ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』

現在、世界中は、新型コロナの問題でかかりきりであるが、少し前まで、アメリカは

を中心とした、

が、まるで「聖典」であるかのように、国中を席巻していた(最近出版されて、本屋でも売っている、ニック・ランドという白人優越主義者の書いた『暗黒の啓蒙書』という本も、完全に「リバタリアニズム」を「自明の前提」として書かれた本である)。つまり、

  • 反福祉

であるw そして、考えてみれば、東浩紀先生の『観光客の哲学』も、いかに

が「正当」な主張で、お金持ちがどんどんお金持ちになり、貧乏人がどんどん貧乏人になる「世界」が、絶対的に

  • しょうがない

のかを「証明」するために書かれた本だったことを考えれば、この「リバタリアニズム」という

  • 運命

に人類は逆らえない、といった「説教」をさんざん聞かされてきたのが、

  • プレ「新型コロナ」の時代

だった、ということになるであろう。
しかし、当たり前であるが、アメリカでも、新型コロナの検査や治療は、基本的に国家が負担をしているようで、さんざんリバタリアニズムがどうのこうのと説教をたれていた連中って、なんだったのかな、と、今さらのように思うわけである。
ところで、そんな「リバタリアン」たちにとっての「聖典」にあたる本が、掲題のノージックの代表作なのだが、さて。この本には、何が書いてあるのか?

諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行いえないことがある。この権利は強力かる広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること----が仮にあるとすればそれ----は何かという問題を提起する。

国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以外の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。

これが、この本の最初に、序文に書いてある、この本の「結論」である。
まあ、すでに言いたいことがてんこ盛りなわけだがw、ひとまずはそれを我慢して、どういった理屈でこれらが、この本で主張されているのかをたどってみたい。
さて。彼のレトリックの出発点は何かと言えば、それはジョン・ロックの『政府二論』である。

ロックの自然状態において、諸個人は「自然法の制限内で、許可を求めたり他人の意志に依存したりすることなく自分が相応しいと思う通りに、行動を律し財産と一身を処分するについて、完全に自由な状態にある」(sect. 4)。自然法の制約は「他人の生命・健康・自由・財産を侵害してはならない」(sect. 6)と要求する。これらの制限を越えて「他人の権利に侵入し......相手を害する者がある」と、これに対応して人々は、このような権利侵害者から自分や他人を防衛することが許される(chap.3)。害を受けた当事者と彼の代理人は、「彼の蒙った損害に対する賠償となりうる限度で」侵害者から取り戻すことが許される(sect. 10)。また「誰でもその[自然]法の侵害者に対して、法の侵害を阻止しうる程度の罰を与える権利を有する」(sect. 7)。つまり、個々人は犯罪者に対して、「冷静な理性が命ずる限りにおいて、その者の侵害に比例したもの、つまり[現状]回復と[犯罪]抑制に資するだけのものを報復する」(sect. 8)ことが許され、またそれ以上のことは許されない。

ようするに、ここでジョン・ロックは、人間には(自然法としての)「財産権」なるものがあるんだ、と。そして、ノージックは、まさにこれを

としての「絶対に逆らってはいけない」聖典の教えとして、これを一言一句、絶対に矛盾のないような「世界システム」を構成するのには、どうしたらいいのか、と考えた、というわけであるw

古典的自由主義論における夜警国家は、その市民すべてを暴力・窃盗・詐欺から保護する役割と、契約を執行することなどに限定されているが、[所得]再分配的であるように見える。私的保護協会と夜警国家の中間に、少なくとも一つの社会制度を想定しうる。夜警国家のことを最小国家と呼ぶことが多いから、このもう一つの制度は超最小国家(the ultraminimal state)と呼ぶことにしよう。

夜警国家は、ある人々に他人保護の費用の支払いを強要するという限りで再分配的に見えるから、夜警国家の支持者は、国家のこの再分配機能がなぜそれだけ特別なものであるのかを説明しなければならない。

ここで、「私的保護協会」というのは、警察や軍隊を「民間」が行うような組織についてイメージされていて、「超最小国家」と呼ばれているのが、なんらかの「からくり」によって、人々からの「他人保護の費用の支払い」の強要が回避されているシステム、ということが分かるだろう。
さて。こういった論理的な組み立ての準備をした上で、ノージックは以下のような「筋書」において、自らの立場を主張する。

