勧善懲悪と是是非非

ここのところ、日韓の対立が激化している。徴用工問題から始まって、日本による輸出管理政策を韓国が「経済戦争」と解釈したことから、政治的な言説の上では、ほとんど、全面戦争の様相を示している。
この問題の解決が、そもそもどういった形でありうるのかは、難しい議論に思われるわけだが、以前から私が違和感をおぼえていた議論があって、その典型が以下だ。

朝鮮学校卒業生です。反日は誓ってありません。歴史教育では、「日本帝国主義時代」はたくさん学びますが、その略だって「日帝」で「日本」とは言わないんですよー。国語、日本語(古文だってやる)、英語、歴史も複数に分かれ、とにかく忙しかった思い出…
@zainichi_desu 2019/07/03 18:56

@nahokohishiyama @yumidesu_4649 「反日」教育とかいうけれども、韓国には「日帝」という言葉があって、十把一絡げの「日本」ではなく、日本帝国主義を批判している。戦後日本と侵略戦争をした大日本帝国日本帝国主義を区別している。
@shishinosenzi 2019/07/28 19:05

「反安倍」≒「反日帝」ではあるが、「反安倍」≠「反日」。
@bob_hoffman_jp 2019/07/29 12:37

こういった言い方は、韓国や中国における、歴史教育において使われてきた表現なのだろうが、しかし、それを日本自身に対して日本人自身が適用しようとすると、正直違和感がある。
もちろん、戦前の大日本帝国には、さまざまな問題があったし、そういった意味では、そのことだけをとりあげれば、今の安倍政権でさえ認めている。
しかし、そうであることと

は、あまりに単純化しすぎている。もしもこれが正しいのであれば、韓国の今の日帝残滓の排除は「正しい」ということになるであろう。
いろいろと問題があったことと、それを「悪」と認識することは、本質的に違う。もっとはっきり言えば

  • 勧善懲悪

  • 是是非非

は違う、ということだ。
こういうことを言うと、「ナチスは悪じゃない、と言うのか。だったら、日帝ナチスとなにが違うんだ」とか、極論を言われるのだろうけれど、そういう議論を続けてはならない、ということなのだ。
いろいろ悪いことがあったとするなら、それを一つ一つ、具体的に指摘すべきだ。そうでなければ、

  • どうすればよかったのか?

の議論になっていかない。

日帝が植民地化したのは南洋諸島だけではない。北海道も植民地にした。先住民を退け虐げ、本州や朝鮮半島・中国から連行してきた人々に過酷な労働をさせて“開拓”した。我々は日帝の植民地支配と戦争加害の歴史の上に居座っていることを自覚しなければならない。まずは、そこから。
@shishinosenzi 2019/07/29 15:52

当たり前だが、ここで「日本」というのが一体何を言っているのかは、少しも自明ではない。上記では、沖縄と北海道を例にしているが、そもそもこの地域は、維新政府によって

  • 占領

されている。そして、この延長に、台湾、朝鮮半島があり、満州を中心とした中国侵略がある。日本の加害性と言うとき、半分は正しいが、半分は違和感があって、ようするに、ほとんどの多くの日本人も同じように、日本政府に奴隷のように赤紙で戦場に送られたし、そしてそれを拒否することは難しかった。

日帝の加害の歴史と向き合い、日帝的なものを断ち切ること〜たとえば天皇制の廃止〜そういった
ことが、民主主義的な近代国家としてやり直すために最低限の条件だった。それをしないでウワベ
だけ取り繕って、日米安保と経済発展にだけ注力してきた結果が今のこのザマ。
@R88088595 2019 07/29 16:14

こういった議論は、可能性としてありうるだろう。日本は確かに、敗戦後に、天皇制を廃止すべきだったのかもしれない。
しかし、事実として、そうならなかった。
そういったとき、「やっぱり今からでも天皇制を廃止しよう」という議論はありうるとしても、じゃあ、そうやったとして、一体何が変わるのか、ということは少しも自明ではないのだ。
いや。韓国の人たちに言わせれば、それが「正義」なんだから、こういった

  • 遅れた

人権後退国家はさっさと天皇制を廃止して

  • 韓国のような進んだ国家

にならなければならない、と

  • 教育

しているつもりなのだろうが、こういった態度を私たちは「進歩派」と呼んできたわけだ。
進歩派は、とにかく「正しい」んだから、無知な大衆は、いちいち文句を言わずに、だまってエリートの言うことに従えっていうのが、戦後のエリート主義であったわけで、韓国はそういう意味で、日本を

