「リサーチ・プログラムとしての適応主義」という主張をどう考えるか?

文系の人たちが書く、「進化論」の本の特徴は、

における「ドーキンスの勝利」については、不必要なまでにドラマチックに語りながら、なぜか

  • 適応主義

とは「何か」について、ほとんど、どこにも説明が書いていないことではないだろうか。
つまり、結局のところ、そういった文系の方が書いたこの本における「ドーキンスの勝利」なるものが、何を言っているのかが、さっぱり分からないのだ。
おそらく、彼ら文系の方にとって、それを「説明」しなければならないという必要を感じていない、ということなのではないか。それを「説明」するのは、そういった「ドーキンス派」の科学者たちであって、自分ではない。自分は、彼らがそれを「説明しているはずだ」という前提で議論をすればいいのであって、つまりは、自分は専門家じゃなくて、ジャーナリストなんだから、と。
しかし、お前が「ドーキンスの勝利」と言ったんだから、お前がその

  • おとしまえ

をつけないで、他人の言葉尻に乗ってけばいいって、ずいぶんと

  • 甘えた

言論人だなあ、と思わなくもないわけであるw つまり、あんたは「分かっていない」わけね、ってw つまり、何が問題なのかも分かっていない。
(ただ、素人向けに、このジャーナリスティックに魅力的な

  • グールドという「左翼(=人権派)」が、科学(=優生学)の「真実」に負けた

っていう事実が「(文系的に、アンチ・ヒューマニズム的に)おもしろい」といった、反左翼の立場からの「歴史的な勝利」として、彼らには見逃せない、というわけだ。)
まあ、そういったなにも「分かっていない」人たちなんて、どうでもいいっちゃあ、どうでもいいわけであるが、だったら、それを私なりに「まとめ」てみよう、と動機づけられることは、自然なことじゃないですかね。
まず(以前にも紹介したことがあるが)、「適応主義とは何か」について、かなり分かりやすく整理されている議論が、エリオット・ソーバーの本に載っている。

ある集団Xにおける個体が、ある形質Tを持つことの理由を説明する上で、自然選択はどれくらい重要なのだろうか。われわれはこの問いについて、以下の三つのテーゼを区別することができる(Orzack and Sober 1994)。

  • (U) 自然選択は、Xに至る系統におけるTの進化に際して、何らかの役割を果たした。
  • (I) 自然選択は、Xに至る系統におけるTの進化にとっての、重要な要因の一つであった。
  • (O) 自然選択は、Xに至る系統におけるTの進化にとっての、唯一の重要な原因であった。

(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

このことから、以下のように適応主義を定式化するのが適切だということになる。

  • 適応主義:ほとんどの集団におけるほとんどの表現型の形質は、選択を記述して非選択的な過程を無視するようなモデルによって説明することができる。

これは(O)を一般化したものである。同様に、(U)や(I)についての一般化も可能である。(U)の一般的な形式は、自然選択は偏在している(ubiquitous)、というものとなる。この主張はそれほど議論の分かれるものではない。(I)の一般化は、それよりも幾分実質的な内容を含むが、多くの反適応主義者はそれを否定しない。例えば、先述したグールドとルウィントンの論文(ould and Lewontin)は、確かに適応主義に対する最も広く知られた攻撃ではあるが、そこで著者たちは次のように述べている。「ダーウィンは、(われわれと同様)選択を進化のメカニズムの中で最も重要なものであるとみなした」。(O)を一般化した形式こそが問題の核心である。、と私が示唆する理由はここにある。
(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

先の定式化の「ほとんど」という言葉の一方、あるいは両方を「すべて」に置き換えると、適応主義のより強い解釈が得られる。この置換の結果、適応主義の反証可能性が高くなるだろう(2・7節)。もし適応主義が、あらゆる集団におけるあらゆる表現型の形質を説明するのに自然選択は十分である、という主張だとするなら、それを論駁するのにはただ一つの反例で十分だろう。しかしながら、この強い形式のテーゼを支持しようという生物学者はほとんどいないだろう。
(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

