めっためたにメタ

今回の、あいちトリエンナーレでの「表現の不自由展」については、やはり、さまざまな点で違和感がある。
まず、なぜこれらの作品が展示作品に選ばれたのか、についてだ。

作品選択の規準は「過去の展示不許可」であって、トリアンナーレが「いい作品」と推したわけではない。津田さんは個々の作品に行政が賛意を示しているのではないとも明かした。
抗議殺到し展示中止、悪しき前例「難しい社会に進んだ」:朝日新聞デジタル

「展覧会のコンセプトが、2015年以降に美術館で撤去された作品だから、このチョイスは仕方がない」という指摘をいただきましたが、これはちょっと自分としては反対。なんでかっていうと、「美術館撤去ネタから収集」は手段レイヤの話であって、目的レイヤ(表現の自由を指摘する、議論する)ではないからです。
「表現の不自由展」の不自由さについて|深津 貴之 (fladdict)|note

ここでは驚くべきことが語られている。この美術展では、展示側は自分たちが

  • いい

と考えている作品を選んだわけではない、と言っているのだ。つまり、なんらかの

に当てはまるかそうでないか、にしか関心を寄せていなかった、と。

  • 2015年以降に五美大展で展示拒否された作品

にあてはまるか、あてはまらないか、を絶対的な条件とされた、と。これって何w
津田は、これらの作品は自分たちが「いい作品として推した」ものではない、と言う。じゃあ、これらはなんなのだろう? なぜ人々は、これを見させられているのだろう?

文化庁の2019年度「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化資源活用推進事業)」採択一覧では、補助事業者名が「愛知県」になっています。
あいちトリエンナーレはあいちトリエンナーレ実行委員会が主催していますが、問い合わせ先は「愛知県県民文化局部文化部文化芸術課トリエンナーレ推進室内」となっていて、場所も愛知芸術文化センター内。行政の組織という前提があります。
電話で応対している方も基本的には愛知県の職員の方、公務員です。
要するに、「表現の不自由展」は行政の努力によってはじめて展示可能になっているものであって、行政が自分らで運営している事業についてどの作品を展示するかを決めるのは法令に抵触しない限りは基本的に裁量の範囲内なのです。
ある作品を採用しなかったからといってもそれは検閲ではないわけです。
公立美術館は公の施設という場所を提供しているのであって、その場所以外で表現物を展示することまで妨げているわけではないのです。作品展示は、その場所での「集会」が意味を持つような場合とは異なります。
津田大介「行政が口を出すのは検閲に当たる」は的外れ:トリエンナーレ表現の不自由展 - 事実を整える

津田は行政の口出しが「検閲」だ、と言っている。しかし、おかしくないか? これらの作品は、そもそも、すでに「公開」されているものだ。つまり、ある意味では、だれもが知っている作品だ。
事実、ネット上では、これらの作品の写真や、より細かい解説がたっぷり流出している。この状態の、どこか「検閲」なのだろう?
早い話が、津田は彼の「お友達」の東浩紀先生のゲンロンとかいう穴蔵で、好きなだけ、これらの作品を展示すればいいではないか。もしも、それがやりたいのなら。
公共施設が、そこに何を置くかは、その公共施設の関係者に基本的な裁量権があるのは、当たり前ではないか。この場合、どういうレトリックで「検閲」になるのだろう?
そうやって考えてくると、もっと根本的なところで、今回のイベントがなんなのかが問われているように思われる。自分たちが「よい」とも思っていないものを、公共施設に

  • 無理矢理置け

と言い続けたこの運動は、一体なにがやりたかったのだろう...。

後記:
今回の事件の特徴は、そもそも、(少なくとも当事者たちの中には)一人も

  • この作品をあいちトリエンナーレに展示すべきだ(そうする価値があるから、それを意志す)

と言っている人がいない、というところにある。
上記から分かるように、津田も県知事も

  • この作品を少しも「いい」と思っていない(展示して人に見てもらう価値があると思っていない)

と自白しているわけである。
さて。
どうして、そんなものが展示される(され続ける)と思えるんだろうねw だって、だれも展示すべきだという主張の人がいないんだから、だとするなら、「展示を止めましょう」という意見にだって、誰も反対をしないよねw
これが「メタ」なんだよねw
ネット上の進歩派左翼は、今回の件に

  • 怒って

いるけどさ。別に、あんたたちの家の一室を美術館と称して、それらの作品を展示してもいいんだよ。そんなに怒るなら、それをやればいいんじゃないのかな。
ネットを見ていて、一番多い意見は、昭和天皇の写真を焼くパフォーマンスに対して

  • あんたの親にそれをされたら嫌じゃないのか?

っていう意見だった印象がある。それに対して、進歩派左翼は

  • 天皇の全ての写真を焼かないのは不可能だ

みたいなことを言っていたけど、まさに、戦前の御真影はそれをやっていたわけで、その延長から来た主張なんだろうけど、でも、焼く

  • パフォーマンス(=美術作品)

と、雑誌の1ページを、まとめて燃える日に出したら、燃えちゃったっていうのは、まったく次元の違う話だよねw
ようするにこれは、名誉毀損罪なんじゃないのか、っていうのが争点なんだろう。それは、美術作品かどうかなんて、関係ない。筒井康隆は芸術聖域論を主張したけど(津田も東浩紀先生も、筒井のエピゴーネンなんだよねw)、単純にこの行為が、名誉毀損にあたるのかどうかを、裁判所で争えばいいんだないんですかね。そして、その判例をもって、それからの法律判断を決定すればいい。表現の不自由なんて言ってないで、それが「おかしい」と思うなら、裁判所に訴えて、どんどん判例を作ってくれよ。むしろ、そういう活動をしないから、曖昧なグレーの領域をタブー化して、それが右翼の街宣車のような脅迫行為を許す隙間を与えてしまっているんじゃないのか...。