごーい」とか、

を話し始めたから、であろう。つまり、そこには、明らかに

  • 現代の人間社会への批判

があった。人間社会の、煩雑なまでに言語で、相手を丸め込むような、そういった陰湿な「人間」の

  • 大人

の「口先の饒舌さ」に対して、彼ら「フレンズ」たちの

  • 開放感

を絶対的に肯定したわけであろう。
言ってみれば、この感覚が、二期にはなくなっている。逆に、二期は、あまりにも無邪気に

  • 人間肯定

になってしまっている。つまり、人間が動物を「管理」すること

  • そのもの

を無邪気なまでに「肯定」する。
しかし、なぜそのような「奇跡」のような世界観が、一期には、ありえたのだろう?
それは、今期の、たつき監督のアニメ「ケムリクサ」が示しているように、これは、

  • 人間がいなくなった世界に、とり残された動物たちが、逆説的に「ユートピア」を自生的に実現していた

といった、つまりは、

  • 人間が滅びた

ところから始まった物語である、ということが作品の最初から、明確にメッセージとしてあったがゆえに、そこに「残された」ものたちの、ある種の「開放感」が登場するフレンズたちに、その「自由」性を強いていたのであろう。
あと「ユートピア」ってことでは、

  • フレンズ

の定義が、一期から二期で、曖昧になってしまっているのが残念だ。
二期を象徴して、評判の悪い回が、第9話の、イエイヌの話であったわけだが、ここで、主人公でヒトのキュルルは最終的に、イエイヌと遊具でさんざん遊んだ後、まるで、ほっぽりだすかのように、イエイヌをそこに置きっぱなしにして、次の旅先に向かってしまう。いや。フレンズなんだから、「のけもの」にしては、まずいんじゃないんですかね、とは誰が見ていても思っただろう。
なんで、こんな後味の悪い感じになってしまったのかと考えてみれば、ようするに、

  • フレンズ

ということは、それぞれが独立自尊の、勝手に生きられる「強さ」が前提にあったわけで、イエイヌの場合に、そこの解釈が定まってないんですね...。

後記:
私のこのブログでよく取り上げられる「ネタ」的に対応して書かせてもらうと、一期のフレンズは

  • 柄谷行人の言う「遊動民」。柳田国男の「山人」。非定住民の社会にあった「解放性」の倫理

を示していて、二期のフレンズは

  • 東浩紀の言う「オタク」「動物」といった管理社会で管理される人間の「大人」「人間肯定」

といった対応関係になっていて、まあ、二期の監督さんの「倫理」は、せいぜい、こういった現代の人間の「絶対肯定」が、あまりにも前提となった、まあ、「去勢」された後の人間、管理される人間の家畜としての「道徳」といったレベルの作品を作ることで、視聴者を逆に「教育」しているつもりだったんだろうね...。