映画「アルキメデスの大戦」について

まあ、映画館は上映開始されたか日々も経っていることもあり、空いていた。普通に考えれば、こんな戦争物にそんなに観客が入らないのは当たり前なんだろうが。
以下は、いろいろとネタバレになる話もあるだろうから、あまり、みていない人に読んでもらいたくない気持ちもあるが、ここはそういった注意はあまりしないで書いておこうと思う。
とは言っても、私は原作の漫画は読んでいないし、単純にこの映画単体で何が言えるのかを考えるわけだが、パンフレットを見ると、この漫画の原作者が、この映画は基本的には、原作を踏襲されている、と言っているのだから、それは可能なのだろう、と思っている。
映画は、戦前のアメリカに宣戦布告をする前の、海軍における、ある「対立」の描写から始まる。平山忠道を中心とした戦艦大和の建設賛成派(大艦巨砲主義)と、山本五十六を中心とした反対派(航空主兵主義)。最初は、主人公の東京帝国大学の数学科の天才、櫂直は反対派の大和建設を止めさせたい、という「嫌戦」的な態度に共感をして協力を始めるが、話が進むにつれて、この

  • 関係

は反転していくことになる。むしろ、山本五十六

  • 条件付き「好戦」派

であることが明らかになっていく。山本は、基本的には、日米開戦に反対の立場を自称している。しかし、他方において、

  • (大衆のポピュリズムに強いられた場合など)どうしても開戦を避けられなくなった

場合については、彼なりの案で、開戦の「スタート」を

  • 成功

させる方法を「熱く」語る。ここで重要なのは、この山本の「好戦」論が

  • 条件付き

となっていることだ。「もしも」そうなったら、

  • しょうがない

と言っているわけで、ようするに彼は戦争に「反対」していない。
対して、戦艦大和の建設を推進する平山は、最初はその「内面」は描かれることなく、単なる「好戦」的な存在として描かれていたが、終盤でその

  • 意図

が、主人公の櫂との二人の対話の場面で描かれることになるわけだが、ここについて、パンフレットで、この映画監督は以下のように説明している。

大和はオープニングで沈むわけですから観客の方は大和ができることは知っている。現実世界でも、できているわけですよ。だけど、これは櫂が大和を作らせないようにする話だから、櫂を説得して、大和を作る側に転ばせないといけなかった。そこが難しかったですね。ただ単に櫂が負ける話ではつまらないし、櫂自身が複雑な思いを抱えながら大和は作るべきだという人に変わるようにしたかったんです。いろんな手管を使っていろいろ書くんですが、なかなかOKしてくれないんですよ、俺の中の櫂が。「これじゃあ櫂は納得しないよな」と思い直し、違う方法を書くんですが、いくら書いても櫂が納得してくれなくて、脚本で唯一と言っていいほど悩んだ箇所です。

ちょっとよく分からないが、ここは、おそらく原作と違うストーリーになっている、と言いたいのだろう。実際に、この映画を見ていて、この場面の主張というか、レトリックというか、まあ、説得の内容がかなり

  • 観念的

な印象を受けたわけで、全体のバランスを考えると、少し気負いすぎた印象も受けたわけで、正直、私の印象は悪かった。
ここで平山が言ったことは、言わば、山本の

を彼は考えていた、ということで、平山に言わせれば、日本がアメリカとの「戦争」を行うことになるのは「必然」であり、その結果として、圧倒的な国力に差のある日本が<負ける>ことの「必然」と考えているわけで、では、なぜそんな負けると分かっている戦争に突入していかざるをえないのかは、全ては

だ、という解釈がされている。つまり、「大衆」が戦争を求めている。大衆は、日露戦争の「勝利」で

  • 戦利品

が手に入るということが分かって、それに「味を占めた」ことによって、もはや「侵略戦争の蜜の味」を手放せなくなっていた、と言うわけである。
よって、平山の主張は、最初から

  • 敗戦の<後>の日本

のことしか考えていない。どうやって、敗戦の後の日本が「今よりも進歩することを可能にするのか」を、今どのように、自分たちが振る舞うことで、そういった敗戦後の日本を残せるのか、を考察する。
そこから平山が導き出した答えは「戦艦大和という、あまりにもの<日本の象徴>」が

  • あまりにもなまでに、ボロボロにコテンパンにやられることで、日本人の「奢り」や「プライド」を徹底的に地の底に落とす

ことによって、人々に「好戦的な日本人の<幻想>」を破壊することによって、であった。それによって、日本人を

  • 啓蒙

することが、なによりも戦後の日本人に「愚かな間違い」を、滑稽なまでに自覚させる、まさに、

  • 死をもって証明する

方法だと考えた。こういった主張は、確かに、戦前の海軍にはあったようで、実際、多くの国民は、この戦争に負けることは、早いうちから分かっていた。つまり、じゃあなんで、負けると分かっているのに戦うのか、<生きる>のかが問われた。そこで見出されたのが

  • 敗戦後の日本にとって、今私たちが戦っていることの<意味>はなんなのか?