まず、ドーキンスなどの「適応主義」と、ダーウィンが本で主張した、進化論がまるで同じものであるかのように語ることは許されない。その例として、聖書とダーウィンの主張の比較で考えてみよう。聖書は神が生物を造った、という主張である。だとするなら、その反例が

  • 一つ

でも存在することを示せれば、それで証明は完成する。そういう意味では、ダーウィンの主張は十分に聖書の「反例」であると解釈できた。
対して、上記の「適応主義」の主張を見てほしい。そこには、

  • ほとんど全て

という条件があることが分かるであろう。つまり、これは

という意味で、ポパーの意味での「科学ではない」ということになる。では、何か? それを、科学哲学者たちは

  • リサーチ・プログラム

と呼んできた。

適応主義は、何はさておきリサーチ・プログラムである。その中心的な主張は、もし個別具体的な適応主義的仮説が十分に確証されたものとなったならば、支持を受けるだろう。もしこうした説明が失敗を積み重ねるならば、科学者たちはやがてその中心的な前提に欠陥があるのではないかと疑い始めることとなるだろう。骨相学は、これと同じ力学に従って盛衰をたどった(2・1節)。時間とハードワークのみが、適応主義がそれと同じ運命をたどるべきものなのかを告げてくれるのである(Mitchell and Valone 1990)。
(エリオット・ソーバー『進化論の射程』)
進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)

この意味は二つある。まず、ある「反例」と思われるケースが発見されたとしよう。そこで、「適応主義者」は

  • あきらめない

わけであるw 「きっと、はるか未来においては、この事象を適応主義で説明できるモデルが発見されるはずだ」と考えるわけである。つまり、

  • 絶対負けない

わけであるw
しかし、もしかしたら、あまりにも「自明」なまでに、適応主義を満たしていないように見えるケースが発見されたとしよう。すると、彼適応主義者はなんと言うか。

  • でも、「ほとんど」成立しさえすればいいんだから、その一つのケースだけなら「セーフ」w

まあ、こっちにおいても

  • 絶対負けない

ってわけだw
うーん。なんでこんなことになるのだろう?

ラカトシュは「リサーチ・プログラム」という概念で科学的営みを説明しようと試みた。これは、ポパーの哲学とクーンの科学史の折衷案のようなものである。ラカトシュには、一連の科学的発見のプロセスには、守るべき「ハード・コア」と、その周辺の防衛帯(プロテクティヴ・ベルト)から構成され、防衛帯の部分が浸食されても、ハード・コアの議論が維持されるように、仮説が修正されたり、理論が維持されたりする。そして、ハード・コアの議論が崩壊するような事実が示されると、初めて重要な科学理論が転換され、世界の見方が一変するのである。
この議論の問題は、ラカトシュらが苦闘したにもかかわらず、なにをもって「ハード・コア」とするのかは、ハード・コア理論が実際に崩壊して見るまで予測はできない、ということである。ラカトシュの議論は、歴史の叙述としては意味があっても、原理を探求する哲学、あるいは予測のための理論としては難があると言わざるを得ないわけである。
「科学論は科学とはなにかを決められるのか?」、あるいは科学の「線引き」という問題について|天使もトラバるを恐れるところ

上記の引用にあるように、そもそもこの「リサーチ・プログラム」という用語は、彼ら科学哲学者の中では、評判が悪い。というのは、この概念自体が

  • 非科学的

と呼ばざるをえない性格をもっているからだ。「リサーチ・プログラム」とは「ハードコア」の

  • 存在命題

である。しかし、それが「何か」について、どんなにがんばっても、それを「事前」に言うことができない。つまり、それが「あった」ということは、あくまでも、実際に、その理論が「否定」されないと決定しないのだ。つまり、どういうことか? リサーチ・プログラムは、科学が求められる

  • 予言可能性

をもっていないという意味で、「非科学的主張(あくまでも、哲学的饒舌でしない)」ところが問題とされているわけである。
そうやって世の中を見渡してみると、このリサーチ・プログラムという言葉を「肯定的」に使っているのは、むしろ、素人の人たちが多いんじゃないのか、といった印象を受ける。
さて。以下のブログの方は、吉川浩満の『理不尽な進化』の主張を、大変分かりやすく、まとめてくれている。

