戸山香澄の鬱耐性

(新しい年号が決まったわけだが、出典が万葉集の梅の歌を集めた序文であったということで、まあ、選考委員たちが一つの見識を示したのかもしれないとは思った。「令」というと、管理社会の強化を想起するわけであるが、「令月」における「令」は「良い」といった程度の意味で、ここは、あまり政治的な意味を読み込まない方が無難なのだろう。)
アニメ「バンドリ」の第2期が終わったわけであるが、正直、評価のあまりやりたくなるようなものではなかった。
そもそも、第1期は、さまざまな意味で、批判的な評価が多かった。それを踏まえての、第2期というのは、どうしても、なんらかの連続性を犠牲にしたものにならざるをえなかったことは自明なわけであろう。
第1期の特徴は、まあ、原作の小説がそうだったとも言えるが、

  • 鬱展開からの解決編

といった構成で、基本的に構成されていて、よくもわるくも、そのことが作品のフレームを決定していた。1話から3話くらいで鬱展開をやっておいて次の回でハッピーエンドに落とすというのは、物語をドラマチックに見せるという意味では、理解できなくはないが、あまりやりすぎると、その連続性において、なんだかよく分からなくなる側面がある。
特に、第1期の最後は、ライブハウスのスペースでのオーディションに失敗して、主人公の香澄の声が出なくなる、という、かなり「鬱病」の深刻な症状が発症してしまったケースとして受けとられたわけで、ところがそれが作品内では

  • 病気

として扱われる様子がないまま、「なぜか」香澄のその症状は「治って」しまって、スペースでのライブも無事行えて、ハッピーエンドとなる。
しかし、ね。
この時点で、視聴者はまったく着いて行けないわけです。「病気」ってそういうものなのか。簡単に治ったから、もう忘れていい、みたいなものなのか。そうじゃないでしょう。長年、症状の推移を見守らなければならないし、一次的に症状が収まったからといって、それが治ったと扱っていいといったものじゃない。
さて。
このような延長で、第2期を見ると、ずいぶんと様子が変わっていることが分かる。まず、1学年進んでいることはとにかく、ほとんどとりあげられることのなかった、他の同年代のバンド仲間が、急に、作品に現れた、ということだろう。もちろん、これらは、スマホゲーなどから入った人には、むしろ、こっちの方がメインなのだろうが、突然このような形で現れることには、一定の違和感を感じざるをえない。
もう一つは、第2期を通して、第1期で頻発していた

  • 鬱展開からの解決編

が基本的になくなっている、ということだ。もちろん、そう言うと、花園たえの幼馴染問題はどうなんだ、ということになるが、よく考えてみると、これが変なのである。まず、おたえは、一度もバンドを止める、と言っていない。回りが勝手に、彼女の「将来」を考えて、決断に時間をおいてみたら、と言っているに過ぎない。
どういうことなのか?
上記の私の第1期からの分析を基に考えさせてもらうと、そもそも、病気である香澄の精神は、おたえがバンドを止める、という展開に耐えられない、と思われる。すぐに、声が出なくなる、といった症状がはっきりするだろう。だとするなら、この

  • 鬱展開からの解決編

は、第2期以降は使えない、ということになるのではないだろうか(もちろん、このアニメ作品を離れて、このバンドの構成員を変えるといったことは、営業上想定できない、という自明のことを分かった上で書いているわけであるが)...。


後記:
いや、別にどうでもいいのだが、

令和の典拠は本当に万葉集だけなのか? 中国古典まで遡れる新元号の由来 - Togetter

うーん。まあ、最初から分かっていたことなんでしょうがw、「日本の古典から」って、どういう意味だったんでしょうね。その日本の古典は、漢籍の「パクリ」でできているんですが、その辺りに素人の選考委員を選んでいる意味と限界wがあったってこと?...。