アニメ「イエスタデイをうたって」について

まあ、アニメ「イエスタデイをうたって」は現在放送されているわけでw、その内容について言及するのは、やぼなわけだが、原作の漫画もあるわけだし、ここで、一言、書いておきたい。
(いつものように、原作であり、この先のアニメの展開を含めて、ネタばれだらけなので、ご注意を。)
このアニメを最初に見たとき、私は、アニメ「true tears」との類似点について考えた。しかし、「true tears」は2008年のオリジナルアニメであるのに対して、「イエスタ」の原作は、1998年に連載がスタートして、何度も休載をはさんで、2015年に完結している。ただ、作者のインタビューを読むと、連載の初期の頃には、基本的な結末については決まっていたということなので、依存関係としては、

  • 「イエスタ」の途中までのシナリオが「true tears」に影響を与えた可能性

といったことは考えられるのではないか、とは言えると思えるが、そう考えると、納得できる側面もあるのではないか、と思っている。
なぜ、私がこの二つの作品の関連性に、しつこく書いているかというと、アニメ「イエスタ」の最新第8話を見ていて、このシナリオの、ここまでの展開に、

  • 疑い

をもったから、なんですねw つまり、なんか、アニメ「true tears」に似ている、と。つまり、

  • 悪い予感

ってやつですw そこで、急いで、原作の最終の10巻、11巻を読んで、むしろ、その対応関係が

  • 逆転

している、ことに、つまり、アニメ「true tears」が、

  • ビッチがヒロインに勝つ

展開の「鬼畜アニメ」だとするなら、「イエスタ」は、その逆の、まさに正統派の「ハッピーエンド」なんだよな、ということを再確認させられた、と。
もう少し、その関係を説明していくと、アニメ「イエスタ」の第8話で描かれたのは、主人公のフリーターの陸生と、彼の大学時代の友達の、高校教師の榀子が、最近、陸生が榀子にプロポーズしたが、断られた、という関係だったのだが、榀子は高校教師仲間との飲み会で、陸生は同窓会で、それぞれ

  • 恋愛奥手

なことを嘲笑され、挑発されて、ほとんどその「反動」で、榀子が陸生に「やっぱり付き合ってもいい」みたいなことをにおわせる展開になっていて、なんだその

  • ビッチ

はw、っていう感じで、アニメ「true tears」の比呂美の「ビッチ」ぶりとの相関性を感じさせられて「嫌な予感」を感じた、といったいきさつだった。
ただ、考えてみると、この作品は、

  • その最初で、まず、晴は、榀子先生の生徒だったが、晴は、いきさつはどうであれ、その高校の中退をしているわけで、つまりは、なんらかの榀子先生にとっての「挫折」であり「負い目」が、作品の主題になっていない時点で、ヒロインが晴であることは予想できた。
  • 榀子先生と陸生は東京の大学なわけで、ただ、榀子先生は金沢で非常勤講師をしていたけど、東京に戻ってきた関係になっていて、言うまでもなく、その間に陸生と連絡をとっていたわけでもないのだから、急にお互いが近所の関係になったからって、そこから恋愛の「必然性」を演出しようというのは、どこか無理があった。
  • 上記の榀子は高校教師仲間との飲み会での場面で、榀子が亡くなった子どもの頃から憧れていた人の話から、彼女が「今でも処女」ということを「嘲笑」されることに、ある意味で「挑発」されて、陸生で「処女を捨ててやる」的な反応を描いているわけで、まあ、普通に考えれば、こんな「ビッチ」の物語を誰が読みたいんだ、となるよな、とは思うわけだ(しかし、「true tears」のように「ビッチが勝利する」作品も過去にはあったりするわけだからw、少しも油断はできないわけだがw)。

ということは言えるのではないか、と思っている。
あと、アニメ「true tears」との関係で書いておくと、

  • 晴はカラスを飼っている設定であり、乃絵はエキセントリックな行動をする少女として警戒されていたわけで、こういったヒロインの設定は多分に意識して、真似たんじゃないか。
  • true tears」では、眞一郎の比呂美の恋愛関係は、お互いが「DNA的に血縁関係なのか」が、<条件>となって、まさに「YES/NO」が逆転していたという意味では、馬鹿馬鹿しい「クズ作品」だったわけだが、「イエスタ」では、それが、榀子先生と浪という、「亡くなった想い人の弟」であり、なおかつ、榀子先生にとっての「年下男性」との恋愛を「ハードルを超えて」示唆して終わった、という意味で、作者の志の差が分かるのではないかw
  • true tears」の乃絵が眞一郎をあきらめる「理由」は、「眞一郎の心の底に比呂美がいる」という、<存在論>に依拠していたわけだが、「イエスタ」において、晴の陸生に対する態度は、一貫していた。他の男に言いよられても、陸生への今の自分の気持ちが変わっていないからと断り、陸生への気持ちを忘れられないがゆえに、実家に帰ってさえいる。まあ、ここまで片思いを「長く」続けることの現実味はあるとしても、作品としての志の面で、どう考えても、後者の方が立派だと言わざるをえないんじゃないか。

あのさ。前から思っているんだけれど、そもそも「存在論」って、

  • 文系の「哲学者」

が「勝手」に考えだした、文学的な「修辞」でしかないんだよね。

  • 眞一郎の心の底

とかさ。ほんと、糞喰らえでしょうw そんなこと言ったら、世の中、「幼ななじみカップル」しかありえない、と言っているのと変わんないわけだw なんなんだろうね、この腐った恋愛観w そんな簡単に「存在」とか言うんじゃねえよ。いいじゃねえか。プロポーズすりゃあ。それで、OKならOKなんだし、NGならNG。それ以外ない。まあ、それが人生なんじゃねえの? 相手の「心の中」だとか、そんな本人が「言ってもいない」ことを中心にして、なんで世界が回らなきゃいけないの?
そういう意味で

  • 野中晴(のなかはる)

は最初から最後まで、「最高」の人間として描かれているところに、まさに「true tears」との志の差を感じてしまうんですけど、なんなんですかね...。