そしてこの、自然淘汰を分かり易く説明する適者生存という概念は、トートロジーだと言うのは、しばしば、ダーウィニズムを批判する者が使うレトリックなのだが、それを逆手に取って、このトートロジーこそが、進化論という科学の研究を先に進める条件となっていると彼は言う。実際、このトートロジーの上で、生物学者は、夥しい研究を進めて来たのである。それは、そのようなものとして評価すべきである。
進化をシステム論から考える(3) 自然淘汰という概念 | 公共空間 X

進化論は、そもそも適応主義をベースにして、その上で、研究を積み重ねて来た学問だからである。どちらが正しいのかという話ではなく、また、どちらが、相手を言い負かしたかではなく、どちらが、生産性が上がっているのかという話で、そうすると、適応主義は、実績がある。最適なものが残るという前提で、様々な研究がなされ、結論が導かれる。その成果が積み重ねられて来ている。その肝心な点で、非主流派の分が悪い。彼らは、適応主義に代わる、あるいはそれを超える、リサーチ・プログラムを提出していない。
そしてもうひとつの勝敗を決する観点は、その理論の包容力であり、前章で、私が述べたように、グールドの指摘は、ネオ・ダーウィニズムを緩やかなものにすれば、ネオ・ダーウィニズムの枠組みに収まる。
進化をシステム論から考える(3) 自然淘汰という概念 | 公共空間 X

ドーキンスたち主流派は、この適応主義を、科学の方法論として、割り切って使っている。そうして夥しい研究成果を上げている。しかしグールドにとって重要なのは、そうしたエンジニア的発想ではなく、歴史なのである。進化論が対象とするのは、この世に存在する、またはかつて存在した生物とその歴史なのである。
そして、歴史において、重要なのは、偶発性である。生物進化は偶発性に左右される。それこそが、生命の歴史を歴史たらしめている。
進化をシステム論から考える(3) 自然淘汰という概念 | 公共空間 X

ここで少し考えてみてほしい。ある科学者が、実験室で、遺伝子操作をして、多くの自然界には見出せない、生物を「製造」したとする。そして、それらのどれかが、それ以後、地球上に何千年と生き延びたとする。この場合、その遺伝子構成を造ったのは、その科学者ということになる。つまり、進化論的な「淘汰」を経ることなく、ある生物が何千年と生き延びた、ということになるだろう。これは、適応主義の

  • 反例

になっているだろうか? いや。おそらく、こういった種類の主張に対して、上記のような、文系の「ドーキンスの勝利」主義者たちは、

  • それは「自然じゃない」

と言って、例外扱いを求めるだろう。しかし、そもそも「自然である」と「自然じゃない」って、どこに線があるの? どうなれば「自然」なの? 私が

を使う人たちを軽蔑しているのも、ここに理由がある。
グールドが言っていることは、とても単純である。つまり、進化論は

だって言っているんだ。つまり、彼は「事実性」を問題にしている。この、あまりにも自明な主張に対して、ドーキンスなどが言っていることは、ちょっとよく分からない。
適者生存とは「トートロジー」だって言っている意味はそういうことであって、なんにも難しくない。歴史なんだから。
それに対して、吉川先生がどういった理屈で、適応主義を

  • 肯定

しているのかは、上記の引用が分かりやすいが、そもそもそれが

  • 科学として「優位」だからと言っていない

わけである。たんに、「生産的」「科学の手法として割り切って使っている」と述べているだけで、つまり、なにか

  • 文学的な修辞

を連ねているだけで、実は「何も言っていない」わけであるw この「生産的」「科学の手法として割り切って使っている」は、言ってみれば

  • リサーチ・プログラムとして、今までのところ、科学者たちが「ドーキンスの定式化」を使った論文を多く書いてきた

という「事実性」の説明をしているだけで、なんの科学としての「優位性」を証明していない。
つまり、どういうことか?