であった。彼らはそれを、黙示録的な人類の「運命」のようなものとして解釈した。私たちは今、アメリカとの戦争で負け、多くの国民が死んでいく。もうその運命は変えられない。だとするなら、こうして私たちが、ここで死んでいくことに、なにか意味があるのか。ここから、後世になにかの

  • メッセージ

を残すことは可能なのか? 私たちの死が、もしも「後世の人たちが築く未来の社会」のために、なにかの役に立つような意味があるのなら、それはなんなのか、が問われたわけである。
戦艦大和は「建設」されなければならない。そして、それは、あまりにも「完璧」であり、あまりにも「美しい」がゆえに、すべての日本人がそこに<自分たちの象徴>を見出さずにはいられないがゆえに、だからこそ

  • 徹底的なまでに、みじめで、悲惨な形で<沈没>させなければならない

と考えた。言わば、そうすることによって、国民がもっている国家への<幻想>をぶち壊すことが、唯一の

  • 未来への可能性

として語られた。
こうやって見てくると、この作品は非常に

を意識していることが分かるだろう。原発とは完全に

だ! あまりにも「大きく(大きなエネルギーを生み出し)」「美しい」がゆえに、原発は<沈没>する。しかし、誰もその建設を「止め」られないのだ。
こうして見てくると、平山はある種の「嫌戦」であることが分かる。そして、その主張は「ねじれ」ているが、彼らには、こういった方向においてしか、戦争を

  • 終わらせる

そして、「戦争が終わった」後に「まっとう」な日本に、その未来を託す方向が見出せなかった、という構造になっている。そうすると、エリート主義者は

  • やっぱり「ポピュリズム」は危険だ、政治はエリートに任せるべきだ(エリート独裁にすべきだ)

という主張をしているように受け取るかもしれない。しかし、事実は逆と考えるべきだ。平山はそもそも、

  • 造船技師

であり、軍艦の「設計」のスペシャリストとして描かれているわけで、彼はただの<専門家>なのだ! 大事なのは、その彼が、

  • この国の<大局>

を考えるときに、確実に日本はアメリカに負ける、という分析になり、その「自覚」のもとに

  • 自発的

に自分に何ができるかを、その立場の中で考えている、という意味では、いい意味での

  • 民主主義

的な、大衆の「政治参加」の一例となっているわけである。
さて。ここで、私の考えを書かねばならないだろう。私は上記のようなことを考える人は、きっといただろうと思う。それはそうである。アメリカとの戦力差を考えれば、日本がこの戦争に負けることは明らかである。そうである限り、その

  • 負けた後の日本

にとって、ここで今、自分たちが「死んで」いくことに、一体なんの意味があるのかを、考えないではいられない。そこには、

  • 戦後のために、何を残すことができるのか

であり、ある種の哲学的な考察であった。
しかし、他方において、私はこういった考えを疑っている側面もある。それは、平泉澄が典型なわけで、多くの

  • 文系

の人たちは、きっと、帝国陸軍

  • 原爆の開発に成功する(いや、もうその直前まで来ている)

という、軍人たちの話を「信じて」いたんじゃないのか。だから、彼らは、敗戦直前まで、国民に天皇のために死ぬことを鼓舞することができたのではないか。もう少しで、

  • 日本は勝利する

のだから、だから、今は我慢しろ、と。しかし、この期待は、戦後、日本の原爆開発が

  • まったく進んでいなかった

という現実を知ると同時に、その原爆をアメリカが日本に使ったということを知って

  • 幻滅

をしたと同時に、彼ら好戦派は大学を辞めると同時に、アカデミズムから一線を退くことで、この「責任」をとったわけであろう。
なぜ日本は戦争を止められなかったのか? その原因を、この映画は「ポピュリズム」だと言う。日露戦争の勝利による「戦利品」が大衆に

  • もっと「うまい物」をくれ

の願望に火をつけてしまった。こうして、野蛮化した大衆を、誰にも止めることはできなかった。だとするなら、問題をその「負け方」にあった。どうやって、コテンパンに負けることによって、この大衆の

  • 幻想

を打ち壊すことができるのか。
こういった問題は、そもそも60年代の全共闘世代には共有されていた問題だった。彼らが直面していたのは「戦争責任」であった。戦後が開始して、少しずつ復興が始まっていたとき、相変わらず、戦前の戦犯扇動の教師が、のうのうと大学の職にしがみついていたことに対して、彼らは

  • NO

をつきつけた。そしてこの運動は「必然的」に

  • 彼ら自身

に向かうことになる。それが、連合赤軍事件だ。彼らが言ったのは

  • 自己否定

である。なんのことはない。お前らの親であり、その親の「地位」を引き継いだお前こその「戦争責任」はどうなるんだ、と問い詰めたわけである。すると、彼らは見出さずにはいられない。自分の

  • ルーツ

には「加害者」の血が流れていることに。このことは、最近のネット上での進歩派左翼が「天皇批判」をしていたわけであるが、このまるで「他人事」感こそが、戦後の堕落なわけであろう。お前の親だって、積極的に、この戦争に加担した、

  • 人殺し

であり、残虐な行為を行った「責任」があるじゃないか、と。だから、連合赤軍

  • リンチ

はより過激になって、その糾弾はより過激になり、ほとんど自殺と変わらない、内ゲバによる死者を必然的に生み出すことにもなったわけで、そういう意味では、この議論は

  • いつか来た道

なのだ...。