  • 道徳的に<指導>

する立場を自認してきたわけであろう。エリートである韓国が、遅れた野蛮国の日本を「善導」してやる、と。
上記までの議論を一言でまとめるならば

  • 日帝の東アジア諸国への「加害責任」には一定の責任があるとしても、ほとんど全ての日本人も同じように「日帝」の圧政に苦しめられていた

ということは言えるわけで、もしも日本人が日本人同士で自己批判をするなら、この「原因」を考えなければ、なにも言っていないことと変わらないのだ。
例えば、従軍慰安婦の問題が一つのセンセーショナルなとりあげ方をされるのが、彼女たちが

  • 少女

だったことなわけであろう。つまり、非常に年齢の低い女性が多かった。では、それはなぜなのか、ということになる。

日本兵への性病蔓延を防ぐために、性経験のない少女を集めたからですよ。これはちゃんと日本側
の記録にも残っているのですよ。 ( ˘ω˘ )

慰安婦少女像だが、表現の自由なんだから置けば良いとおもうが、、、なんで少女なの?慰安婦
された方が処女、無垢、清純、若い女の子などのイメージにあてはまらない人もいただろうに、像
にしないの?とか考えてしまうと、少女像が韓国側の政治利用に見えてしまい、あまり気持ちが乗
らない
@suka_t 2019/08/02 19:11

@booskanoriri 2019/08/04 12:46

日本の当時のイデオローグに、平泉澄がいる。彼は、

  • 神社の神主

なわけで、彼の極右思想には、神道(しんとう)の延長からの思想的敷衍がある。そう言った場合に、日本の左翼による日帝批判にしても、韓国や中国のそれにしても、ほとんどこの

の側面からの批判が弱い。ナチスヒトラーからのアナロジーで、天皇ヒトラーと同じ「指導者」責任の問題を指摘する議論はあるが、天皇はそもそも、神道における「神」の位置付け

  • 現人神(あらひとがみ)

の問題を離れては考えられない。
そうした場合に、まず、神道(しんとう)が「農民信仰」の延長で考察されなければ、どうしようもないのではないか。アマテラスをもちだすまでもなく、

  • 農業の豊作

を祈願する農民信仰には必ず

  • 人身御供(=人柱)

の問題が避けられない。飢饉にならないように天に祈る行為は、その「祈り」は叶えられないとしても、だからといって、この祈りが止められることはない。この必然的な帰結として

  • 人身御供(=人柱)

が行われる。神が何を求めているのかは、「人間が何を求めているか」に相等したものとして解釈される。そして、その典型が

  • 若い(=処女の)女性

を「供物(くもつ)」として捧げる行為だ。どんなに必死に祈っても、どんなにすごい食料を神に捧げても、その祈りが叶えられないのは

  • 供物が<まだ足りない>

から、という解釈がされ、その究極的な供物として、

  • 若い(=処女の)女性

が選ばれる。神とは人間の似姿である。神が求めるものが何か、と考えるとき、それは必然的に

  • 人間が求めるものが何か

に究極的にたどり着く。なぜなら、私たちにはそれしか考えられないからだ。
もう一度、考えてみてほしい。
明治から戦中までの、大日本帝国の軍隊とは

なのだ! つまり、あれは

  • 天皇の近衛兵(このえへい)

なのであって、ようするに、これらは

  • 天皇が自ら「選んで」作られた存在

なのであって、そうである限り、その軍隊が行う行為は全て

として解釈されなければならない。天皇が「やれ」と言ったから、彼らは行ったのであって、存在自体が天皇と区別できないのだ。
この「天皇の軍隊」が、従軍慰安婦として

  • 若い(=処女の)女性

を「使う」とき、それはほとんど

  • 神への供物(くもつ)

であり、

  • 人身御供(=人柱)

とほとんど変わらない「位置付け」として理解されていたし、いや。それだけじゃない。その

  • 天皇の軍隊=神の軍隊

自体も、

  • 神への供物(くもつ)

であり、

  • 人身御供(=人柱)

と変わらない位置付けなのだ。実際に、徴兵される男性はほとんど「若い」少年であり、その「純粋」な天皇のために命を捧げる自殺行為がその

  • 純粋さ

ゆえに、より「美しく」「尊い」ものとして扱われる(この構造は、三島由紀夫が中世のキリスト教における「子ども十字軍」と比較したことは、まったく正しい)。
私が「いらだつ」のは、そもそも、こういった

  • 人身御供(=人柱)

にような、農村信仰的な属性を一方で保持しながら、たんに「天皇」さえ、天皇制さえ廃止すれば<すべてが解決される>とか、そういった「啓蒙」的な進歩派の言説の安易さなわけで、いや、そもそも私たちが今も決して捨てられずにいる

  • 人身御供(=人柱)的な振舞い(つまり、エリート主義)

であり、属性をそのままにして、一体何が解決されるのかっていうのを考えずにいられないわけであって、ある意味で、日本における、さまざまなサブカルチャーがずっととりくんでいるのもこの問題なのだろう、と思わずにはいられないわけである...。