刀使ノ巫女のストーリー

アニメ「刀使ノ巫女(とじのみこ)」は、テレビ放映が一年くらい前になるが、スマホゲーは今も配信が続いている。ストーリーは少し違うが、大きな流れが変わっているわけではない。
私は、このアニメについては、世界観がよくできていて、完成している、と思っている。特に重要なのは、少女が「刀(かたな)」を使うことを

  • 巫女(みこ)

と関連させたことで、これが

  • 少女

にしかできない仕事であり、「写し」という技によって、基本的に刀で切られても、大怪我にはならない、というところが、よく練られた設定だな、と考えている。
この関係は、どこか、ガルパンに似ている。ガルパンで、なぜ女子高生が戦車に乗るのかといえば、基本的に戦車の内部は特殊なコーティングがされている、という設定によって、一人として、大怪我になるキャラが登場しないからだ。
戦車という魅力的なアイテムに少女を関係させたことと、刀(かたな)という日本の精神的な背景をもつアイテムに、少女たちを「巫女」という関係において関わらせたことは、どちらにしても、とても成功しているように思われる。
(そういった意味では、今月、サイドストーリーの小説が発売しているが、そういった関係で刀使ノ巫女の世界観を継承した派生的な作品群がもっと多くでてきてもいいのではないか、と思っている。)
そういった観点で考えたとき、だとするなら、このテレビアニメ版のストーリーをどう考えたらいいのかが問われているように思われるわけである。
このアニメは確かにおもしろいのだが、そういった観点を抜きにして、一体、このストーリーは何を描きたかったのだろう? 何を目的にしていたのだろう?

可奈美:あの時。御前試合の決勝戦。私は姫和ちゃんがどう攻めてくるか、そればかり考えてた。姫和ちゃんのことで頭がいっぱいだった。でも、姫和ちゃんは私のことなんか見てなかったんだね。私、けっこう頭にきてたんだ。
姫和:頭に。
可奈美:うん。姫和ちゃんに無視されたこと。
(アニメ「刀使ノ巫女」第4話)

姫和:そして、 あまたいる刀使の中で唯一、奴を討ち滅ぼせる力をもっていたのが私の母だ。
可奈美:姫和ちゃんのお母さん。
姫和:だが完全には討ち滅ぼせなかった。奴は折神紫になりすまし生き延びた。刀使の力を使い果たした母は、年々目に見えて弱っていった。そして去年、私が見守る中、息をひきとった。その夜、私は誓った。母さんの命を奪って、それでもなお人の世に潜み続ける奴を私は討つ、と。母さんがやり残した務めを、私が果たす、と。
(アニメ「刀使ノ巫女」第4話)

上記、第4話が最初にこの二人が

  • 何を考えているのか?

が話される場面であり、非常に重要である。いわば、ここに、これからのあらゆる意味が胚胎している、と理解できる。
上記で重要なのは可奈美の態度である。私たちは、このストーリーが姫和の

  • 巫女としての人身御供(人柱)

にあることを示唆されているわけだが、ここで可奈美が言っていることは、それとは

  • まったく関係

のないことである。彼女は、たんに純粋に姫和に興味をもっている。そして、その対称性が保たれていないこと、今の段階で、姫和がそれほど可奈美に興味がないことに不満をもっている。しかし、それは、あくまでも

  • 剣術

の関係においてであって、ようするに純粋に「剣術を楽しむ」関係のことしか考えていない、ということなのだ。
さて。次に重要な場面はどこだろう? それは、舞草(もくさ)のアジトで折神朱音(おりがみあかね)が二十年前の真実を語る場面だ。

折神朱音:あの大災厄で紫が用いた方法。それは本家の中でも一部のもののみに伝えられてきた静めの儀。古い文献をてがかりにして、つきとめることができました。それは、柊篝(ひいらぎかがり)の命とひきかえにタギツヒメを隠世(かくりよ)にひきづりだすというものだったのです。
(アニメ「刀使ノ巫女」第8話)

折神朱音:ですが、篝さんは生還されています。それは、美奈都(みなと)さんがギリギリで篝さんを救ったからです。
可奈美:お母さんが。
(アニメ「刀使ノ巫女」第8話)

