パブリックアートの矛盾

津田大介はブログで、今回の件について、今の段階で公表できる範囲での

  • 総括

を行っている。しかし、これは「アカウンタビリティ」ではない。そもそも、私たちが聞きたいことに答えていない。自分が「話したい」話題について、デリケートに語っているというだけで、なぜ彼は

  • 記者会見

を行わないのだろうか? 多くの記者から、多くの質問を受けて、そしてやっと「全体像」が見えてくるのではないか。

「表現の不自由展・その後」は、2015年の冬に行われた「表現の不自由展」を企画した表現の不自由展実行委員会(以下「不自由展実行委」)の作品です。公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する「表現の不自由展」のコンセプトはそのままに、2015年以降の事例も加えて、それらを公立の美術館で再展示する。表現の自由を巡る状況に思いを馳せ、議論のきっかけにしたいという趣旨の企画です。トリエンナーレが直接契約を結んだ参加作家はこの「表現の不自由展実行委員会」です。そのため、トリエンナーレと「表現の不自由展・その後」に作品を出品したアーティストとは、直接契約していません。
僕は、2018年の5月10日(木)にキュレーター会議でこの展示を再び展示することを提案しました。そして1カ月後の6月10日(日)に、たまたま映画『共犯者たち』を東京で上映するイベントを主催していた「表現の不自由展」実行委員会の方に、映画を観た後にお声掛けしました。
その後、12月6日(木)に、Facebookを通じて正式に依頼しました。2019年2月28日(木)と3月18日(月)の打ち合わせの段階では、僕から不自由展実行委に《平和の少女像》については様々な懸念が予想されるため、実現が難しくなるだろうと伝えていました。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

津田は、まず、「表現の不自由展・その後」が、あいちトリエンナーレの中の一つの「作品」だと言っている。津田が行ったのは、この作品を展示させてくれ、ではなく

  • (以前別の場所で展示された作品のモチーフを踏襲した別の)作品を新しく作ってくれ

という依頼であって、結果的にできあがった作品については、これを「出展」するかどうかの判断については、(さまざまな懸念点があるため)最後まで揺れていた、と言っている。
しかし、他方で以下のようなことも言っている。

僕は、「あいちトリエンナーレ2019」の芸術監督として、いくつかの作品を加えるよう提案し、そのうち、小泉明郎さん、白川昌生さん、Chim↑Pomの3作品が展示されることになり、最終的に、16作家による作品を展示することになりました。また、僕の提案で、表現の自由が侵害された事例の記事や年表など、資料コーナーも用意することにしました。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

津田は、ある作品の制作を依頼する立場として、一定の「方向性」において自分たちの要望を述べていた。それに対して、上記の引用にあるように、その要望はある範囲において受け入れられている。しかし他方において、拒否されたものもある、と言う。そして、その拒否の理由が「検閲」だからだ、と。
私には正直、よく分からないのだが、ある作品の「制作」を依頼して、その依頼した側が、できあがった作品が

  • 自分たちにとって受けいれられない

と言われて、結局「買ってくれなかった」といったことは、しばしば、IT業界のようなところではある。その場合は、そもそも「品質が悪い」とか、「致命的なバグがあって使えない」とか、状況が変わったとか、いろいろな理由があるだろうが、その場合に、まず考えるのが、

  • 裁判

であろう。制作サイドが買ってくれなかった相手を訴える。なんで「あなたちの言った通りに作ったのに買ってくれないんだ」と。
しかし、この場合は、そもそも製作者サイドが、依頼主の「要望」を

  • 拒否

している側面がある。だとするなら、なぜそういった作品をそれでも「買う」と決断したのかについての合理的な理由の説明が必要なように思われる。

宮台真司さんからは、「矛盾する二側面を両立させるには工夫が必要ですが、今回はなかった。『表現の不自由展』なのに肝心のエロ・グロ表現が入らず、『看板に偽りあり』です」とのご批判をいただきました。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

いやw 違う違うw 宮台はもう一つ、重要な問題を提起している。つまり、そもそも

という概念が

  • 矛盾

なんじゃないのか、と。

ただ、今回の問題の本質は、税金が使われて公共の場で展示される「パブリックアート」の矛盾です。
宮台真司さん「津田大介氏は未熟過ぎ、騒動は良い機会」 [表現の不自由展・その後]:朝日新聞デジタル

驚くべきことに、津田は宮台の上記の引用にある点については即座に反応しておきながら、他方で、この指摘の方を意図的に無視している。

それらの前提を踏まえ、僕個人としては全体を統括する芸術監督という立場上、作品の選定による現場への影響を考慮し、最終決定をすべきだったという考え方もあると思います。とはいえ、事情は複雑で、そもそもの企画が「公立の美術館で検閲を受けた作品を展示する」という趣旨である以上、不自由展実行委が推薦する作品を僕が拒絶してしまうと、まさに「公的なイベントで事前“検閲”が発生」したことになってしまいます。
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告 - 津田大介 - Medium

津田は根本的に、この宮台の問題提起を分かっていない。もしも「表現の不自由展・その後」が「表現の不自由展実行委員会」の作品なら、この「あいちトリエンナーレ」は

なのではないか。だとするなら、総監督の津田の意図が反映されない「表現の不自由展・その後」という作品が

  • 津田は<出展させたくない>

と言っているのに、彼が「出展させないわけにはいかない」と考えているとするなら、その圧力は

ということにならないか?
宮台はこれを「矛盾」と言っている。なぜ津田は自分には「表現の不自由展・その後」の出展の選択の権利がないと考えたのか?
そもそも「検閲」とは、もともとは公権力が個人の表現を「規制」するという意味であろう。だとするなら、なぜ一般市民でしかない津田の行為が検閲に「なる」と、津田は考えているのか?
宮台が言いたいのは、お金を払っているのが公権力であり、美術家はその公権力という「依頼者」の要望に答えて作品を作っているのに、なんで公権力の

  • <自分が望んだ>作品を作ってほしい

という依頼が、まっとうに成立せず

  • 検閲

扱いとなるのか、というパラドックスなわけであろう。つまり、宮台は「パブリックアート」は成立しない、と言っているのだ! 芸術を作って、それを発表したいのなら、公権力からお金をもらうな。公権力からの依頼で作品を作るな。あくまで

  • 民間のお金だけでやれ

と言っているわけであろう。
津田は分かっているのだろうか?
この一連の過程で、一貫して「おかしい」のは、津田の態度なのだ。一方で「表現の自由」を言いながら、

  • それ<が>

パブリックアートなんだ、と言うから、じゃあ「どっち」なの? と聞かれて、この自己言及的な問題に答えられずに、思考停止になって、一方的に自滅している。むしろ、津田が行うべきなのは、今回の美術展のテーマを

  • 表現の不自由

という「間違った」ものから、

という「正しい」問題提起に変えなければならない。テーマが「間違っている」から、必然的に、間違い続けた判断を繰り返すことを、逆に、津田は自ら強いられ、追い込まれている...。