映画「パラサイト」についての素朴な感想

まあ、前から、今週の月曜か火曜に、映画「パラサイト」を見ようと思っていたんだが、火曜日に賞をとってしまったこともあって、混雑するのかなと思ったわけだが、まあ、混んではいたが、普通に見られた。
この映画については、私はまったく予備知識なしで見られた。そのため、素朴に、おもしろく、興味深く見られたわけであるが、少し思わなくはない。
まず、韓国の資本主義が日本と比べても、より過激な形で貧富の差が拡大していることについては、以前紹介した韓国の今を紹介した新書でもふれられていたので、あまりそこにカルチャー・ショックは受けなかった。
私が違和感を覚えたのは、例えば、映画「万引家族」との比較においてであろうか。この二つを比べると、とても似ている。おそらく、「パラサイト」の監督は、この「万引家族」を真似すれば賞をもらえると思って、その発想をパクったのだろう。しかし、「万引家族」は、言ってみれば

  • エンターテイント映画ではない

んだと思う。どこか、純文学の小説を読んでいるような感じだった。対して、「パラサイト」は、ブラック・ユーモア映画と言われているように、終始、エンターテイメントとして、「楽しめる」、見ている人を「あきさせない」配慮がされているように思われる。
また、映画「ジョーカー」では、富裕階層を貧困階層が、革命によって、ぶっつぶす、といった光景が描かれていることから分かるように、多分に今の、資本主義社会を変革していこうといった意思が感じられた。しかし、「パラサイト」は、後半で、家政婦を追い出して、金持ちの家にパラサイトした家族と、その追い出された家政婦と、その夫という、同じ貧困層同士の家族が

  • 同士打ち

をする形で、つまり、「貧困層同士が仲が悪い」という描写をすることによって、この富裕層と貧困層の関係を、根本的に変革していこうといった、映画監督側の意思は感じられない。
特に私が違和感をもったのは、後半が支離滅裂に映ったことだ。なぜ、地下生活をして、外界に出ようとしないのか? それは、もしも、セキュリティとかの理由でそうなのなら、その「からくり」を説明すべきではないか? うーん。なんで、外に出ないのかの説明がまったくなくて、なにをやっているのかよく分からなかった。
おそらくこの映画がハリウッドで受けたのは、その推理小説的な、「トリック」のおもしろさなのだろう。そして、そのスパイスとして、貧困問題がとりあげられている。ハリウッドのような、富裕階層はこういった

  • 貧乏人

の話を「喜び」ますからね。彼らの「好物」なんですよね。かわいそうな人の話が「好き」で、そういった「かわいそう」な人を見て、自分が「かわいそう」と思っていることに「酔って」いる態度を、社交的な場で見せることを、一種の

  • ポリコレ

と考えている。しかし、この映画全体としては、上記で指摘させてもらったように、この貧富の差を「変革」しなければならないといった意図までは感じられないように作っているわけで、彼らの「憐憫」の感情を、心地よく満足させてくれる、エンターテイメントだったということなんじゃないですかね...。