不良たちの倫理

前期のアニメ「この音とまれ」は、まあ、和楽器の箏(こと)を主な楽器として使う箏曲部(そうきょくぶ)を中心にしたアニメであったわけであるが、ジャンプ系の漫画を原作としていて、コミックは20巻まででている。
まあ、そういう意味で、この作品自体は漫画の方が基本的に完成度も高く、アニメもそれを踏襲した内容であるわけで、今さら言いたいことはない。
ただ、原作を読んでいて、いわゆる「不良」たちの描き方に少し興味をもった。
主人公の久遠愛(くどおちか)は、中学2年まで、かなり問題の多い不良であったが、
中学3年のときに、祖父の源にひきとられ、彼の死を境に更正していく。ここで興味深いのは、更正していく彼の、その「正しさ」ではなく、むしろそれ以前の彼が、なぜそうであったのか、にあるように思われる。
彼の不良としての描かれ方は、いわば虚無的だということになるだろう。なににも積極的な関心が向かない。ただ、自分につっかかってくる喧嘩相手には、それに応じた戦いはする、といったような。なにに対しても、一切の自分からのコミットメントをしない。
これに対して、途中入部の上級生の、来栖妃呂(くるすひろ)は、まあ、作品の進行上、しょうがなかったのだろうが、少し中途半端な描かれ方になっている。入部当初は、部のやたらと仲良し的な雰囲気が気に入らず、それを壊してやろうと入部してきた、問題児という描かれ方であったが、一瞬で部の他のメンバーの心意気に感化されて、その色にそまってしまった。
対して、作品の後半にあらわれる、下級生の百谷名都(ももやなつ)は、更正前の久遠愛(くどおちか)の

  • ヤバさ

をもった少年として描かれている。彼が箏曲部に入部したのは、久遠愛(くどおちか)がなぜ変わったのかに興味をもったからに過ぎず、基本的に部活動に極端に興味を示さない。基本的に、週3回のバイトを行い、他のメンバーほど部室に入りびたりはしない。
一度も音楽を「楽しい」と思ったことはないと語り、基本的に自分から何かをやろうという気概がない。
しかし、彼は全国大会への出場を目指すかとの問いに目指すと答え、合宿への参加も合意しているわけで、その辺りの描き方は、少しデリケートにされている、ということなのだろう。
私がここで言いたかったのは、私たち大人がそもそも

  • 生きがい

とか

  • 生きる目的

とかを見つけられないでいるのに、なんでそれを子どもたちに押しつけることができるんだろう、と思ったということなわけで、こんなことは、哲学でも倫理学でも難しい難問なわけだから、そこで子どもたちが躊躇するのは当たり前なんじゃないか、と言いたかったわけである。
彼らのニヒリズムであり虚無感は、リアルなわけで、実際にそうなのだろう、と言うしかない。それに対して、いや、生きるということは、こんな喜びがあって、快楽があって、生きることはこれだけ充実したことなのだ、と胸を張って言える人がどれだけいるだろうか? そして、そう言えないんだったら、それは子どもだって同じなのではないか。
更正前の久遠愛(くどおちか)にしても、百谷名都(ももやなつ)にしても、彼らの

  • 虚無感

はそんなに変ではない。むしろ、当然なんじゃないか、と思うところもある。なにかに熱中できないことは、そんなに変なことじゃない。
しかし、だとすれば、どうすればいいのだろう? そのことに、この作品は答えてくれるのだろうか...。