グールドは、進化のメカニズムを問わなかった。遺伝子の突然変異と自然淘汰というネオ・ダーウィニズムに、確かに文句を付けた。しかし、2015年現在、遺伝子の突然変異が直接、進化の原動力になっているとは誰も思わない。遺伝子の突然変異があり、しかし、重要なのは、その遺伝子の使い方であり、また遺伝子そのものではなく、DNAの総体としてのゲノムが問題であり、または、遺伝子を含む分子ネットワークが問題だ。そして一方、自然淘汰の方だって、相当に緩やかなものに、つまり、最適者が生存するのではなく、特に有害なものは生存できないという程度に、その原理は拡張されている。だから、今の水準で見ると、グールドの文句は正しく、しかし、それを自然科学の言葉で彼は説明し得なかった。一方、ドーキンスは、明確に、自然科学の言葉で、進化を説明した。そしてドーキンス以降、自然科学としての進化論は、その自然淘汰概念を拡張して行った。そしてついに、グールドの主張の正しさを、ドーキンスのあとを受けた主流の生物学者が、説明し得るようになったのではないか。
進化をシステム論から考える(3) 自然淘汰という概念 | 公共空間 X

上記はこのブログの方の、この記事での結論部分であるが、ようするに何を言っているのかというと、上記で検討した

  • 適応主義

が「脅かされる」事例が増えているんじゃないのか、っていう、まっとうな主張なわけであろうw まあ、当たり前なわけである。
例えば、ある科学者が、かなり意図的に世界中の生物の中の、幾つかの種を選別して、絶滅させたとしよう。そして、それによって別のある種が、その後、何千年と生き延びたとする。そのとき、その「選択」を

  • 適応

だという馬鹿はいないだろうw まさに、人間による「選別」なわけだが、きっと「適応主義者」の人たちは

  • なぜその科学者がそのようなことをやろつと思ったのか?

とか、いちいち詮索を始めて、「それらしい」進化論的な説明(という名の「はったり」)を、<発明>するのだろうw しかし、ね。この、馬鹿馬鹿しさ、分かりますかね?
いや。ある適応主義者は、それは「反則」だ、とか言い始めるかもしれない。それは「自然」じゃない、とか。でも、なんで人間に起こすことができることが、「自然」にはできない、と思うんだろうね。人間だって「自然」なんですけどw
結局さ。何に私がいらだっているか、分かりますかね? もちろん、上記の引用にもあるように、ドーキンスもルウォンティンも、ダーウィンの進化論が説明したようなケースが

  • 存在

することになんて、なんにも反対していないわけ。そうじゃなくて、適応主義者がそれを「ほとんど全て」と言い始めたことに、いらだっているわけでしょう。しかし、ここでの「ほとんど全て」って何? その「確率空間」は何?
例えば、上記の科学者の例で、もしもその科学者が「ほとんど全ての地球上の生物の種を撲滅した」としよう。その場合、その少し残った生物にとっての、上記の適応主義の「確率空間」が

  • ほとんど全て

満たすって、何を言っているんだろうねw
まあ、こういった状況を、上記の最後の引用の方は、

  • 自然淘汰の方だって、相当に緩やかなものに、つまり、最適者が生存するのではなく、特に有害なものは生存できないという程度に、その原理は拡張されている

と言っているわけだ。

グールドは偶然性を強調する。一方、ドーキンスは、まだ、この段階の理論がそうであるように、それほど偶然性を強調していない。
進化をシステム論から考える(3) 自然淘汰という概念 | 公共空間 X

まあ、さ。私の批判を少し「ひかえめ」に代えさせてもらうなら、ドーキンスが最初に「適応主義」を礼賛し始めたとき、つまり「利己的な遺伝子」と主張したとき、そもそも彼の主張に、グールドの主張の主題であった

  • 偶然性

の要素なんて、まったくなかったわけだ。つまり、ここには「歴史的な隠蔽」がある。実際に考えてみても、もしも「適応主義」における

  • ほとんど全て

がもしも「<ほとんど>じゃなかった」なら、それを「利己的な遺伝子」という「比喩」で呼ぶことは「正しかった」のかが、私には疑わしいわけであるw うーん。そういった観点で、この「利己的な遺伝子」という「比喩」を、正面から批判した本って、どこかにあるのかなあ?