前回の「君の名は。」の大ヒットがあった関係で、私は公開二日目では見れないんじゃないかと思っていたが、意外にも、それほど待つこともなく、しかも最前列でもなく、比較的いい席で見れた。おそらく、前回のヒットの関係で、公開劇場が大量に増えているのだと思う。
私は前回の「君の名は。」については、何回か、このブログにも書いていて、それは、基本的には批判的なものだった。それは、この映画が瀧という、
- 東京人のエリート青年
の視点から、田舎の「神社の娘」を、ロマンティックな「神秘的」な
- 処女性
として、「自分を待っていてくれる」相手として描かれていたことに対してであった。それは、都会人の田舎に対するロマンティシズムだったわけで、その延長で、あの3・11を想起させる光景を理解した。あの世界は言ってみれば、
- 都会のエリート少年に、3・11は<なかった>ものとして「安心」させる
麻酔作用のある映画だったと思っている。あれは私たちに、3・11は
- なかった
こととして、「みんな安心していいよ」と呼びかけるものとして、受けとめられた。
そしてこのことは、エリートたちの「役割」として、彼らの「無謬性」を大衆に欺瞞的に、だまくらかすことにおいて、大変便利な機器として作用したわけである。
3・11以降、福島は政府が唱導する
- 復興
という言葉によって、色塗られていく。エリートたちは、「福島の放射能汚染はたいしたことはない」と言い、なんとかして、福島の避難者への支援金を安くねぎろうと、レトリックを駆使した。福島の放射能が「大変」だという人を
- デマ
とレッテルをはり、彼らの善意を「悪」とレッテルを貼ることで悪罵の限りを尽した。そして、そのことは、結果として、東電の
- 復興
であり、政府の免罪符を用意することを、福島の人たちに忍従させることを強制した。
対して、今回の作品はどうだろう? 会場の大衆の概ね好評な反応に比べ、エリートたちは、すでに
- 嫌悪感
を示しているようだ。
『天気の子』観てきたけどこれは‥興行的には微妙に終わるだろうし、多方面、とくにフェミニスト批評方面からは批判されると思う。ただ、新海美術と田中キャラでお届けされるウシジマくんみたいな不穏さは評価したい。アニメフィルタとメタファを剥ぎ取ったら結構な現実が進行してるでこれ。
@mixingale 2019/07/18 19:33
あー、でもこれまでの新海作品と全然違うところがひとつある気がする。これまでの新海作品では
主人公たちがみんなやればよかったのにやらなかったことを後悔してばかりいたけど、天気の子の
主人公たちは後悔するのを避けようとして次から次へと行動をして、その結果どんどん泥沼にはま
っていく。
@mixingale 2019/07/18 19:56
「天気の子」。「君の名は。」がいかに震災の「賜物」であったか、よく分かる映画だった。「君の名は。」は美化されているとはいえ、都会と田舎の生活が描かれ、何よりも震災の記憶によって強く現実と結び付けられていたが、「天気の子」はどこにも繋がっていないので、どうでもいい話としか思えない。
@sacreconomie 2019/07/18 22:03
「君の名は。」はRADWIMPSのPVかと言われるほど、映像と音楽の相乗効果でエモーショナルなものになっていたが、「天気の子」はむしろ映像と音楽が合っていないのではと思った。クライマックスの合唱シーンは鳥肌が立ったが、映画館で大きな音で合唱を聞けば、内容に関わらずゾワっとするものなので。
@sacreconomie 2019/07/18 22:16
「君の名は。」は観る人に震災の記憶を喚起し、情念を動員したからこそ成功し、批判された。しかし、震災のミラクルは観客だけでなく、作り手にも働いていた。あれはあの時しか作れない。人は自然に影響を受けるものなので、それ自体は良くも悪くもない。ただ、ミラクルが解けてしまったのが今作だなと
@sacreconomie 2019/07/18 22:24
(作品の主題からは離れるだろうが、私もあの「RADWIMPSのPV」には本気で不快だった。そもそも私は、RADWIMPSが嫌いなのだが、そしてその理由は以前にこのブログで書いているので繰り返さないが、監督はまず、作品世界について推敲する前に、こういう「アイドルのPV路線」についてどうなのかを真剣に考えた方がいいんじゃないのか、と心配してみるわけである。)
今回の「天気の子」は、まるで、前回の「君の名は。」をまったくなぞるように、同じような展開が続く。そして、ヒロインの天野陽菜は、前回のヒロインと同じように
- 巫女(みこ)
という役割を与えられて、まさに「人身御供」として、人柱として、
- この世界を救う
役割が与えられる。
ただ、一つだけ、今回の作品は前回と違っている、ということに気付いた。それは、主人公の森嶋帆高は、その救済を
- 拒否
している、ということだ。おそらく、この「結末」は、前作の「君の名は。」でホルホルした、東京人のエリートを不快にするだろう。
私は作品の後半で、簡単に触れられる、東京が水に沈没している姿にショックを受けた。その姿が、まさに、3・11の福島の津波を想起させたからだ。
しかし、逆にこうも考えた。この「光景」は、どうしても描かれなければならなかったのではないか、と。
今回の作品は、東京がディストピアになる作品である。つまりこれは、
- エリート批判
の作品である。エリートが語る「俺たちに全てを任せとけばお前たちを幸せにしてやる」という「魔術」を
- 拒否
する話なのだ! 3・11の時、エリートはなんと言ったか。
と。そして、それを「証明」するために、御用学者たちは、福島から避難した家族に悪罵の限りを尽し、福島の放射能を心配する左翼を「デマ」呼ばわりして、彼らの人格攻撃を続けた。そしてその結果が、
という
- 安心という<魔術>
によって、「人間は自然を支配はできないけれど、<人間>を口先のレトリックという<魔術>によって支配できる」という
- エリート主義
が繰り広げられることになった。
さて。今回の作品はそういう意味で「成功」しているだろうか? 確かに、前回の作品とのアナロジーを意識させるものになったために、どうしても「説明的」な会話が多くなり、少し観念的な印象はまぬがれない点において、前回以上の熱狂を起こせないかもしれない。しかし、私は逆に、今回の作品が
- 主人公の少年を「田舎から都会に上京」してくる存在として描いた
ことを評価したい、と思っている。主人公が都会で過すその姿は、ほとんど私たち田舎出身者が都会に上京してくる姿と類似していて、むしろ、そこにこそ可能性を感じた。ここには、田舎出身者の都会に対する
- 視差
が多分につまっている。そして、そうすることによって、あえて3・11の問題を
- 東京の問題
として描いたことに、つまり、監督のその問題意識に共感をした、ということだけは書いてこう...。