国家と認めうるようなものに到達するためには、我々は次の二つを示さねばならない。(1)私的保護協会の制度から、いかにして超最小国家が出現するのか。(2)超最小国家はいかにして最小国家に移行するのか。つまりそれを最小国家にさせるところの、保護サービスを一般に提供するための「再分配」が、超最小国家においていかにして現れるのか。最小国家が道徳的に正当であること、つまりそれがそれ自体として不道徳ではないことを示すためには、我々はまた、(1)と(2)における移行がそれぞれ道徳的に正当であることをも示さねばならない。

第二部では我々は、最小国家よりも強力で包括的な国家は、正しくもなく正当化可能でもない、それゆえ第一部が行なう正当化は、可能な正当化の全部なのだ、と論じる。

ここまで読んできて、さんざん分かったと思われるが、ノージック

  • 反国家

じゃないのだw 彼は「国家は必要」と言っているわけである。ここで、私たちは「リバタリアニズム」が、そもそも

  • 国家に「寄生」している思想

であることを思い出す必要がある。リバタリアンは「国家はダメ」と言っていない。その上で、

  • 僕(ぼく)たちが「恣意的」に選んだ「ルール」に従う国家以外はダメ

と言っているに過ぎないわけである。
つまり、問題は

  • なぜ「それだけ」を選ぶことが正当化されるのか?

の問題でしかなかった、という、一気に「しらけ」てしまう主張だった、というわけである。
そして、上記を読んできてお分かりのように、彼らが「選んだ」

  • 絶対に破っちゃいけないルール

なるものは、そのものずばり、

でしかない、という「落ち」だった、というわけである。
例えば、彼らリバタリアンにとっての「錦の御旗」である、ジョン・ロックの『政府二論』には、そもそも「抵抗権」についての記述がある。

それに対して、私は、実力をもって抵抗すべきはただ不正で不法な暴力に対してのみであり、誰であれそれ以外の場合に抵抗を行う者は神と人間との双方から正当な非難を受ける、従って、そばしば示唆されるような危険な混乱が生じることはないであると答えよう。
ジョン・ロック『政府二論』第18章 暴政について 二〇四)
完訳 統治二論 (岩波文庫)

いや。これだけじゃない。ロックは、そもそも「国家の解体」についても論じている。つまり、ある国家が、

  • 二つに分割される

ことであっても、「正当化」されるし、それ以外のさまざまなパターンもありうる、と主張している。
なんだか、ノージックの議論の出発点にあった、ジョン・ロックの「財産権」の話と矛盾しているんじゃないのか、と思ったんじゃないか。いや、実際に矛盾しているわけであろう。では、 なぜ矛盾しているのか? それは、そもそも国家は

  • どうやってできたのか?

についての認識が、ここでのノージックの議論と、まったく違っているからだ。

道徳上許される行為と許されあに行為について、およびどんな社会にも、このような道徳上の制約を犯す人々がいる根深い理由について根本的かつ一般的に叙述することから始まり、その自然状態から如何にして国家が生成するかの記述へと進むような自然状態論は、たとえそのようにして生れた国家が現実にはなくとも、我々の説明上の目的に資することになろう。

我々は、国家が如何にして生成し得るかを知ることによって、たとえ国家がそのようにして[実際に]生成したことはなくとも、そこから多くのことを学ぶのである。

ようするに何を言っているのかというと、上記でさんざん語られている、ノージック最小国家の「正当化」の議論は、

  • 今ある国家が「どうやって」できてきたのか?

を説明するものでは「ない」と言っているわけである。つまり、こんな国家は、一つとして「ない」のだ!
うーん。
ここで、多くの人たちは、一つの疑問に辿り着くのではないか。つまり、

  • 今ある国家は「どうやって」できたの?

と。なぜ、今ある国家は、できたのか。どうやってできたのか。この「からくり」の解明なしに、ノージックが上記で語った「恣意的」な選択が

  • なぜ

正当化されうるのか、を説明されうることは、根源的にありえないのではないか?
例えば、今回のアメリカでの黒人によるデモや暴動について、以下の黒人のジャーナリストの方は、こう言っています。

テレビで警察署に火炎瓶を投げつけているアメリカ人を見る時、あなたがそこに見ているのは、ブチ切れてしまった時のあなた自身です。自分が税金を払っている「国家」の職員によって自分の子供がユーチューブ上で窒息死させられて、相手に「すまない。でも黄色い肌だし、ずるい犯罪者みたいな細い目だったから、てっきり…」とか「ごめんな、まあ間違いってあるしさ」とか言われたとしたら? どう考えても、あなたとあなたの周りのみんなはその日から、最低でも「国家」とその政策たちに疑問を持ち始めるでしょう。さて、この種の悲劇が何度もくり返されたとしましょう。「恐ろしいけど、よくあること」になったとします。そうなったらきっとあなたも火炎瓶を作り、投げ始めるでしょう。そうならないなら、パンツの中をチェックして、それかレントゲンを撮った方がいいです。
知らないうちに、去勢手術を受けているかもしれません。
黒人記者が語る「抗議デモ」と「人種主義」 | アメリカ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