作品の大枠はこれで、出揃った。つまり、この作品はやはり、映画「天気の子」と共通するものとして、

  • 巫女の人身御供(人柱)

が主題であることが分かるであろう。しかし、このストーリーはそれを、はるか太古から連綿と続く

  • 宿命

として描くことを拒否しているわけである(そしてこの「拒否」する、という点において、映画「天気の子」と、この作品はモチーフを同じくしている)。
しかし、よく考えてみよう。この宿命は、はるか昔から繰り返されてきたパターンであって、そんなに簡単に変わってもらうわけにはいかないのだ。もしも変わるなら、なぜ変わるのか、それがなんらかの必然的な形で説明されなければならない。
この「宿命」に最初に立ち向かったのは、主人公の可奈美(かなみ)の母親である、藤原美奈都(ふじわらみなと)だ。つまり、どういうことか? この作品は、実は

  • 天才・美奈都(みなと)

のストーリーなのだ! 主人公の可奈美(かなみ)は、非常に母親の影響を受けた子どもとして描かれる。ということは、私たちは

  • 美奈都(みなと)とは何者だったのか?

に注目しなければならない。
さて。次に注目しなければならないのは、どの場面か? それは、第18話となる。

可奈美:あの。タキリヒメさん。私と剣の立ち合いしませんか?
姫和:可奈美! お前、こんなときまで何を。
タキリヒメ:なんのつもりだ。千鳥よ。
可奈美:あなたは一度も私たちを見てくれてない。それで、お互い歩み寄ることもできません。それで、その、お互いによく見れば人間のことも、荒魂(あらだま)のことも、よく知り合えるんじゃないかな、って。
姫和:それには正面から、お刀での立ち会いがてっとり早い、と。
可奈美:うん...。
(アニメ「刀使ノ巫女」第18話)

このストーリーは、結局、何が

  • 差分

なのか、が問われている。篝や、姫和の前には、何回もの、刀使とノロとの歴史があり、そのたびに巫女としての刀使が

  • 人身御供(人柱)

となってきた。しかし、それに対して

  • アンチテーゼ

を突きつけたのが、藤原美奈都(ふじわらみなと)だった。天才・美奈都は、たんにそれを受けいれられなかったのだ。そして、篝を救うと共に、二人は言わば、現世に生きる身と、隠世に生きる二つの存在となりながら、次の世代である、可奈美と姫和に、二人の決着を託すことになる。
しかし、ここで篝を救うとは、一体、どういうことを意味するのかを考えなければならない。
なぜ今まで、刀使とノロの「人柱」の歴史は続いたのか? それは、この関係がある種の必然だったから、と言わざるをえない。だとするなら、この関係が変わるのは、いったい、何をトリガーにしてなのか、が説明されなければならない。
一体、何がどうなれば、この関係は変わるのか? この難問に取り組んだのが、可奈美だった。上記の引用にあるように、可奈美は神との

  • 相互理解

を提案する。お互いが、お互いを「知らない」のだから、知り会うところから始めなければならない、と。そして、その

  • 手段

は、どこまでも

  • 藤原美奈都(ふじわらみなと)

の「楽天的な性格」を伺わせるものであった。美奈都(みなと)は明るい性格だった。そして、自分たちが刀使であることの意味は、お互い、刀を交えること、剣術をその技術そのものとして「楽しむ」ことに集約されていた。

美奈都:おーい。あんたもこっち来たら。あんたもあたしたちと一緒でしょ。消えちゃう前に一試合しない? あたしに負けっぱなしじゃ、くやしいでしょ?
タキリヒメ:いいだろう。残された時間がどれほどか分からぬが。
(アニメ「刀使ノ巫女」最終24話)

さて。何が変わったのか? それは、

  • タキリヒメと人間の和解

であり、ノロと人間の和解が、可奈美と姫和が現世に帰ることによって

  • 人身御供(人柱)ではなくなる

ということを可能にする、それ以前の過去の因縁的な結果を変えている、ということでは、それは、美奈都(みなと)がその可能性を示し、可奈美がそれを実現した、その美奈都が示した微かな兆候を具体的ななにかとして可奈美が具現化し、花開かせた、といった関係となっているのだろう...。