アニメ「乙女ゲームの破滅フラグしかなかった悪役令嬢に転生してしまった」の二期が決まったということで、今回の放送が一定の人気を獲得した、ということを意味しているのだろう。
まあ、作品そのものは、近年よくある「なろう」系の、ネット小説が途中から、ラノベ化したというパターンで、作品そのものも、転生ものという、よくあるパターンだ。
ただ、このアニメを見ていて、よくできているな、と思った。というのは、これが、ある種の
- 批評
的な、側面を感じさせられるからだ。
いわゆるゼロ年代批評というものでは、東浩紀先生の『動物化するポストモダン』でもそうだが、今までの「(大きな)物語」に対して、エロゲーのように、
- 多重に分岐
する、プログラムによる作品構造。また、これをさらに「徹底」させたような、艦これのような、もはやすでに、それは「物語」でさえなく、たんに「萌えキャラ」が乱立し、群雄割拠するだけで、それぞれのキャラ的な「個性」だけが「愛で」られる、そういった
- (大きな)物語の「解体」
に向かう、といった、いわゆる「ポストモダン」的な「批評」が大いに、もてはらされていた。
ところが、この「はめふら」では、むしろ、そういった
- プログラム「製作者」
の「意図」が批判されている。あるエロゲがあるとする。そこでは、多重に分岐した、物語が平行世界として描かれるわけだが、そこではそれを
- ルート
と呼ぶ。どのルートを行けば、どの「(ハッピーまたはバッド)エンド」に辿り着けるのか。しかし、よく考えてみれば、それは、しょせんは
- 主人公「視点」
でしかないw そして、そういった「自意識の肥大」は、まさに、ゼロ年代批評の特徴であった。自らを「おたく」と呼び、その自らの「自意識」が傷つかないことを前提として、世界解釈をする。しかし、これほど
- 暴力的
な態度はないわけだろう。これほどの「他者」を無視した、自意識垂れ流しの姿勢が、なんらかの批評性を維持できるはずがなかったのだ(そして、実際に、ゼロ年代批評であり、彼らが愛でたような作品群は一気にすたれていったわけだが)。
こういった特徴は、ナチスに積極的にコミットメントしたハイデッガーにすでに見られたわけであり、そういった
- (論理的な首尾一貫性より)自らの感情
を重視する、ポストモダンであり、(アメリカにおける)プラグマティズムの再興において、つまり、もはや世界の一切は
- 適当でいい(=保守派の言うことが、それが「御用学者的な意図から目指された」自己利益に根差したものであったとしても)
といった、「自意識中心主義」に堕していったわけだ。
しかし、当たり前だが、世界には、いろいろな人がいる。もちろん、
- 悪役令嬢
もいるw そして、上記のようなプログラム製作者側は、その主人公目線から選ばれた、どの「ルート」を辿っても、
- 必ず
その悪役令嬢は「バッドエンド」となっているルート設定をする。なぜなら、そもそも、彼ら製作者サイドは、こんな「脇役」など、どうでもいい、と、「手段」としてしか考えられてないからだ。
主人公ヒロインのカタリナ・クラエスは、はっきり言って
- 何もやっていない
に等しいw しかし、なぜか彼女と関わりあう、このゲームのメインキャラたちは、
- 自然
に彼女に魅かれていく。カタリナ・クラエスは、なにも不自然なことをしていない。しかし、ここで「不自然でない」と言っているのは、彼女が
- 転生する前の、現代の女子高生
としての「当たり前」を一貫している、という意味に過ぎない。つまり、その女子高生としての彼女が、言ってみれば「いい子」に育っている。きっと親が、たくさんの愛情を注いで育てたのだろう。
カタリナ・クラエスの影響力は、まさに儒教が説明してきた、「賢王」の資質としての「徳知」を備えている。それは、学力でも才能でもない。たんに、彼女がそのように
- 当たり前
に振る舞っているだけで、自然と「国家」が「平和」になる、そういった、「仁徳」を意味する。
しかし、考えてみよう。なぜこんなことになるのか? それは、そもそも、この「ゲーム」の構成そのものが
- 不自然
だからだ! なぜ不自然なのかといえば、そう「プログラム製作者」が「作った」からに過ぎない。では、なぜそう作ったのか? 言うまでもない。そうすることで、
- 主人公キャラ(=このゲームのプレーヤー)
にとって、より「遊興性を高める」ため、ということになる。つまり、そうである方が、その「一人称」からは、ハッピー度が高いわけだ。
でも、そんなふうに世の中が出来ているわけはないよね。
だれだって、それぞれの「視点」の世界があるのであって、そしてそこには、そこの「一貫性」がある。
カタリナ・クラエスが、次々と回りの主要キャラと関わるたびに、彼ら彼女らは、その「差異」に深い
- 内省
を強いられることになる。なぜ彼ら彼女らはそうなるのか? そこに「批評性」がある。つまり、このラノベ作者による、世の中一般に流布している、恋愛ゲームの
- (自己利益に強いられた無意識の)恣意的な作品設定
が、いかに「差別的」かつ「反社会的」であるのかを、こういった形で示唆している、いわば「外部」の視点が、これによって、獲得されている、と言えるのではないか...。
追記:
一応、アニメの最終回について言及しておくと、この「ゲーム」は、
- 友情エンド
と呼ばれる結末となっている。さて、そもそもこの「友情エンド」とは何か? 考えてみてほしい。この悪役令嬢は、「全て」のルートでバッドエンドとなるはずだった。それが起きなかった、ということは
- 何も起きなかった!
ということを意味する。つまり、すべての「ルート」を回避したがために、「何も起きないまま終わってしまった」という意味で、言わば、
- プログラムのバグ
によって、なんの事件も起きなかった、ということを意味する。しかし、「徳知政治」というものは、案外そういうものなのだろう。みんな「平和」であることが、みんな「幸せ」だ、という。当たり前だが、主人公の「自意識」を満足させるために、回りが迷惑をかけられる必要などないのだ。