これに対して、東浩紀先生はツイッターで以下のように「説教」をしています。

略奪は悪くない、暴力はやむをえないという主張がリベラルから堂々と出始めていることはとても危険なことに感じる。
「略奪は悪いことだが、問題の本質はそこではない」 暴徒化する抗議デモに理解を示す米社会(WWD JAPAN.com) - Yahoo!ニュース
@hazuma 2020/06/04 20:10

もしも東先生が「説教」をしたいなら、こういった「黒人」の方に

  • 向かって

説教をされればいいのではないでしょうか? そもそも「リベラル」とか「左翼」なんて、どこにいるんでしょう? リベラルや左翼が言ってきたのは

  • 当事者主権

だったわけでしょう。「当事者」の方たちが言っていることに対しては、一定の「尊重」をする、ということです。東先生はそれは「間違っている」とおっしゃっているんですから、どうぞ、黒人の方々のところに行って、「あなたたちの言っていることは間違っている」と、堂々とおっしゃってもらえませんですかね。それをやらないで、どこにいるのかもわからない「リベラル」「左翼」にお説教をしている姿のどこが「啓蒙」なんでしょうか?
さて。上記では、私は、さまざまにノージックの「最小国家論」について、問題点を指摘してきたわけですが、日本における、リバタリアニズムの代表者である、森村進先生の本では、そもそも

  • 最低限の福祉

リバタリアンは「認める」、といった議論をしていることを、紹介しておきましょう。

福祉国家が前節であげたような深刻な欠陥を持っているにもかかわらず、アナルコ・キャピタリストと呼ばれるようなラディカルな論者を別にすると、大部分のリバタリアンは、国家が法秩序や警察や国防といった公共財だけでなく、最小限の社会保障サーヴィス(これは個人的に消費されるから公共財ではない)をも供給することを容認する。
森村進リバタリアンはこう考える』)
リバタリアンはこう考える: 法哲学論集 (学術選書)

多くのリバタリアンが政府によるある程度の社会保障に賛成する理由はどこにあるのか? 一つの有力な理由は、確かに個人の自由は大切だが、それも命あっての(さらには、最低限の生活あっての)物種であって、後者の方が人間にとって一層基礎的で不可欠の利益だ、という発想だろう。
たとえばロレン・ロマスキーは「他のプロジェクトの追求者たちの共同体の中で諸個人がプロジェクトの追求者として生きていくために必要なものは、一次的には自由だが、その事実は、極端なケースを救うセイフティ・ネットの必要性を排除しない」(Lomasky [1987]p.128)と言うし、稲葉振一郎は「人間の生命の有限性、死を避けられないということと傷付きやすさとが、生存の保障、(少なくとも最小)福祉国家の正当性を裏付けている」(稲葉[一九九九]三〇七頁)と主張する。最近橋本祐子もロマスキーの説の影響下、人をプロジェクト追求者として尊重する以上は単に消極的自由権だけでなく、プロジェクト追求に必要な最低限の福祉への権利も認めるべきだとして、「最小福祉国家」を提唱している(橋本[二〇〇八]特に第五章。及び橋本[二〇一〇]も見よ。前者では私見の検討もなされている)。
つとにリバタリアニズムの始祖であるロックも、「正義が万人に自らの誠実な勤勉の産物と先祖から伝えられてきた正当な獲得物への権利を万人に与えるように、慈愛は、他に生きていく手段がない場合、極端な欠乏から自らの救うだけの分の他人の余剰物への権利を万人に与える」(『統治二論』第一論第四二節)と言っていた。
森村進リバタリアンはこう考える』)
リバタリアンはこう考える: 法哲学論集 (学術選書)

なんのことはない。リバタリアンの錦の御旗であるジョン・ロックがすでに

  • 福祉は「必要」

と言っているのに、なぜかノージックは、そこを無視する。
つまり、ここで本当は私たちがやらなければならないことは、

  • なぜノージックは、ジョン・ロックの「多く」の(時には矛盾しているかと思われる)さまざまな主張の中から、財産権「だけ」が、人類が守らなければならない「絶対的」「道徳」だと主張したのか?

という、彼のこの「恣意的」な「選択」の

こそが、心理学的に問われなけれならない学問的な課題だ、ということを、どうも多くの人たちが分かっていないようなのだ...。