メタは本当にメタなのか?

今回の愛知トリエンナーレでの、「表現の不自由展」の開催中止の経緯は私には少し不可解に思えた。というのは、明らかに

  • 展示した内容

から、こういった物議をかもす展開になることは分かりきっていたはずなのに、なぜ津田大介の会見はあのように、まるで

  • 他人事

を語るように、当事者意識のない内容になってしまったのか?
私が最初に違和感を覚えたのは、彼らが語る「メタ」という言葉だ。ようするに、これは

  • メタ美術展

なんだ、と言う。つまり

  • 過去にあった「表現の不自由」に関係する美術作品を展示する

という「意図」のもと、このような作品のラインナップになった、と言う。しかし、である。この一覧からは明らかに、多くのそういった問題作が抜けてしまっている。なんらかの

  • 政治的意図

のもとに、作品が選別されているんじゃないのか、と思われることは当然だったであろう。そして、それは間違いなく

  • 選考した当事者たち

は意識しているわけである。例えば、なぜ会田誠の性的な問題作がここでは展示されなかったのか? それについては、一切の説明はない。そして、その経緯を会田さん自身が以下のように語っている。

「表現の不自由展・その後」にどの作家を選ぶかは、基本的にその実行委員会であるアライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三の5名が決め、津田大介さんに最終決定権はなかったようです。僕の名もいっとき挙がってたようですが。美術展内美術展のややこしさ。
ごあいさつ | 表現の不自由展・その後
@makotoaida 2019/08/02 08:13

ようするに、どういうことか? おそらく、津田はこの企画を

  • メタ

において、この美術展で開催することは認識していても、具体的に「何」が結果として展示されることになって、それがどういう文脈においてなされるのか、ということを、まったくイメージできていなかったのではないか。おそらく、彼は上記の引用にもあるように、作品の選定には基本的には関わっていないのだ。あくまで

  • メタ

のレベルでこの企画を推進することの「正しさ」しか考えていなかった。
この行為は明らかに、過去のクレーマーに対する

  • 挑発行為

なわけであろう。結果として、この企画は京アニの事件を彷彿とさせる、ガソリンによるテロを示唆されることによって、中止を決定しているわけであるが、しかし、こういったクレームがくる可能性は最初から、それぞれの作品の過去の文脈を考えれば、いくらでも想定できたわけではないか。
(まあ、当事者の言い分としては、明らかに「京アニ」以前と以後の違いが色濃くでているのだろう。企画がでてきたときは、京アニ以前だったが、こうやって京アニ以後に開催された結果に直面して、ぞっとしている、と。)
明らかに違和感があるのは、だとするなら、まず、この美術展は基本的に、子どもが多く来るような場所で行うことは、リスクを考えて難しいという判断になるわけだろう。つまり、そうでなければ、

  • 覚悟

が疑わしいわけである。
こうやって考えると、こういった「炎上」案件には既視感がある。東浩紀先生のゲンロンという雑誌で行われた、ゲーム史の年表に対して、多くの当事者からクレームがさっとうしたとき、彼らは最後まで「言論の自由」しか、その行為を正当化する理由を語ることができなかった。なにを語ろうと、なにを語った雑誌を作ろうと、それは言論の自由だ、と彼らは「いいわけ」をしたわけであるが、結果として彼らは、その客観的な公平性を最初から放棄した、かなり偏向した歴史歪曲を

  • なぜ

行ったのか、といった彼らの「メタ」の意図が問題視されていくようになった。
ある作品がなぜ、「表現の不自由」という事案になっていったのかには、それぞれに、文脈がある。そして、その文脈において、その作品の展示中止に追い込んだ側、追い込まされた側は、結果としてその事態が収束されていく過程において、なんらかの「納得」をして、先に進んでいる。
対して、今回の「メタ」は当たり前だが、多くの人にそれを

  • メタ

とは受け取られないのだw 当たり前なわけで、どうやったって、その「意図」が疑われる。過去に、撤去に追い込んだ側は、それを

  • 挑発

だと受けとる。過去に「分かった」と言って、いったんひっこめたものを、なんの説明もなく、また繰り返し始められたら、ケンカを売ってきた、と理解するだろう。そして、そこにはすでに、なにが

  • メタ

で、なにがそうでないのか、といった

  • 発信者側の意図

なんて、だれも考えないし、考える必要もない。それは、そもそもの最初から、ここで言っている「メタ」が疑わしい、ということに関係していることを当事者自身が理解していないからなのだ...。
(このことは、津田の明らかな、この事態への「他人事」感に象徴されている。確信犯で、本気で、具体的な作品にコミットメントしていないのだから、明らかに、これから起きることを想像すらできていない、といったような、企業の中間管理職の「あるある話」みたいになっているわけだ。)