なぜVARは人々を納得させないのか?

サッカーW杯で導入されたVAR(ビデオ・アシスタント・レフリー)制度は、今回のコパアメリカでも使われていたわけであるが、相変わらず見ている人にストレスを与えるものになっている。
一体、何が問題なのか?
分かりやすいのが、日本とウルグアイの予選の試合だろう。日本は前半の47分に、誰がどう見たってPKの、中島へのファールがありながら、そこではVARは適用されなかった。ところが、32分に、あまりにも微妙すぎる、というか、どう見たってファールじゃない日本のプレーがVARによってPKと判定されて、1点を失った。
ようするに、どういうことか? 審判の判定は時間をかければかけるほど、人数をかければかけるほど、正確になるわけではない。正確になると思う人は、あまりに性善説すぎる。
むしろ、主審による、一瞬の直感的な判断は、反射的に恣意的な意図を介在させることが難しいと考えるなら、こちらの方が

  • (正確ではないかもしれないが)フェアである

と考えることもできるわけだ。
なぜVARはだめなのか? 上記から自明であろう。どうしても、ビデオ・アシスタント・レフリーの恣意性がぬぐえないのだ。彼らは表に出てこない。そうであればあるだけ、どういった価値観をもっているのかが重要になる。球場の地元が選んだ人であればあるほど、余計に地元に有利な

  • 場合だけ

助言をするであろう。
そのことによって、せっかくビデオ判定を導入したにも関わらず、サッカーはちっとも「公平感」が増大しない。
それに対して、日本プロ野球のビデオ判定は、年を重ねるごとに、さまざまに変化はしてきたが、確実に視聴者に納得感を増大しているように思われる。
こちらの、チャレンジ制でありリクエスト制の特徴は、このビデオ判定の使用は

  • 相手チーム

にだけ与えられている、というところにある。そして、一回の試合で最大で2回まで許されており、このチャレンジが成功している限り、この回数は減らない、という仕組みとなっている。
よって、リクエストをする側は、この試合の流れを考えて、どこでこのリクエストをするかを戦略的に選ばなければならない、というところに公平性が強く現れる。つまり、ビデオ判定を行うかどうかを

  • 試合の戦略

の中に含めた、というところが、日本プロ野球のビデオ判定が成功した理由と考えられるだろう。
確かに両方とも同じく、その場面の判定においては、映像をテレビの画面や球場内のスクリーンで確認できる。それによって、人々は、この審判の判定は妥当かどうかを自分で考えることができる。そう考えるなら、相当の場合でない限り、審判はかなり厳密な判断を行わざるをえなくなるわけで、審判の主観を、かなりの割合で制限する。
ではなぜサッカーは、そうでありながら、見ている人にストレスを残すのか? それは、このVARでの

  • 判断を行うことを決める判断

が、完全に審判団の「恣意」性に任されているからだ。つまり、問題はむしろ

  • VARをやらない

という判断に方にこそ集中する。だからこそ、逆に、わざわざVARを行った場面が、どこまでの厳密であればあるほど

  • なんであの時はVARをやんなかったの?

というストレスが強くなる。そういう意味で、結局改善されていないんじゃないか、どころではなく、かえって

  • フェアじゃなくなっているんじゃないのか

といった感覚を強めてしまっているわけである。
対して、日本プロ野球のリクエスト制においては、

  • 審判が勝手にビデオ判定を使う

ということが許されていない。つまり、審判は一回決定した判断には、相当のことがない限り、その判定をくつがえすことができない。あくまでも、そのビデオ判定を

  • 使うか使わないか

は、相手チームの、この試合に勝つために選ばれる「戦略」の一つに含まれてしまっているから、このビデオ判定の結果に対して

  • リクエストを選択したチームの判断の可否

として、問題が還元されるから、どちらの結果になろうが、それぞれのチームの問題として、扱われることになり、審判の恣意性は著しく

  • 焦点

から離れることになる。そのことによって、たんにそのプレーの判定の精度の問題にとどまることなく、広い意味での、この試合全体におけるフェア感が高まっているわけである...。